第74話 解けた呪縛
廊下に、歓声はなかった。
ミレイアは床の上で顔を押さえ、かすれた声で何かを呟いている。さっきまで人の心を弄んで笑っていた少女は、もう誰かを見つめることすらできない。
周囲に立っていた使用人たちは、糸が切れたように膝をついた。
警備兵の一人が、剣を取り落とす。
甲高い音が廊下に響いた。
男はそれを拾おうと手を伸ばす。けれど、指が柄に触れたところで動きが止まった。
その手が震えている。
「俺は・・・」
声は、そこで途切れた。
別の使用人は、自分の両手を見つめていた。白い手袋の指先が、何度も握られ、開かれる。何かを拭い落とそうとしているように見えた。
「私・・・あの方に、何を・・・」
誰も答えられない。
クラウディオ公爵は、壁に片手をついたまま動かなかった。
老いた肩が、一度だけ大きく震える。
「儂は・・・民を守る側であったはずだ」
その声は、誰かに向けたものではなかった。
終わった。
もう終わったのだと、そう言えるはずだった。
けれど、目の前に広がっているのは、勝利の景色ではない。洗脳が解けた人間たちが、自分のしたことの記憶の重さに、耐えられず崩れていく光景だった。
エマは、まだ俺の服を掴んでいた。
指先の力は弱い。
けれど、離れない。
俺は、その手にそっと指を重ねた。
エマの肩が小さく震える。
少し遅れて、彼女の指が俺の手を握り返した。
顔を上げたエマは、泣き疲れたような目をしていた。
それでも、ほんの少しだけ笑った。
俺の手を、もう一度だけ握り直す。
その力は、さっきより少しだけ強かった。
俺は何も言わず、その手を握ったままにした。
床の上で、ミレイアが喉の奥から笑う。
「・・・笑えるねぇ」
視線を失った顔で、それでも口だけは歪んでいた。
「みんな、覚えてるんだろ? 自分が何をしたか。何を言ったか。誰を売ったか。誰を疑ったか。誰を傷つけたか。誰を殺したか。何をしたのか、ぜぇ~んぶ!」
警備兵の一人が歯を食いしばる。
リブがいれば、その場で黙らせていたかもしれない。
「目を覆って。口もふさいで」
マルスが短く命じた。
警備兵たちは一瞬反応が遅れたが、すぐに布を持ってくる。ミレイアの両目は、完全に塞がれた。さらに手足を縛られ、首元にも拘束具が付けられる。
猿ぐつわを口に当てると、ミレイアは抵抗しようとした。
だが、絡みついた銀の粒が、彼女の体を固定したままだ。
「殺せ・・・」
「殺さないよ」
マルスの声は静かだった。
「君には、聞かなければならないことが多すぎる」
「聞けると思ってるのかい・・・?」
「聞くよ」
マルスは、手の中の赤黒い結晶を見下ろした。
パンドラクリスタル。
ミレイアの右眼奥から引き剥がされたそれは、布越しでも嫌な気配を放っているように見えた。
「君が喋らなくても、君が壊したものは残っている」
ミレイアの笑い声が止まった。
「それ、壊せないのか?」
俺が聞くと、マルスは少しだけ目を伏せた。
「壊せるかもしれない」
「なら」
「でも、壊すべきじゃない」
マルスは赤黒い結晶を何重にも布で包む。
「パンドラクリスタルには噂・・・というか伝承がある。破壊されると、世界のどこかにまた現れる」
「壊すと、どこかで復活するってことか」
「それは、たぶん真実だ」
嫌な話だ。
危険物を処分したつもりで、どこか知らない場所へばら撒くようなものか。
「目の届く場所に封じる方がいい、か」
「ああ」
マルスは頷いた。
「少なくとも、今ここで壊すものではない」
クラウディオ公爵が、深く息を吐いた。
「封印庫を使え。公爵家の地下に、古いものを収めるための部屋がある。だが・・・」
公爵は、そこで一度言葉を切る。
「儂が、それを命じてよいのか分からぬ」
その一言に、誰もすぐ答えられなかった。
公爵自身も、洗脳されていた。命令され、動かされ、利用されていた。
それでも、この屋敷の主であることは変わらない。
マルスが一歩前へ出た。
「公爵。今、この屋敷を動かせるのはあなたです」
「だが、儂は・・・」
「後悔は後でしてください。今は、人を救いましょう」
その言葉に、公爵の顔が歪んだ。
しばらくして、彼は震える手を握り締める。
「・・・そう、だな」
声は弱かった。
