第68話 レーヴェンハルト公爵
レーヴェンハルト公爵家の門が、ゆっくりと開く。
門の向こうにあったのは、王都ラムールのような白い威圧感ではなかった。
そこは、灰色の石で組まれた壁で囲まれた、落ち着いた古い庭木がある場所。
湖から吹き上げてくる風が気持ちいい。
派手ではない。
だが、長い時間この土地を守ってきた家の重みがあった。
王都ラムールは、美しかった。
美しく、冷たく、狂っていた。
この屋敷は違う。
美しさを見せつけるための場所ではなく、何かを守るために建てられた、温かい場所に見えた。
門番に案内され、俺たちは屋敷の中へ入る。
使用人たちは俺たちを見ると、静かに頭を下げた。
王都で見たような、死んだ魚のような目ではない。
警戒も緊張もある。
だが、そこには人の反応があった。
何より目が雄弁に語っている。
視線を伏せるにしても、怯えて何も見ないようにしているのではない。こちらを確かめ、立場を考え、礼を取っている。
それだけのことが、今は妙に人間らしく見えた。
俺の隣で、エマも小さく息を吐いた。
同じことを感じているのかもしれない。
王都では、人が人であることを削られていた。
この屋敷には、まだそれが残っている。
少なくとも、今のところは。
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応接室で待っていた男は、俺たちが入ると静かに立ち上がった。
上等だが華美ではなく、貴族としての品格を感じる服を着た男だ。
年は五十を越えているだろう。髪には白いものが混じり、目元には疲労の影があった。
それでも、背筋は伸びている。
ただの貴族ではない。
この土地を背負って立っている男の顔だと思った。
「ただいま、クラウディオ公」
男はマルスへ視線を向けた。
その瞬間だけ、彼の表情がわずかに揺れた。
安堵。
痛み。
そして、押し殺した敬意。
「よく、ご無事で」
マルスは少し困ったように笑った。
「ここでは、ただのマルスだよ」
「承知しております」
クラウディオ公爵はそう言ったが、その声には、承知していないものが混じっていた。
「そうそう、二人を紹介するね。アキラとエマだ。オーブリンから首輪の調査に来た」
「アキラ=ジェイ=ラッシュバックです」
「精霊使いアキラ様ですな。噂は聞いております」
「エマ=ロベールと申します」
俺の雑な挨拶に対して、エマのカーテンシーは美しかった。
使用人が茶を運ぼうとしたが、公爵は短く首を横に振る。
「場所を変えましょう。ここでは、話せないことが多すぎる」
案内されたのは、屋敷の奥にある小さな部屋だった。
窓は細く、扉は厚い。
壁には装飾のような模様が刻まれているが、魔道具か何かだろう。部屋に入った瞬間、外の音が少し遠くなった。
(アル、盗聴の可能性は?)
『周辺振動、空気圧変化、壁面微細孔を確認。現時点で盗聴装置に相当するものは検出されません』
(魔法は?)
『魔力機構は存在しますが、外部遮断系と推定。会話漏洩防止用途の可能性が高いです』
(なら、大丈夫そうか)
『完全保証はできませんが、現時点では安全度は高いと判断します』
扉が閉じられた。
室内に残ったのは、俺とエマ、マルス、クラウディオ公爵だけだ。
公爵はそこで、改めて深く頭を下げた。
「よくぞ、ご無事で」
「クラウディオ公、やめてくれ」
「承知しております。ですが、マルルークス殿下」
マルルークス。
聞き慣れない名だった。
だが、俺がその意味を考えるより早く、アルが情報を提示する。
『照合完了。マルルークス=ヴァン=ラムール。ラムール王国第一王子。公的記録上は数年前に死亡。現在の名、マルス=アルトライアとの容姿、年齢に高い一致を確認』
(第一王子・・・しかも、死んだことになっている?)
