第75話 罪を思い出した街
王都へ向かう馬車の中で、誰も多くは喋らなかった。
車輪の音だけが、やけに大きく聞こえる。
リブは窓の外を見ていた。いつもの軽口はない。指先が、腰の短剣の柄を軽く叩いている。
ベリスは目を閉じていた。眠っているわけではない。たぶん、王都に入ってから動かせる人員と経路を、頭の中で組み直しているのだろう。
マルスは、膝の上で組んだ手をじっと見つめていた。
エマは、俺の隣にいる。
馬車へ乗った時、彼女の指がそっと俺の手に触れた。
少しだけ迷うように。
俺が握ると、エマは視線を落としたまま、握り返してきた。
それから、ずっと離していない。
馬車が揺れるたび、指先に力が入る。強く握られる時もあれば、逆に力が抜ける時もある。そのたびに、俺も少しだけ握り返した。
言葉はない。
それでよかった。
『王都方面の観測端末より、群衆行動の乱れを継続検知。混乱範囲、拡大中』
(どこまでだ)
『外縁区画にも拡大。検問所、外門付近でも正常な統制反応が確認できません』
王都に入る前から、か。
嫌な予感は、すぐに形になった。
最初の異変は、王都手前の検問所で分かった。
馬車は、止められなかった。
いや、止める者がいなかった。
検問所の柵は半端に開いたまま、片側だけが風に押されて軋んでいる。槍を持った兵士は、門柱の根元に座り込んでいた。
兜は外れている。
視線は、自分の手に落ちていた。
「俺は・・・通しただけだ・・・」
目は虚ろ。
その膝元には、破れた通行証が散らばっていた。大人用の札に混じって、子供用の小さな木札が一つ転がっている。
誰も、それを拾えなかった。
リブが窓の外を見ながら、低く舌打ちした。
「検問どころじゃねぇな」
「ええ」
ベリスが目を開ける。
「ここが機能していないなら、王都の中はもっとひどいでしょう」
マルスは何も言わなかった。
ただ、馬車の外へ目を向けている。
エマの手に、また力が入った。
俺はその手を握り返した。
王都の門は開いていた。
開放されているのではない。
閉じる者がいなくなっていた。
門兵の一人は壁にもたれ、兜を抱えたまま俯いている。もう一人は、門の影で吐いていた。足元には、朝に配られるはずだった検査札が散らばっている。
「はぁ・・・これでは裏道を使う必要もなさそうですね」
ベリスが低く言った。
「喜べる状況じゃねぇな」
リブの声に、いつもの軽さはない。
馬車は止められることなく、王都の中へ入った。
以前見た王都は、静かだった。
静かすぎるほどに。
誰も異常に気づかず、公開処刑さえ日常の一部として受け入れていた。整っていて、冷えていて、狂っていることに誰も気づいていない街。
今は違う。
声がある。
泣き声、怒鳴り声、祈りにもならない呟き、何かを叩く音、倒れる音、水を求める声、そして誰かの名前を呼ぶ声。
けれど、それは街が生き返った音ではなかった。
自分の中からあふれ出した記憶に、王都そのものが押し潰されている音だった。
冒険者ギルドの扉は開いていた。
だが、中から聞こえるのは、酒場の笑い声ではない。
「俺は・・・なんてことを・・・なんてことを・・・!」
大柄な冒険者が、床に膝をついていた。
両手で頭を抱え、額を床へ押しつけている。背には大剣。腕には古い傷。いかにも荒事慣れしている男だ。
その男が、子供のように震えていた。
別の冒険者は、剣を抱いたまま椅子から動けなくなっている。
「依頼だったんだ・・・ただの依頼だったんだ・・・」
誰も、それに答えない。
答えられる者など、いないのだろう。
受付の奥で、短い悲鳴が上がった。
「ヒーラーはいませんか!?」
倒れていたのは、若い受付嬢だった。
白い袖が赤く染まっている。机の上には、小さな刃物が落ちていた。
ローブ姿の女が駆け寄り、受付嬢の手首を押さえる。治癒の光が、震える手元からにじむように広がった。
女の顔は必死だった。