けれど、次の瞬間には、屋敷の主の声に戻っていた。
「負傷者の確認を。ミレイアは地下の隔離室へ。万が一がある。視線は通すな。洗脳されていた者への尋問は後回しだ。まず休ませよ。水を配れ。刃物は全て回収しろ。自傷を防げ」
使用人たちは、すぐには動けなかった。
だが、一人が立ち上がる。
後に続いて、もう一人、もう一人。
崩れたままではいられない。
そういう顔だった。
俺は、まだ手を離さないエマを見る。
「歩けるか?」
エマは小さく頷いた。
だが、一歩目を踏み出す時、指が強く俺の手を握った。
「一緒に行こう」
そう言うと、エマは何も言わずに、また頷いた。
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公爵邸の夜は、静かだった。
静かすぎた。
誰も騒がない。誰も笑わない。話し声すらしない。
廊下の向こうで、時折、押し殺した泣き声が聞こえる。水差しを運ぶ使用人の足音も、やけに慎重だった。
俺に用意された客室が、いまは妙に広く感じる。
確かに公爵家らしく広い部屋だ。
それでも、高い天井、厚い絨毯、磨かれた木製の机、壁際の花瓶と燭台、二人どころか三人でも眠れそうな大きなベッド、そのすべてが昨日とは違って落ち着かなく見えた。
眠れる気がしない。
胸の傷はすでに塞がっている。
裂けた服も着替えた。
身体は問題ない。
それでも。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「アキラ・・・起きている?」
エマの声だった。
「起きてる」
扉を開けると、エマが立っていた。
昼間よりも顔色は戻っている。けれど、目元はまだ赤い。髪は整えられているが、いつものように隙のない姿ではなかった。
手は、胸の前でぎゅっと握られている。
「入って・・・いい?」
「ああ」
エマは部屋に入ると、少しだけ周囲を見回した。
視線が、奥の大きなベッドで止まる。
一瞬だけ、目を伏せた。
「座るか」
「ええ」
エマはベッドの端に腰を下ろした。
俺は少し離れて、同じベッドの反対側に座る。
エマの指が、膝の上で握られたり、開かれたりしていた。
「話しておかないといけないことがあるの」
「エメリア、のことか」
エマは小さく頷いた。
「エマ・・・エマ=ロベールは、冒険者としての名前よ」
彼女は一度、息を吸う。
「本当の名は、エメリア=リーン=ザウ=フェルグレイス」
長い。
そして、重い。
名前そのものが、身分証のような響きを持っていた。
「ルザリス帝国、フェルグレイス公爵家の三女。皇室に連なる血を持つ者よ」
「・・・かなり重いやつだな」
「ええ。重いわ」
エマは自分の手を見つめた。
「ザウは、皇室との血のつながりを示す名。リーンは、皇統接続者の女性に与えられる序列称号。私はただの公爵令嬢ではないの。本人が望んでいなくても、政治的な意味を持つ名前なのよ」
「なるほど」
「驚かないの?」
「驚いてる」
「そうは見えないわ」
「いや、名前が長すぎて、どこで驚けばいいか迷ってる」
エマが、ほんの少しだけ息を漏らした。
笑った、というほどではない。
でも、さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
「そこは、ちゃんと覚えて」
「努力する」
「努力じゃなくて、覚えて」
「分かった。エメリア=リーン=ザウ=フェルグレイス」
今度は噛まなかった。
エマは目を伏せる。
「・・・あなたに、そう呼ばれると変な感じね」
「嫌か?」
「嫌ではないわ。ただ、遠くなる気がする」
「遠く?」
「その名前は、私をどこかに連れていこうとする名前だから」
エマの声は静かだった。
「公爵家の娘として。皇室の血を持つ者として。帝国の秩序の一部として。私がどうしたいかなんて関係なく、その名前は私を役割に戻そうとする」
燭台の火が揺れる。
エマの横顔に、薄い影が落ちた。
「だから私は、エマ=ロベールになった。自分の力で歩ける場所が欲しかった。顔でも、血でも、家でもなく、私自身を見てくれる場所が」
俺は、すぐには言葉を返せなかった。
名前を隠していた、というより。
その名前から逃げるだけの理由が、彼女にはあったのだと思った。
