第73話 愛してる
暗い。
水の底に沈んだように、体が重い。
息はできている。
心臓も動いている。
けれど、指先一つ動かせない。
床の冷たさが頬に触れている。
廊下の向こうから、遠く足音が聞こえる。
誰かの声も聞こえる。
だが、そのすべてが薄い膜の向こう側にあるようだった。
『警告。精神干渉を検知。運動神経系への命令伝達が阻害されています』
(アル・・・)
返事をしようとした。
だが、声にならない。
舌も喉も、俺のものではなくなったみたいだった。
『解析中。最大処理速度で行います。視線を媒介とした魔素による精神干渉。シナプスネットワークへの干渉を検出。対象の命令構造は──』
アルの声が途切れる。
いや、途切れたのではない。
俺の意識が、さらに深く沈んだ。
その向こうで、ミレイアの声がした。
「誰か! 誰か来てください!」
震えた声。
泣きそうな声。
さっきまで俺を見下ろして笑っていた声と、同じ喉から出ているとは思えない。
「アキラ様が・・・! アキラ様が大変なんです!」
足音が近づく。
速い。
「ミレイア!」
マルスの声だった。
「何があった!」
「わ、私・・・私、分からなくて・・・アキラ様が、急に・・・」
「落ち着いて。アキラは?」
「お部屋の前で・・・倒れて・・・私、どうしたら・・・!」
ミレイアは泣いていた。
全て演技だった。
よくやる。
声だけなら、本当に怯えた少女にしか聞こえない。
マルスが近くに来る気配がした。
俺の体に触れたのだろう。
肩を揺さぶられた感覚が、遠く伝わる。
「アキラ。聞こえる?」
聞こえる。
聞こえている。
だが、答えられない。
「脈はある。呼吸もある。外傷はないね」
マルスの声が低くなる。
「ミレイア。何を見た?」
「わ、私・・・」
「ゆっくりでいい。何があった?」
「アキラ様が、私に・・・休めって・・・そのとき、後ろを見て、急に・・・」
ミレイアの声が崩れる。
「ごめんなさい・・・私、私が来たから・・・!」
「大丈夫」
マルスの声が柔らかくなった。
「君のせいだと決まったわけじゃない」
「でも・・・!」
「大丈夫。落ち着いて」
衣擦れの音がした。
たぶん、マルスがミレイアを軽く抱きしめたのだ。
「呼吸を整えて。ゆっくりでいい」
優しい声。
ミレイアの震えた息。
そして。
「・・・はい」
ミレイアの声が、少しだけ変わった。
マルスは気づいただろうか。
気づいてくれ。
マルス。
頼む。
「何を見た?」
もう一度、マルスが聞く。
ミレイアが顔を上げる気配がした。
次の瞬間、空気が凍った。
「――っ」
マルスが息を呑む。
何かが軋むような音。
魔力が、細い針みたいに空間へ突き刺さる気配。
ミレイアが小さく笑った。
「今だ」
その声には、もう震えがなかった。
「落ちろ、マルルークス」
マルスの呼吸が止まった。
いや、止まったように聞こえた。
数秒。
長い数秒だった。
廊下が、死んだように静まり返る。
「・・・あ」
ミレイアが息を漏らした。
「あは・・・」
笑っている。
「あはは・・・やった」
彼女の声が震えている。
さっきまでの怯えではない。
歓喜で。
「ついに・・・ついにやってやったぞ、マルルークス!」
声が跳ねた。
「王宮でどれだけ邪魔してくれたと思ってる。誰からも目を逸らして、食事を疑って、記録まで二重にして、暗殺にも気づきやがって・・・しまいにはレジスタンスだと!? 本当に、本当に面倒だったんだぞ!」
ミレイアが立ち上がる気配がした。
「でも終わりだ。これで終わりだ!」
床を踏む音。
俺の近くへ来る。
しゃがみ込む気配。
黒い瞳が、俺を見下ろしているのが分かった。