額に汗が浮かんでいる。
助けたい。
もちろん、それもあるのだろう。
けれど、それだけではない。
誰かを助けていなければ、自分の方が崩れてしまう。
そんな顔だった。
マルスが小さく息を吸う。
「これは、勝利じゃないね」
その声は、ギルドの喧騒に紛れそうなほど低かった。
「傷が見えない呪いが解けただけだ。痛みは、これから一気に来る」
誰も、すぐには返せなかった。
ギルドの奥で、受付嬢の手首を包む光だけが、必死に揺れていた。
ギルドの前を通過し、王城へ続く大通りへ進む。
その途中に、小さな教会があった。
町の人間が日々の祈りを捧げるための、小さな教会だ。石造りの壁は古く、扉の上には簡素な聖印が掲げられている。
その扉の前で、白い法衣の男が座り込んでいた。
手には、祝福に使う銀の小杯。
「神の名で・・・私は、何を祝福した・・・何を・・・」
小杯の中身はこぼれ、石畳に染みを作っている。
教会の中から、すすり泣きが聞こえた。
誰も祈りの言葉を口にしない。
祈り方を忘れたような沈黙だけが、そこにあった。
エマの指が、俺の手を強く握る。
俺も握り返す。
彼女は何も言わなかった。
奴隷市場の方角から、鎖の音が聞こえた。
逃げる音ではない。
暴れる音でもない。
誰かが、自分の首輪を掴んで泣いている音だった。
檻の前で、商人らしき男が膝をついている。
「違う・・・俺は、仕事をしただけだ・・・仕事だったんだ・・・」
その言葉に、檻の中の誰かが笑った。
笑い声は、泣き声よりも冷たかった。
リブの手が、短剣の柄へ伸びる。
だが、抜かなかった。
今ここで、誰か一人を斬っても終わらない。
それくらいは、俺にも分かる。
分かるから、余計に気分が悪かった。
広場に近づくと、怒号が聞こえた。
「押すなと言っとるじゃろうが!」
聞き覚えのある太い声はゾゾルだった。
大盾を地面に突き立て、人の流れを受け止めている。暴徒を押し返しているのではない。倒れた者を踏ませないために、流れそのものを止めていた。
「こっちや! 怪我しとる子はウチんとこ来ぃ!」
小さな体が、人波の間を走っている。
ララレアだ。
彼女は泣きじゃくる子供を抱き寄せ、怪我をした腕に治癒の光を灯す。
「大丈夫や。痛いの飛んでけ。ほら、息吸うて。泣くのは後でもできるから、今は息や」
声は明るい。
けれど、目は笑っていなかった。
少し離れた場所では、リアが錯乱した兵士の前に立っていた。兵士の手元には、抜きかけの短剣がある。
「見てください」
リアの声は静かだった。
「今、あなたの前にいるのは敵ではありません。皆、同じように苦しんでいる仲間です」
兵士の手から、短剣が落ちる。
リアはそれを拾い、近くの黒い外套の男へ渡した。
広場は、完全に落ち着いていたわけではない。
だが、少なくとも人の流れは作られていた。
倒れた者を運ぶ者、水を配る者、毛布を広げる者。
泣き崩れた人間のそばに座り、自傷しないよう刃物を遠ざける者。
王都は崩れていた。
それでも、この広場だけは、誰かが必死に崩れないように抑えていた。
「リブ! 遅い!」
ララレアがこちらを見つけるなり声を上げた。
「こっちは街ごとひっくり返っとるんよ!」
「悪い悪い。こっちも公爵家ごとひっくり返っててな」
「笑えん冗談さね」
ララレアはそう言いながら、治療の手を止めなかった。
その視線が俺に向く。
「あ、おにーさん。久しぶり」
「久しぶり、でいいのか、この状況」
「再会の挨拶くらいしとかんと、気が滅入るやろ」
ララレアは、ししし、と笑った。
前にギルドで会った時と同じ笑い方だ。
だが、その手元には血がついている。治療している子供の服にも、誰のものか分からない赤い染みがあった。
ゾゾルが盾を担ぎ直し、こちらを見る。
「小僧、いや・・・今は精霊使い殿と呼ぶべきか?」
「やめてくれ。小僧でいい」
「なら小僧じゃ。面倒なことに巻き込まれとるのう」