「・・・言えなかったんだな」
エマは、小さく頷いた。
「ええ」
声は、少しだけ震えていた。
「言えば、あなたを巻き込むと思っていたの。信じていなかったからじゃない。信じたら、巻き込んでしまうと思っていた」
「もう巻き込まれてる」
「ええ。そうね」
エマは小さく笑った。
今度は、少しだけ本当に笑った。
「だから、話すわ。もう隠したまま、あなたの隣にはいられない」
エマは俺を見た。
「でも」
その瞳は揺れていた。
それでも、逸らさなかった。
「私は、その名前を捨ててもいい」
「エマ」
「アキラと一緒にいられるなら」
声は震えていた。
膝の上で、彼女の指が白くなる。
「エメリアでなくてもいい。フェルグレイスでなくてもいい。リーンも、ザウも、いらない」
エマは唇を噛む。
「エマとして、あなたの隣にいられるなら」
俺は、すぐには答えなかった。
捨てろ、と言うのは簡単だ。
捨てるな、と言うのも簡単だ。
けれど、その名前がどれだけ重いのか、俺にはまだ全部は分からない。分からないまま、軽々しく決めていいものではない。
だから、今言えることだけを言う。
「俺は、離れるつもりはない」
エマの目が揺れた。
「エマにどんな名前があってもだ」
「・・・本当に?」
「ああ」
俺は頷く。
「エマ=ロベールでも、エメリア=リーン=ザウ=フェル・・・グレイスでも」
「少し噛みそうだった」
「長いんだよ」
「私のせいじゃないわ」
「それはそうだな」
エマの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺も小さく息を吐く。
「でも、誰だろうと変わらない」
俺は言った。
「俺が好きになったのは、今ここにいるエマだ」
エマの睫毛が震えた。
何かを言おうとして、声にならない。唇だけが小さく動く。
それから、彼女は視線を落とした。
「・・・ずるいわ」
「何が?」
「そういうことを、まっすぐ言うところ」
「言わない方がよかったか?」
「言って」
即答だった。
エマ自身も驚いたように、少し目を見開く。
それから、頬を赤くして目を逸らした。
「・・・今のは、忘れて」
「無理だな」
「忘れて」
「記憶力はいい方なんだ」
「こういう時だけ」
エマは小さく息を吐いた。
話が途切れる。
けれど、エマは立ち上がらなかった。
膝の上で、また指を握ったり、開いたりしている。
「エマ?」
「・・・戻りたくない」
小さな声だった。
「自分の部屋に?」
エマは頷いた。
「一人になるのが、怖いの」
その言葉は、思っていたより幼く聞こえた。
けれど、当然だ。
今日、エマは自分の意思ではないまま、俺を刺した。その記憶を全部持ったまま、正気に戻った。
一人になれば、あの瞬間だけが何度でも戻ってくるのだろう。
ナイフの感触、俺の胸に沈む刃、自分の手。
それを握っていた自分。
「ここにいていい?」
そう言った後、エマは目を伏せた。
膝の上で、指がぎゅっと絡まる。
耳が赤くなっていた。
けれど、立ち上がろうとはしなかった。
「いいよ」
俺はそう答えた。
エマの肩から、ほんの少し力が抜ける。
「このベッド、広いしな。端と端なら、十分すぎるくらい距離はある」
「そういう問題ではないと思うのだけれど」
「それは、まあ、そうだな」
エマは呆れたように息を吐いた。
その顔に、わずかに安堵が混じっていた。
「俺はこっちの端にいる。エマはそっちで寝ろ」
そう言うと、エマは俺を見た。
「・・・本当に?」
「ああ」
「私、ここにいてもいいの?」
「いていい」
「同じベッドで?」
「いていい」
エマはしばらく黙った。
それから、毛布の端を掴む。
「・・・端は嫌」
「そうか?」
「・・・もっと近くが良い」
「分かった」
エマは、少しだけ唇を尖らせた。
その仕草が、いつものエマらしくて、少し安心する。
俺は立ち上がって、水差しから杯に水を注いだ。
「飲むか?」
「ええ」
差し出すと、エマは両手で杯を受け取った。
指先が少し震えている。
水を飲む喉の動きが、やけに慎重だった。
「寒くないか?」
「少しだけ」
ベッドの上にあった毛布を取り、エマの肩へかける。
彼女はそれを見て、困ったような顔をした。
「子供扱いしている?」