「精霊使いも落ちた。マルルークスも落ちた。後はリブとベリスだ」
ミレイアは楽しそうに言った。
「でも、マルスとアキラを使えば楽勝だろうよ。ライオンに蛇にヤギ、厄介だったキマイラヘッドも、これでおしまいさ!」
その瞬間。
パリン、と。
硬質な音が響いた。
「誰がおしまいだって?」
マルスの声だった。
ミレイアの呼吸が止まる。
「な・・・」
床を擦る音。
彼女が後ずさった。
「何!? マルルークス!? なぜだ!? 完全に洗脳されていたはず!」
「ああ。そう見えただろうね」
マルスの声は静かだった。
「それに、確かに洗脳されていたよ?」
だが、その奥に怒りがある。
「万が一の保険があってね。王家に伝わる秘宝の一つだよ」
「秘宝・・・?」
「一度だけ、あらゆる状態異常を肩代わりするアーティファクト。もう砕けてしまったけど」
小さな破片が床に落ちる音がした。
「最後の一つだったんだけどね」
「クソがッ!」
ミレイアの声が剥き出しになる。
もう、被害者の少女はいない。
「君・・・だったんだね」
マルスが言った。
その一言は、責める声ではなかった。
悲しんでいるようにも聞こえた。
それが、ミレイアには余計に腹立たしかったらしい。
「そうだよ。私だよ」
ミレイアが吐き捨てる。
「国王も、側近も、侍女長も、兵士も、貴族どもも、皆、皆、私が動かした。あんたが守ろうとした国は、とっくに私の掌の上だったんだよ」
「なぜ、こんなことを」
「なぜ?」
ミレイアが笑った。
「なぜって、面白いからに決まってるだろ。偉そうにしてる奴らが、ちょっと見つめるだけで膝をつく。持たざる者と私を見下してコケにしていた奴らが、私の言葉で泣いて、怒って、憎んで、殺し合う」
声が低くなる。
「最高じゃないか」
空気が揺れた。
廊下の奥から、足音が増える。
一つではない。
二つでもない。
ぞろぞろと。
使用人たち、警備兵たち、顔色の悪い者たちが、無言で廊下に現れる。
歩き方がぎこちない。
生きているのに、生気が薄い。
まるで、墓場から這い出してきた死者の群れだ。
「一人で戦うと思ったのかい?」
ミレイアが言った。
「私は弱いよ。剣も振れない。魔法だって大したことない。でもね、強い人間を動かせばいいんだよ」
人垣が割れた。
その奥から、クラウディオ公爵が現れた。
虚ろな目。
硬い表情。
いつもの穏やかさがない。
「公爵まで・・・」
マルスの声が低くなる。
「いつの間に」
「いつでもさ。あの爺さん、私を見る時だけは目を逸らさなかったからな」
ミレイアが俺の近くで笑う。
「手出しはするなよ? この爺さんもいるからなぁ」
「くッ・・・」
マルスは動けなかった。
周囲には洗脳された警備兵。
正面には公爵。
足元には倒れた俺。
「どうした、マルルークス。剣の天才様なんだろ? 斬ればいいじゃないか。守りたかった公爵も、屋敷の使用人も、まとめてさぁ!」
その時。
体の奥で、何かが繋がった。
『解析完了』
アルの声が、戻ってきた。
『視線媒介型精神干渉。魔素及び魔法情報系統の構造把握完了。対抗措置を実行します』
(遅いぞ)
『今後必要となる情報量を満たすまで解析を続けていました』
(相変わらず、言い方が硬いな。はっきり言えよ。滅多にない機会だから、納得いくまで調べまくってましたってさ)
『対抗プログラムを構築。運動神経系への干渉遮断を開始』
指が動いた。
息が入る。
心臓の鼓動が、はっきりと戻る。
俺は床に手をついた。
「よぉ」
声が出た。
「手伝いは要るか?」
マルスが振り向く。
驚きより先に、笑った。
「やっぱりアキラはすごいね。味方にしといて正解だったよ」
「だろ?」
俺は膝を立て、ゆっくり立ち上がった。