『はい』
俺はマルスを見た。
「なるほど。そういうことか」
マルスが、少し目を丸くした。
「アキラはマルルークスを知ってるの?」
「今、アルに教えてもらった」
「・・・君の精霊は、本当に何でもありだね」
「否定はしない」
マルスは小さく笑った。
だが、その笑みは少し苦かった。
エマは静かに息を吐く。
「マルルークス=ヴァン=ラムール第一王子・・・。まさかとは思っていたけれど、本当にそうだったのね」
「エマは知っていたのか?」
「知っていたわけではないわ。ただ、ラムール王国の第一王子が亡くなったという話は、帝国にも伝わっていたもの」
「第一王子の顔まで?」
「肖像画は見たことがあるわ。でも、あれはもっと幼い頃のものだったから」
エマはマルスを見る。
「ただ、ゼフィランドという方が名前を呼ばなかった理由は、これで分かったわ」
マルスはクラウディオ公爵へ向き直った。
「ゼフィランドは、処刑された」
公爵の表情が沈む。
「・・・そうですか」
「処刑広場で目が合った。だが、最後まで、僕の名を呼ばなかった」
「彼らしい」
クラウディオ公爵は目を閉じた。
「立派な男でした」
「うん」
マルスの声は静かだった。
静かすぎて、かえって痛い。
「ただ、最後に警告を残した。自分の目を指し、王宮を指した。そして、見るな、と」
「やはり、目か」
クラウディオ公爵の声が低くなる。
やはり。
その一言で、この公爵も同じ疑いを持っていたことが分かった。
「心当たりがあるのか?」
俺が聞くと、公爵はゆっくり頷いた。
「確証はありません。ですが、王宮から戻った者の中に、妙な変化を見せる者が増えています」
「変化?」
「判断がずれるのです。怒るべきところで怒らない。疑うべきところで疑わない。昨日まで反対していた王家の政策に、翌日には賛同する。王や王妃派に対して、不自然なほど従順になる」
「洗脳か呪いか・・・」
「こちらも座して見ていただけではありません。解呪、ポーション、あらゆる手段で回復を試みました。ある程度回復したものもおりました」
「その人は?」
「何があったか聞いたのです。そして、『目』について話そうとしたとき、全員血を吐いて死にました」
「魔法反応は?」
エマが聞いた。
「残っていませんでした。少なくとも、我々が確認できる範囲では」
(アル)
『視線を媒介にした精神干渉、認識誘導、命令伝達、記憶改変の可能性が高いです』
(分類するなら?)
『洗脳系能力。便宜上、魔眼と呼称するのが妥当です』
「洗脳系の魔眼か」
言葉にすると、嫌な重さがあった。
エマが眉を寄せる。
「魔眼・・・。古い伝承では聞くけれど、実在するとなると厄介ね」
「魔法なのか、魔道具なのか、生まれつきの能力なのか、それすら分かっていません」
クラウディオ公爵は言った。
「おそらく、目を合わせた時に干渉するのでしょう」
部屋の空気が重くなる。
目を見るな。
ゼフィランドの警告は、たぶん比喩ではない。
本当に、見ることが危険なのだ。
「王宮から逃げ出した者を一人救出しました。本当は二人いたのですが、一人は既に洗脳下にあったようでして。何があったのか聞き取りをしていると、自分の目を指さし、血を吐いて死にました」
クラウディオ公爵が言った。
「生き残った者は?」
「下級メイドです。名はミレイア」
「王宮の? 彼女はなぜ無事なんだ?」
マルスが聞き返す。
「王宮から我々の協力者が外へ出しました。女官長の管理下にいた娘です。なぜ無事かは・・・見てもらえばわかると思います」
「そうか・・・状態は?」
「衰弱。睡眠不足。食事もあまり取れていません」
「話はできるのか?」
「はい。ただ、彼女は誰とも目を合わせようとせず、王宮へ戻されることを極端に恐れています」
公爵は声を落とした。
「特に、王妃付き女官長を恐れている。名を聞いただけで震えるほどに」
「女官長か」
マルスの表情が硬くなる。
「そうです。我々の把握している疑惑対象の一人です」
クラウディオ公爵は、机の上に王宮の見取り図を広げた。
古い図面に、赤や黒の印がいくつも付けられている。
王宮。
その言葉だけで、嫌な感じがするようになってしまった。
「まず、最も疑わしいのは洗脳系の魔眼、またはそれに類する能力です。問題は、誰がそれを持っているのか。あるいは、誰がそれを使わせているのか」
公爵は見取り図の一角に指を置いた。
「疑わしい者は、少なくとも四人おります」
一人ではない。
四人。
