第76話 父と王
「マルルークス、様・・・?」
その名が、王城の前に落ちた。
兵士の視線が集まる。
剣を向ける者はいない。
道を塞ぐ者もいない。
ただ、何人かが膝をついた。
敬意でも、許しを乞うためでもない。
立っていられなかったのだ。
「通してくれるかな」
マルスが静かに言った。
兵士の一人が、震える手で門の内側を示す。
声は出なかった。
それでも、道は開いた。
王城の中は、戦場よりも静かだった。
ただ、立っていられなくなった者たちが、そこかしこにいた。
廊下の壁際で侍女が泣いている。
文官は、命令書の束を抱えたまま床に座り込んでいた。紙の端がくしゃくしゃに潰れている。それでも、手から離せない。
近衛兵の一人は、剣を床に置いていた。
「王を・・・お守りするために・・・私は・・・」
その先は、声にならなかった。
誰も俺たちを止めない。
誰も王を守ろうとしない。
いや、守れないのだ。
自分たちが守っていたものの中で、何が行われていたのか。
その記憶が、足を縫い止めている。
マルスは黙っていた。
ただ、前へ進む。
リブも黙っていた。いつもの軽さはない。
ゾゾルは盾を背負い、周囲に目を配っている。
リアは、時折立ち止まり、倒れた者の魔力状態を確認していた。
ララレアは小さな声で「息できとるか」と何度か声をかけたが、それ以上は何も言わなかった。
エマは俺の隣にいた。
声は出さない。
けれど、歩幅だけは俺に合わせている。
玉座の間の扉が見えた。
大きな扉だ。
国の中心。
王の場所。
その前に立っていた近衛兵は、マルスを見るなり膝をついた。
「マルルークス様。中に、陛下が・・・」
それだけ言うのが、やっとのようだった。
マルスは頷く。
「ありがとう」
近衛兵の顔が歪んだ。
その言葉を受け取る資格があるのか分からない。
そんな顔だった。
扉が開く。
玉座の間に、国王はいた。
玉座には座っていない。
王冠は、玉座の上に置かれている。
腰の剣も外され、足元に横たえられていた。
王としての飾りをすべて外し、一人の老人のように立っている。
それでも、そこにいるだけで分かる。
この男が、王だったのだと。
玉座の脇には、一人の青年が立っていた。
年はマルスより少し若い。
顔立ちに、どこかマルスと似たものがある。
ただ、その目はひどく疲れていた。
『広場で観測した外套の男と生体情報が一致』
(あいつか)
広場の端で、ララレアを見ていたようにも見えた男。
今は外套を脱ぎ、王族としてそこに立っている。
なら、あの男が第二王子エニルカラコスか。
マルスの弟。
国王は、ゆっくりとこちらを見た。
「マルルークス」
「父上」
マルスの声は静かだった。
怒りも、憎しみも、表には出ていない。
しかし、何もないわけではない。
その背中を見ているだけで、そう分かった。
国王は目を閉じた。
「長い間・・・夢を見ているようであった」
掠れた声だった。
「余とは違う人間が、余とよく似た姿で、余とよく似た声で命じていた」
誰も動かなかった。
「悪法を定めた。処刑を命じた。無実の者を罪人とし、罪ある者を重用し、王の名で、この国を歪め続けた」
玉座の間は広い。
だが、その声は不思議なほどよく響いた。
「最初は、やめてくれと願った」
国王の手が、わずかに震える。
「違う。余ではない。余はそのようなことを望んでいない。そう叫んでいた。誰にも届かぬ場所で、ずっと」
エニルカラコスが拳を握った。
マルスは何も言わない。
「だが、その願いが叶わぬと知って・・・余は、いつしか目をそらした」
その一言が、玉座の間に重く落ちた。
「夢であれと願った。夢ならば、いつか醒めると。醒めぬならば、せめて見ぬふりをしようとした」
国王は、ゆっくりと顔を上げた。
「夢では・・・なかったのだな?」
誰も答えなかった。
答える必要がなかった。
王城の外から聞こえる泣き声が、その問いの答えだった。
国王は、ほんの少しだけ笑った。
笑みと呼ぶには、あまりに痛々しい表情だった。
「余は操られていた」
国王は言った。
「だが、王の名で命令は下された。王印が押され、王の兵が動き、王の法として民に突きつけられた」
玉座の上に置かれた王冠へ、視線が向く。
「民に、余は操られていたから許せと言うのか」
国王は、静かに首を振った。