まだ少し体が重い。
だが、動ける。
ミレイアが目を見開いた。
「精霊使い!? お前もか!? なぜだ!?」
「残念だったな、ミレイア」
俺は首を鳴らした。
「俺は普通じゃないんでね」
「ふざけるな・・・!」
「そうそう、アルから伝言だ」
『魔法情報制御系統の解析が完了しました。貴重な実演に感謝します』
「魔法ってもんを、だいぶ理解できた。感謝するってさ」
「目を見たまま、舐めよって・・・!」
ミレイアが睨む。
黒い瞳が、深く開いた。
空気が重くなる。
魔力が、視線を通ってこちらへ流れ込もうとする。
「もう一度だ! 落ちろ!」
何も起こらなかった。
正確には、俺の外側で何かが弾けた感覚だけがあった。
「なぜ・・・だ?」
「もう魔眼は効かねぇよ」
「なぜだと聞いている!」
「視神経を遮断している」
俺は自分の目を指で示した。
「今は、ナノマシンから送られる外部映像だけで世界を見てる。目で見ているように見えて、目では見ていない」
ミレイアが顔を歪める。
「何を言って・・・」
「分かんねぇよな」
俺は笑った。
「俺も、この世界に来る前なら分かんなかったよ」
ミレイアの顔から余裕が消える。
だが、すぐに歪んだ笑みが戻った。
「くく・・・勝った気でいるようだが、貴様にはこれをくれてやる」
ミレイアが、歪んだ笑みを浮かべた。
人垣の奥から、一人が現れた。
エマだった。
生気のない顔に、乱れた髪、虚ろな瞳。
右手には、小さなナイフを握り締めて。
その刃先は、まっすぐ俺に向けられていた。
「ごめんなさい・・・」
小さな声だった。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
「エマ」
俺が呼ぶと、ビクッとエマの肩が震えた。
けれど、足は止まらない。
一歩。
また一歩。
涙をこぼしながら、エマは俺へ近づいてくる。
「抵抗するなよ?」
ミレイアが言った。
「抵抗すれば、その女は殺す」
「しねぇよ」
俺は両手を下げた。
「アキラ!」
マルスの声が飛ぶ。
「大丈夫だ」
そう答えた。
エマが目の前まで来る。
ナイフの切っ先は、俺の胸を向いていた。
心臓を狙っている。
それでも、彼女の手は震えていた。
「ごめんなさい・・・」
「いい」
俺は一歩、前へ出た。
「ごめんなさい・・・アキラ・・・ごめんなさい・・・」
「いいんだ」
エマの手が動いた。
ナイフが、俺の胸へ向かって突き出される。
俺は避けなかった。
受け止めた。
エマごと。
刃が胸に沈む。
鈍い痛みが走った。
息が詰まる。
エマの体が、俺の腕の中で硬直した。
けれど、血はほとんど出ない。
『主要血管、神経束、心臓外壁を回避。筋組織損傷軽微。生命維持に支障なし』
(上出来だ)
『痛覚遮断を提案』
(いらない)
胸に異物が入っている感覚がある。
息をするたびに、鈍い熱が広がった。
エマの指が、ナイフの柄を握ったまま震えている。
その震えが、刃を通して俺の胸にも伝わってきた。
俺は、その手ごと包むように抱きしめた。
ミレイアの顔が、醜く歪んだ。
「あは・・・あはははは! バカが! 女のために死を選びよったわ!」
エマの唇が震えた。
ナイフを握る手に、さらに力が入る。
すぐに、その力が抜けた。
「いや・・・」
小さな声だった。
「いや・・・いや・・・」
エマの瞳に、光が戻る。
自分の手を見る。
俺の胸に刺さったナイフを見る。
それを握っている自分を見る。
「いやああぁぁ!!」
エマの叫びが、廊下に響いた。
彼女はナイフから手を離そうとした。
俺は、その手を逃がさなかった。
「離さない」
「どうして・・・」
エマの声は壊れていた。