その時点で、王宮の闇が一つの点ではなく、面で広がっているように感じた。
「一人目は、王妃付き女官長セラフィーヌ=ヴァレ。王宮内の女官、侍女、下級メイドの配置を握っています」
「ミレイアを管理していた相手か」
俺が言うと、公爵は頷いた。
「ええ。ミレイアは、セラフィーヌの名を聞くだけで震えます」
女官長。
直接、使用人を管理する立場。
ミレイアが怯えている相手。
しかしどうだろう。王や他の王侯貴族の眼を直接見れる立場だろうか。
クラウディオ公爵の指が、別の場所へ移る。
「二人目は、宮廷魔導師長オルガン=メルキウス。精神干渉、認識誘導、結界術に通じる男です」
「魔法で人を操っているなら、その人物が怪しいわね」
エマが静かに言う。
「それだけではありません」
公爵の声が低くなった。
「隷属の首輪を作らせた指示系統にも、彼の名が見え隠れしている」
「首輪を?」
俺の声が硬くなった。
ヴェルクハーフェンで見た、あの首輪。
人を壊すための道具。
ドグランが顔を歪めていた、あの忌まわしい魔道具。
その名がここで出るとは思わなかった。
「確定ではありません。ですが、押収された資料と王宮側の記録を照らす限り、オルガンの管理印に近いものが複数見つかっている」
『隷属首輪関連資料との照合を推奨』
(後でやる)
『了解』
オルガン=メルキウス。
こいつは、かなり怪しい。
クラウディオ公爵の指はさらに移る。
「三人目は、王の侍医ダリオ=ヴェンクス。薬、香、鎮静剤、神経安定薬に詳しい」
(アル)
『魔法反応が残らない場合、薬理的作用、神経伝達阻害、睡眠誘導物質、香気成分による判断力低下は候補に入ります』
(つまり、侍医も怪しいか)
『はい』
魔法ではなく薬。
香。
眠り。
神経。
俺たちの時代なら、洗脳と呼ばれるものは魔法ではない。薬物、睡眠不足、恐怖、孤立、情報遮断。そういうものが組み合わされる。魔法を加えればより効率よく洗脳できるのではないか。
この世界でも同じとは限らないが、考え方としては外せない。
「四人目は、王宮神官長ガレオン=オルディス。公開処刑や忠誠唱和の儀式を整えた人物です」
「昨日の広場か」
俺は思わず言った。
石を握らされ、王への忠誠を唱えさせられ、血を見せられた群衆。
あれは処刑ではない。
人を裁く場所ではない。
人が人を傷つけることに慣れるまで繰り返すための儀式。
その設計者なら、怪しくないはずがない。
「ええ。公開処刑と忠誠唱和には、深く関わっているでしょう」
クラウディオ公爵は頷いた。
「ですが、ゼフィランドが残した“王宮内で目を見るな”という警告とは、少しずれる。神官長は普段神殿にいます。王城ではない。王宮内で人を変えている中心かどうかは別です」
「処刑広場と王宮内の異常は、繋がっていても担当が違うかもしれない、ということか」
「そう見ています」
四人。
女官長、魔導師長、侍医、神官長。
どれも怪しい。
だが、それだけでは足りない気がした。
「その四人は、手段を持っている人間だな」
俺が言うと、クラウディオ公爵がこちらを見る。
「手段、ですか?」
「人を変える方法に関われそうな人間、という意味だ。魔法、薬、儀式、王宮内の使用人管理。どれも怪しい」
俺は、机の上の王宮見取り図を見た。
「ただ、もう一つ見たい」
「何をです?」
「誰が得をしたかだ」
クラウディオ公爵の表情が、わずかに変わった。
マルスもこちらを見る。
「俺の知っている考え方だと、事件でまず見るべきものの一つに、“誰が利益を得たか”というのがある」
「最も利益を得た者が、最も怪しい、ということですか」
「ああ。ただし絶対じゃない。濡れ衣の可能性もある。でも、調べない理由にはならない」
クラウディオ公爵は、しばらく沈黙した。
そして、一枚の書類を引き寄せる。
「ならば、グラシオン=バル=ローデンを外すわけにはいきません」
「誰だ?」
「現ラムール王国宰相です」
宰相。
その言葉だけで、部屋の空気が少し変わった。
「数年前までは、地方子爵にすぎなかった男です。ですが、第一王子派と旧重臣層の粛清後、伯爵、侯爵と異常な速度で爵位を上げ、先月に宰相となりました」
マルスの表情が変わった。
「グラシオンが宰相に?」
「ええ」
「そこまで出世したのか」
「殿下が王都を離れた後、彼は急速に力を伸ばしました。現在は王命の執行、人事、処罰、忠誠監査にまで関与しています」
『公開官報、王宮人事記録の断片、貴族名簿、処刑記録を照合』
(何か分かるか?)