そして、力強く言った。
「否!! それは、王の言葉ではない!」
「父上・・・」
エニルカラコスの声が震えた。
国王は、次男を見た。
その目から、王としての硬さが一瞬だけ消えた。
「余が生きたままでは、この国は始まらぬ」
エニルカラコスの唇が震えた。
何か言おうとして、言葉にならない。
「王は裁かれねばならぬ」
国王は続ける。
「それが民の怒りを鎮めるための生贄であったとしても。王の死だけで何も終わらぬとしても。それでも、余が裁かれぬままでは、この国の誰も己の罪と向き合えぬ」
誰も反論できなかった。
たぶん、全員が理解している。
この王を許せば、国は割れる。
操られていた者は大勢いる。
だが、王の名で行われたことは大きすぎる。
誰かが、最初に裁かれなければならない。
そして、その誰かは王でなければならない。
それが残酷でも。
それが正しくても。
息子にとっては、父でもある。
「マルルークス」
国王は、長男の名を呼んだ。
「お前を守れなかった」
マルスの表情が、わずかに歪む。
「ろくな捜索もせず死んだものとして扱った。結果、闇に追いやり、知らぬとはいえ、王城の内からも、国の外からも、お前に剣を向けさせた」
国王は頭を下げた。
「父として、許しを乞う資格はない」
マルスは、唇を結んだまま立っていた。
「エニルカラコス」
次に、次男の名を呼ぶ。
「お前には、王城の中で父が壊れていく姿を見せ続けた」
エニルカラコスの拳が震える。
「止めることもできず、逃げることもできぬ場所に、お前を置いた」
「父上・・・」
「父として、許しを乞う資格はない」
国王は、もう一度そう言った。
そして、二人の息子を見た。
「だが、父として言わせてほしい」
震える声で、王は言った。
「生きよ。二人とも」
玉座の間に、誰かの息を呑む音がした。
それがエニルカラコスだったのか、マルスだったのかは分からない。
俺は、口を挟めなかった。
国を救うとか、裁くとか、そういう言葉より前に。
父と息子が、互いに逃げずに立っている。
それだけで、息が詰まりそうだった。
エマの指が、そっと俺の手に触れた。
俺は、視線を前に向けたまま握り返した。
国王は、ゆっくりと顔を上げる。
父の顔は、そこで消えた。
そこに立っていたのは、裁きを待つ王だった。
「マルルークス」
「はい」
「王位を継げ」
玉座の間の空気が止まった。
エニルカラコスが顔を上げる。
リブが、わずかに目を細めた。
ララレアも、ゾゾルも、リアも黙っている。
「この国を救ったのは、お前だ。闇に潜り、民を守り、余の罪を止めた」
国王は、玉座の上の王冠を見る。
「余の後を継ぐなら、お前しかおらぬ」
第一王子。
死んだと思われていた王子。
闇の中で仲間を集め、国を救った者。
この場にいる誰もが、一度はそう考えたはずだ。
マルスなら、この壊れた国を背負えるのではないかと。
けれど、マルスは静かに首を横に振った。
「父上」
声は穏やかだった。
「僕は、王にはなりません」
玉座の間が、さらに静かになる。
「なぜだ」
国王の声は、責めるものではなかった。
「僕は、第一王子であると同時に、キマイラヘッドの獅子です」
マルスは言った。
「だからこそ、選びません」
国王は黙っている。
「僕が王になれば、この国は救われた国ではなく、レジスタンスによって倒された国になる」
マルスの声は揺れなかった。
「僕は地下からこの国を支えた。同時に、裏からこの国を壊した者でもあります。僕が玉座に座れば、民は救いより先に粛清を見る」
リブは何も言わない。
リアは目を伏せた。
ゾゾルは盾の柄を握ったまま、じっと聞いている。
「僕は、罰する理由を知りすぎています」
マルスは続けた。
「誰が何をしたのか。誰が見て見ぬふりをしたのか。誰が売り、誰が買い、誰が命じ、誰が笑ったのか。知りすぎている」
国王の顔が、わずかに歪む。
「今、この国に必要なのは、裁く王ではありません」
マルスは、エニルカラコスを見る。
「罪を抱えた民を、罪を抱えたまま、もう一度立たせる王です」
「兄上・・・」
「エニルカラコス」
マルスは弟の名を呼んだ。
「この国を背負うのは、君だ」
エニルカラコスの顔から、血の気が引いた。
「兄上がいるのに、なぜ僕なのですか」
声が震えている。
「僕に、父上を裁けと言うのですか」