「どうして・・・私なんかのために・・・」
「エマが好きだ」
言葉は、自然に出た。
血の匂いがする。
魔眼に操られた人々が、無言でこちらを見ている。
それでも、腕の中のエマだけが震えていた。
「愛している」
エマの呼吸が止まる。
「だから俺は、エマを傷つけない」
俺は彼女の背を抱きしめる。
「それに、俺を殺させもしない」
「アキラ・・・」
「俺を見ろ」
エマが顔を上げる。
目元は涙で赤くなっていた。
唇は震え、何か言おうとして、何度も失敗している。
俺を見ているのに、俺の胸に刺さったナイフから目を逸らせない。
「エマは俺を殺してなんかいない」
俺は言った。
「俺は、こんなんじゃ死なない」
「でも・・・私・・・」
「おかえり、エマ」
エマの体が、びくりと震えた。
「戻って、きた・・・?」
「ああ」
俺は彼女の背に回した腕へ、少しだけ力を込めた。
「俺のところに」
エマは、もう言葉を返せなかった。
俺の服を掴む。
震える指で、必死に掴む。
その手に、少しだけ力が戻っていた。
「ふざけるな・・・」
ミレイアが低く唸った。
「ふざけるなふざけるなふざけるな! 何を勝手に救われている! やれ! 全員、そいつらを殺せ!」
ミレイアが叫んだ。
だが、誰も動かなかった。
使用人たちは、虚ろな目のまま立ち尽くしている。
警備兵も、剣を握ったまま動かない。
クラウディオ公爵も、壁に手をついたまま、こちらを見ていた。
「な・・・?」
「アルがさっき言ったろ」
俺はエマを抱いたまま、ミレイアを見た。
「魔法を理解したって」
ミレイアの周囲に、銀色の薄い膜が浮かび上がった。
鳥の羽のような、霧のような、光の粒が重なった膜。
「お前を包んでいる銀色の膜。そいつがある限り、お前は魔法を外へ通せない」
「そんな・・・そんなもの・・・!」
「視線も、命令も、感情誘導も、全部だ」
「ちくしょう・・・!」
ミレイアが後ずさろうとした。
だが、足が動かない。
「な、なんで・・・」
「精霊はさ」
俺はゆっくり言った。
「こういうこともできるんだぜ」
床に、銀の粒が絡みついている。
ミレイアの足首から床石までを、見えない鎖のように固定していた。
「動け・・・動けよ!」
ミレイアが叫ぶが、足は動かない。
初めて、彼女の顔に本物の怯えが浮かんだ。
エマの指が、俺の服を掴んだまま震えている。
視線は、俺の胸に刺さったナイフから離れない。
触れようとして、止まる。
抜こうとして、また止まる。
俺はその手を軽く押さえた。
「まだいい」
エマが泣きそうな顔で俺を見る。
「大丈夫だ」
声を落として言うと、エマは小さく頷いた。
マルスがミレイアに歩み寄る。
「ミレイア」
「来るな!」
「少しごめんね」
マルスの声は静かだった。
優しいとさえ言える声だった。
だが、手は迷わなかった。
ミレイアの髪を掴み、顔を横へ向けさせる。
「やめろ・・・やめろやめろやめろ!」
「アキラ」
「おう。アル、場所は?」
『右耳上、視神経接続部付近。異物反応。魔力情報系統の中核と推定』
「パンドラはそこか」
マルスが短剣を抜く。
ミレイアの悲鳴が上がる。
俺はエマの頭を胸に押しつけ、見せないようにした。
短い刃の音。
肉を裂く音。
そして、湿った何かが引き剥がされる音。
「ぎゃああああああ!!」
ミレイアの叫びが廊下を貫いた。
マルスの手には、小さな結晶があった。
脈打っている。
赤黒く、濁った光を放つパンドラクリスタル。
クリスタルから毛細血管のような組織が伸び、肉にこびりついていた。
「これが、諸悪の根源かな」
マルスはそれを見下ろした。
「目が・・・!」
ミレイアが顔を押さえて転げる。