『グラシオン=バル=ローデンの昇進速度は異常です。第一王子派と推定される官僚・貴族の失脚後、空席となった権限の多くが同人物、または同人物の派閥へ集中しています』
(露骨だな)
『はい。利益享受者としては最上位候補です』
「アルの第一印象でも、そいつはかなり怪しいらしい」
「精霊殿にもそう見えますか」
クラウディオ公爵は苦い顔をした。
「なら、調査しないわけにはいきませんな」
グラシオン=バル=ローデン。
子爵から伯爵、侯爵。
そして宰相。
第一王子派が消え、旧重臣層が潰れ、その空席を埋めるように出世した男。
最も利益を得た者。
果たして、誰が魔眼を持っているのか。
「ミレイアに会えますか」
マルスが言った。
クラウディオ公爵は頷く。
「もちろんです。ただ、彼女はひどく怯えています」
「王宮に戻すつもりはないんだけどな」
「そう伝えています。ですが、恐怖は理屈では消えません」
それはそうだ。
王都で見たものを思えば、王宮から出てきた人間が怯えるのは当然だ。
むしろ、怯えない方がおかしい。
(アル、今後、目を合わせずに会話できるか)
『可能です。相手の眼球領域を視覚上で低解像度化し、視線方向のみ補助表示します』
(そんなことできるのか)
『映像処理です』
(便利だな)
『ただし、対象の表情認識精度は低下します』
(それは仕方ない)
俺はエマを見る。
「エマ、念のため相手の目は見ない方がいい」
「分かったわ」
「不自然にならない程度でいい」
「それが一番難しいのだけれど」
エマはそう言いながらも、真剣に頷いた。
クラウディオ公爵が立ち上がる。
「こちらへ」
部屋を出て、さらに奥へ進む。
廊下の空気が少し変わった。
先ほどまでの密談室とは違う、静かな気配。
病人や保護された者がいる場所に近い空気だ。
公爵は一つの扉の前で足を止め、軽く叩いた。
「入るぞ」
返事はなかった。
ただ、室内で小さく布が擦れる音がした。
公爵が扉を開ける。
案内された小部屋に、若い女が一人座っていた。
年は、十八か十九ほどだろうか。
小柄で、ひどく細い。
くすんだ緑色の髪を、左右で二つに結んでいる。
二つおさげ。
長い前髪が目元を覆い、表情はよく見えない。
王宮のメイド服ではない。
公爵家で用意されたらしい、簡素な服を着ている。
彼女は、俺たちが部屋に入っても顔を上げなかった。
膝の上で握られた手が、かすかに震えている。
『対象、強い緊張反応。心拍上昇、呼吸浅い。睡眠不足の兆候』
(怯えてるな)
『はい。外傷は少ないですが、精神的負荷は高いと推定されます』
ミレイアは、長い前髪の奥で唇を震わせた。
「・・・お、王宮には戻さないでください。お願いします」
ひどく怯えた目で最初に彼女が言ったのは、それだった。