「してない」
「本当に?」
「本当に。ただ、寒そうだった」
エマは毛布の端を指で握った。
「・・・そう」
しばらく、沈黙が落ちた。
エマは何かを待っているようにも見えた。
何かを怖がっているようにも見えた。
俺は、ただ隣にいた。
やがて、彼女の肩から少しずつ力が抜けていった。
「アキラ」
「ん?」
「少し、こっちに来て」
言われるまま、近づく。
エマが俺の袖を掴んだ。
「毛布より、あなたが良い」
そのまま、背伸びするように顔を寄せてくる。
唇が触れた。
まるで魔法のように時間がゆっくりと進んでいく。
やがて、名残惜しそうに離れてゆく。
「我慢できなかったの」
エマは目を逸らした。
「あなたが、何もしてくれないから」
「悪い」
「謝らないで」
エマは小さく首を振る。
「そういうところが、好きなの」
その言葉に、今度は俺の方が黙った。
エマは毛布を掴んだまま、視線を落とす。
「私、あなたを好きになってよかった」
声は小さかった。
けれど、迷いはなかった。
胸の奥が、じんわり熱くなる。
俺は何か言おうとして、結局、言葉を選べなかった。
だから、ただ手を伸ばす。
エマの手に触れる。
彼女は少しだけ驚いた顔をした後、指を絡めてきた。
灯りを落とし、広いベッドの端に身を横たえる。
エマは、すぐ隣ではない。
けれど、手を伸ばせば届く場所にいた。
指だけは、繋いだままだった。
暗がりの中で、エマの呼吸が聞こえた。
何度か、震えた息が混じる。
そのたびに、握る手に少しだけ力を込める。
しばらくすると、エマも握り返してきた。
言葉はいらなかった。
少なくとも今夜は、それだけでよかった。
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翌朝。
俺たちは、公爵の執務室に集まっていた。
眠れたとは言い難い。
それでも、夜が明けた以上、止まっているわけにはいかなかった。
クラウディオ公爵、マルス、エマ、俺。
昨夜の件を最低限まとめ、ミレイアの拘束状況とパンドラクリスタルの封印について確認していたところで、扉が乱暴に開いた。
「王都がひでぇことになってる」
リブの第一声は、それだった。
外套は乱れ、靴には泥がついている。あの男が、息を整える前に話し始めた。
その後ろから、ベリスが静かに入ってくる。身なりは崩れていないが、帽子を脱ぐ動作がいつもより少しだけ速い。
「王都中で、いきなり人が崩れた。役人も兵士も、商人も、通行人もだ。泣く奴、叫ぶ奴、逃げ出す奴、自分の手を見たまま動けなくなる奴。まるで、街ごと罪を思い出したみてぇな有様だ」
マルスは、すぐには答えなかった。
リブの目が、部屋の空気を読むように細くなる。
「・・・こっちでも、何かあったんだな」
「ああ」
マルスが頷いた。
「魔眼使いは、ミレイアだった」
リブの表情が変わった。
ベリスも、帽子を胸元で止めたまま動かなくなる。
「ミレイアだと?」
「王宮から逃げてきた被害者、という顔をして、公爵家に潜り込んでいた。昨夜、アキラを落とし、僕にも魔眼を使った」
「お前に?」
「護符がなければ危なかった」
マルスは短く言った。
「その後、アキラとアルが魔眼を封じた。パンドラクリスタルは摘出済み。今は地下封印庫へ移している」
リブが低く舌打ちした。
「くそ。あの小娘が本命かよ」
「最も疑わしくない者が、最も危険だった」
ベリスが静かに言った。
「一杯食わされましたな」
「一杯どころじゃねぇだろ」
「それも、国中がね」
マルスは、机の上に置かれた報告書へ目を落とした。
「公爵家でも、洗脳されていた者たちが正気に戻った。全員が、自分のしたことを覚えている」
リブの顔から軽さが消えた。
「王都と同じか」
「おそらくね」
ベリスが続ける。
「王都だけではありません。少なくとも周辺街区でも同様の混乱が確認されています。精神干渉の解除は、局所的ではなく広域と見るべきでしょう」
『昨夜以降、王都方面へ再展開していた観測端末からも同様の反応を確認。精神干渉パターンの消失と、群衆行動の急激な乱れを検知しています』
(国中、か)
『可能性は高いです』
勝った。
その言葉が、どんどん遠くなる。
国中の洗脳が解けた。
けれど、記憶は残っている。