誰も、すぐには答えられなかった。
マルスは、一歩弟へ近づく。
「裁くのは、君一人じゃない」
「でも、最後に王として見届けるのは僕です」
「そうだね」
マルスは否定しなかった。
エニルカラコスの拳が震える。
「僕に、それができると?」
「できるかどうかじゃない」
マルスは静かに首を振った。
「やるんだ」
その言葉は厳しかった。
だが、突き放す声ではなかった。
「強さだけで王になるなら、剣士を玉座に座らせればいい」
マルスは言った。
「王に必要なのは、最後まで逃げずに民を見捨てないことだ」
「逃げない・・・」
「君は、王城に残った」
マルスは弟を見つめる。
「父上が壊れていく姿を見た。王城が歪んでいく姿を見た。逃げられなかったのかもしれない。でも、見捨てなかった」
エニルカラコスは息を呑む。
「僕は外に出た。闇に潜った。救えたものもある。けれど、外からしか見られなかったものもある」
マルスは、玉座を見る。
「君は、この国をまだ憎みきっていない」
その一言に、エニルカラコスの目が揺れた。
「僕は、憎んでいる」
マルスの声は静かだった。
「この国を。王宮を。父上を操った者を。乗じて好き放題した者たちを。そして、間に合わなかった自分を」
誰も動かなかった。
「そんな僕が王になれば、国は裁きに寄りすぎる」
「兄上・・・」
「でも、君なら」
マルスは言った。
「裁く痛みを知りながら、立たせる方を選べる」
エニルカラコスは、父を見た。
国王は何も言わない。
逃げていない。
処刑を受け入れようとしている。
兄も逃げていない。
王冠を拒みながら、国を見捨ててはいない。
ならば。
自分だけが逃げるわけにはいかない。
「僕は・・・」
エニルカラコスの声が震える。
「僕は、父上を救えません」
国王は目を閉じた。
「それでよい」
静かな声だった。
王としての声だった。
けれど、エニルカラコスはそこで引かなかった。
「それでも」
唇を噛む。
言葉にすれば、崩れてしまう。
そう分かっていても、言わずにはいられない。
「それでも、父上を父と呼ぶことは許されますか」
その一言が、玉座の間に落ちた。
国王の顔が、動いた。
それまで保っていた王の顔が、ほんのわずかに歪む。
厳格で、静かで、裁かれる覚悟を決めた王の顔。
その仮面の奥から、別のものが滲み出す。
ぐしゃぐしゃになった父の顔だった。
国王は、何かを言おうとした。
けれど、声が出なかった。
喉が震える。
目元が歪む。
それでも王は、最後まで王であろうとしていた。
だが、一筋の涙が、頬を伝った。
玉座の間で、誰も動かなかった。
「許しを請うのは・・・」
国王は、ようやく声を絞り出した。
「余の方だ」
エニルカラコスの目が濡れる。
国王は、震える息を吐いた。
「余は、お前たちの父であることすら、失ったと思っていた」
王冠のない王は、二人の息子を見た。
「それでも・・・父と呼んでくれるのなら」
声が、かすれた。
「余は、その名を抱いて死ねる」
エニルカラコスは、深く息を吸った。
泣き出しそうな顔だった。
それでも、泣かなかった。
父が王として死ぬ覚悟をしているのなら、自分も王子として逃げるわけにはいかない。
エニルカラコスは、玉座の上の王冠を見る。
マルスが静かに言う。
「僕は王にはならない」
エニルカラコスは兄を見る。
「だけど、この国を見捨てもしない」
マルスは、弟の前に立った。
「君が王になるなら、僕はその剣になる。必要なら影にも戻る。もう一度、泥を被ることも厭わない」
リブが小さく笑った。
笑ったと言っても、いつもの軽い笑みではない。
頼もしいものを見た時の、短い笑みだった。
「でも、玉座に座るのは僕じゃない」
マルスは、ゆっくりと王冠を見た。
「君だ」
国王が口を開く。
「エニルカラコス」
声は、まだ少し震えていた。
けれど、そこにあるのは父の弱さだけではない。
再び、王の響きが戻っていた。
「王冠を取れ」
エニルカラコスは、玉座の上に置かれた王冠を見た。
父を見る。
兄を見る。
それから、ゆっくりと歩き出す。
王冠は、金でできているはずだった。
けれど、その時の俺には、血と涙でできているように見えた。
エニルカラコスは王冠の前に立つ。
手は震えていた。
それでも、逃げなかった。