「巻き込まれたというか、もう中心にいる気がする」
「自覚があるなら重畳じゃ」
リアが静かに会釈した。
「無事でよかったです。公爵領で何かが起きたのですね」
「ああ」
マルスが頷く。
「魔眼使いは倒した。けれど、解けた後がこれだ」
ララレアの手が、一瞬だけ止まった。
「・・・魔眼使い、倒したんやね」
「倒した」
「そっか」
それだけ言って、ララレアはまた治療に戻った。
その横顔に、笑みはない。
この国への恨みも、失ったものも、簡単に消えるわけではないのだろう。
それでも、彼女は目の前の子供を治していた。
広場の端に、外套を深く被った男が立っていた。
混乱の中で、その男だけが妙に静かだった。
顔はよく見えない。
けれど、視線はこちらに向いている。
いや、正確には、治療を続けるララレアの方を見ていたようにも見えた。
マルスが、わずかに目を細める。
「あれは・・・?」
男の背後に、同じく外套を被った者が近づく。耳元で何かを小さく告げた。
次に見た時、男はもう人混みに紛れていた。
『対象の衣服繊維および皮膚片を採取済み』
(抜け目ないな)
『必要時、照合可能です』
誰だったのか。
その時は、分からなかった。
ただ、マルスが一瞬だけその消えた方角を見ていたのが気になった。
広場の混乱は、完全ではないが、少しずつ形を取り戻し始めていた。
黒い外套の者たちが倒れた人間を運ぶ。
商人風の女が、簡易の名簿を作っている。
灰色の腕章を巻いた者たちが、水と毛布を配っていた。
それぞれの動きに無駄がない。
即席で集まった人間たちではない。
前から、こういう時のために準備されていた動きだ。
「こいつら、全部・・・?」
「キマイラヘッドの協力者だね」
マルスが答える。
「キマイラヘッド・・・こんなにいたのかよ」
「こんなもんじゃないよ」
マルスは、広場を見渡した。
「それだけ、この国は恨まれていたって事なんだけどね」
その言葉は、静かだった。
静かだったから、余計に重かった。
希望の組織。
そう呼ぶには、そこに積もったものが黒すぎる。
けれど、恨みだけではここまで動けない。
その手は、確かに誰かを救おうとしていた。
「広場は任せられるか?」
マルスが聞くと、ベリスが帽子のつばに触れた。
「灰角の者を集めています。最低限の形は作れます」
「頼む」
「王宮の方は?」
「導きの輪環で行く」
リブが頷いた。
「そっちの方がいい。中で何が起きてるか分からねぇからな」
ゾゾルが盾を担ぐ。
「なら、ワシらも行くぞ」
ララレアは治療中の子供の頭を撫でてから、近くのヒーラーへ引き継いだ。
「ここ、お願いな。泣いとる子から先に見たって」
リアが静かに杖を握る。
「王宮内に、まだ魔法的な残滓が残っている可能性があります。私も行きます」
ベリスは広場を見渡した。
「こちらは私が預かります。王宮が動けば、街も動きます。どうか、そちらを」
マルスは頷いた。
「任せたよ、ベリス」
「ええ。獅子の帰還にふさわしい道を、できる限り整えておきます」
導きの輪環が揃う。
リブ、マルス、ゾゾル、リア、ララレア。
そこへ、俺とエマが加わった。
エマが隣に立つ。
「行けるか?」
「ええ」
エマは短く答えた。
その目は、もう揺れていなかった。
王城へ向かう道は、広場よりもさらに静かだった。
騒ぎがないわけではない。
だが、王城に近づくほど、人々の声は低くなっていく。
誰かが、何かを恐れている。
それが、王なのか。
自分の記憶なのか。
これから下される裁きなのか。
分からない。
王城の門が見えた。
かつて、マルスを殺そうとした場所。
国王が歪み、側近が歪み、ミレイアが国を弄んでいた場所。
今、その門の前で、兵士たちが膝をついていた。
誰も、剣を向けてこない。
誰も、道を塞がない。
ただ、一人が顔を上げる。
「マルルークス、様・・・?」
その名が、王城の前に落ちた。