なら、今この国で何が起きているかは、想像したくなくても想像できる。
「獅子の号令が要りますね」
ベリスが言った。
俺は、その言葉に引っかかった。
「獅子?」
ベリスは一瞬だけマルスを見る。
マルスは小さく頷いた。
「ここまで来たなら、話しておくべきだね」
リブが腕を組む。
「今さら隠しても仕方ねぇだろ。王都を抑えるなら、全部動かすことになる」
「全部?」
俺が聞くと、マルスはまっすぐこちらを見た。
「僕たちは、表向きにはレジスタンスと呼ばれている組織だ」
「表向き?」
「そして、誰が言い出したのか、キマイラヘッドって呼ばれてる」
マルスは言った。
「三つの頭を持つ組織だ」
「獅子、蛇、山羊か」
「そう」
「趣味が悪いな」
「否定はしないよ」
リブが鼻で笑った。
「俺が蛇ってのは、誰が決めたんだかね」
「自覚がない方が問題です」
ベリスが淡々と言う。
「お前に言われたくねぇよ、ヤギ」
「私は気に入っています」
「嘘つけ」
この状況でそんなやり取りをするのか、と思った。
だが、公爵の強張った肩が、ほんの少しだけ下がった。
「獅子は僕。表に出られない王子としてのマルルークスだ」
「蛇は?」
リブが肩をすくめる。
「潜る、噛む、毒を回す。まあ、ろくでもない仕事だな」
「山羊は?」
ベリスが帽子のつばに触れた。
「金と情報と逃げ道です。綺麗な仕事ではありませんが、組織には必要です」
「導きの輪環は?」
「実働部隊の一つだよ。表向きは冒険者パーティ。実際には、僕たちが動くための手足の一つでもある」
「黒鱗隊、灰角商会ってのもあるのか?」
ベリスがわずかに眉を上げる。
「そこまで察していましたか」
「名前だけはな」
「黒鱗隊は、リブ直属の潜入・実行部隊。灰角商会は、私の情報と資金の受け皿です」
「つまり、俺はずっとレジスタンスの中枢と旅してたわけか」
「そうなるね」
「先に言えよ」
「言えば、君を巻き込むことになる」
「もう手遅れだろ」
「うん。だから話している」
マルスは、静かに息を吐いた。
「僕たちは、この国を壊したかったわけじゃない。壊れたものを戻したかった。だけど、もう戻すだけでは足りないところまで来てしまった」
誰も反論しなかった。
洗脳が解けたから終わり、ではない。元々あった差別も、奴隷制度も、貴族の腐敗も、全部消えたわけではない。
ミレイアがいなくなっても、全部が元に戻るわけじゃない。
この国には、最初から歪みがあった。
「王都へ戻る」
マルスが言った。
「放っておけば、罪を思い出した者たちが自分自身を殺しかねない。逆に、洗脳を理由に全てを無かったことにしようとする者も出る。今、誰かが前に立たなければならない」
「俺も行く」
自然に口にしていた。
マルスは頷く。
「頼むつもりだった」
「私も行くわ」
エマが言った。
「休んでろ、とは言わない方がいいか?」
「言ったら怒る」
「じゃあ、頼む」
エマは小さく頷いた。
クラウディオ公爵が、ゆっくりと口を開く。
「儂も行くべきなのだろうな」
だが、マルスは首を横に振った。
「公爵には、ここをお願いします。公爵領まで崩れたら、王都を支える場所がなくなる」
「・・・儂に、まだそれができると思うか」
「できます」
マルスは即答した。
「だから、お願いします」
公爵は目を閉じる。
深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「逃げはせぬ」
その言葉に、少しだけ力が戻っていた。
「公爵領は、儂が預かる。民にも、使用人にも、儂自身の口で話す」
「ありがとうございます」
リブが壁から体を離す。
「急ぐぞ。王都は、火がつく一歩手前だ」
「火なら、もうついているかもしれません」
ベリスが帽子をかぶり直す。
「問題は、それを誰がどう消すかです」
王都へ戻る。
公開処刑場で見た、あの静かな狂気の街へ。
ただし、今度は違う。
狂っていることに気づけなかった街ではない。
自分が狂っていたことを、全員が思い出してしまった街だ。
俺は、隣に立つエマを見る。
エマもこちらを見ていた。
俺はその手を取る。
エマは、迷わず握り返した。
「行こう」
「ええ」
俺たちは、公爵邸を後にした。