「見えない・・・見えない見えない見えないィィィ!!」
『視神経を中心に、神経系統へ深く根を張っていたようです。強制除去により、対象の視覚機能は壊滅的損傷』
「パンドラクリスタル・・・やはり安易に使っていいものじゃないね」
マルスの声は冷たかった。
廊下に立っていた人々が、次々と崩れ落ちる。
使用人が膝をつく。
警備兵が剣を取り落とす。
クラウディオ公爵が壁に手をつき、大きく息を吐く。
「儂は・・・」
公爵の声が震えていた。
「儂は、何を・・・」
誰もすぐには答えられない。
洗脳されていた。
だが、意識はあった。
記憶も残っている。
廊下のあちこちで、震える息が漏れていた。
膝をついた使用人が、自分の両手を見つめている。
警備兵の一人は、落とした剣を拾おうともせず、ただ床を見ていた。
今は、誰も言葉にできない。
「アキラ・・・」
エマが、俺の服を掴んだ。
視線は、俺の胸に刺さったナイフから離れない。
「これ・・・私が・・・」
「見てろ」
俺はナイフの柄を握った。
エマが息を呑む。
「待って・・・抜いたら・・・!」
「大丈夫だ」
ためらえば、余計に怖がらせる。
だから、俺はスッと刃を抜いた。
痛みが走る。
だが、血はほとんど出ない。
抜いたナイフを、横へ軽く放る。
カラン、と乾いた音が廊下に響いた。
エマの視線が、俺の胸に戻る。
裂けた服の奥が、淡く青く光る。
赤い線が塞がっていく。
血が止まり、皮膚が戻る。
傷があった場所に、エマの震える指がそっと触れた。
「・・・うそ」
「嘘じゃない」
『損傷修復完了。生命活動に支障なし』
(流石だ)
『当然です』
相変わらずの声に、少しだけ笑いそうになった。
エマは俺の胸元に触れたまま、呆然としていた。
さっきまでナイフが刺さっていた場所。
そこには、もう傷がない。
裂けた服と、ほんの少し残った血の跡だけがある。
エマの喉が、小さく鳴った。
止まっていた呼吸が、震えながら戻ってくる。
吸って、吐いて。
それだけのことに、時間がかかっていた。
「本当に・・・」
「ああ」
「本当に、生きてる・・・」
「だから言っただろ。俺を殺させもしないって」
エマの指が、俺の胸元をぎゅっと掴んだ。
声にならない息が漏れる。
次の瞬間、涙がまた溢れた。
「私・・・」
「エマ」
俺は彼女の頬に触れた。
「戻ってきた。それで充分だ」
「充分じゃない・・・!」
「じゃあ、これから取り戻せばいい」
エマの目から、また涙が溢れた。
「一緒に」
俺はそう続けた。
エマは、しばらく何も言えなかった。
やがて、小さく息を吸う。
「・・・さっきの言葉」
「ん?」
「もう一回、言ってほしい」
その声は、小さかった。
けれど、逃げなかった。
エマは涙を浮かべたまま、俺を見ていた。
俺は笑った。
「何度でも言う」
エマの手を握る。
「エマ。愛してる」
エマの顔が崩れた。
泣きそうで、笑いそうで、ぐしゃぐしゃだった。
「私も・・・」
そこで言葉が途切れた。
でも、エマは何とか声を振り絞った。
「愛してる」
俺は彼女を抱き寄せた。
エマは逃げなかった。
涙で濡れた目を伏せる。
ほんの少しだけ、俺の服を掴む手に力が入った。
唇が触れた。
震えた唇。
涙の味。
血の匂い。
それでも、確かに温かかった。
エマの手が、俺の服を掴む。
俺は彼女を抱きしめた。
誰も茶化さなかった。
誰も祝福の言葉を叫ばなかった。
ただ、廊下のあちこちで、誰かが小さく泣いていた。
マルスが静かに息を吐く。
「よかった」
その声だけが、かすかに聞こえた。
俺はエマを抱きしめたまま、目を閉じる。
彼女の震えが、少しずつ収まっていく。
それだけを、腕の中で確かめていた。




