第67話 アステリオン湖
王都ラムールの白い城壁が、少しずつ遠ざかっていく。
美しい街だった。
だからこそ、余計に気持ちが悪かった。
あの白い壁の内側で、明日も誰かが処刑されるのだろう。
誰かが石を握らされ、王への忠誠を唱えさせられ、そして、死んだ魚のような目でそれを見つめる。
そう考えると、城壁の白さすら、処刑台を洗い流した後の水の色に見えてくる。
俺は、振り返るのをやめた。
マルスは、ほとんど話さなかった。
普段なら、柔らかく笑って何か一言くらい挟みそうなものだが、今は前を見たまま歩いている。
処刑台の男。
ゼフィランド=セイル。
最後までマルスの名前を呼ばなかった男。
自分の目を指し、王宮を指し、「見るな」と叫んだ男。
その顔が、俺の頭にも残っていた。
俺たちは無言で歩き続けた。
「船着き場は、もうすぐだよ」
マルスがようやく口を開いた。
「湖を渡るのか」
「うん。湖沿いの街道を馬車で行くより早い。今は、少しでも早く南へ行きたい」
「手配済みか?」
「ヤギがね」
すごいな、あの情報屋。
いや、すごいという言葉で済ませていい相手ではない。
ある時は灰兎の雑貨店の店主。
また、ある時は路地裏の物乞い。
どちらの人間も同じだとアルは言った。
あれほど姿も声も変えられる人間を、組織の一員として使っている。
どれだけの情報網を持っているのだろうか。
だが、味方であるうちは、これほど心強い相手もない。
道の先に、湖が見えてきた。
アステリオン湖。
王都ラムールとレーヴェンハルト公爵領を隔てる大湖。
海ではない。
だが、対岸が霞むほど広い。
風が水面を撫で、朝の光が細かく砕けている。
王都の白い壁と処刑広場の記憶が背後にあるせいか、その水の広がりが妙に現実離れして見えた。
船着き場には、いくつかの小型船が並んでいた。
荷運び用の船が多い。
木箱や麻袋を積み込む男たちの声が飛び、湖鳥が水面近くを滑るように飛んでいる。
その中の一隻。
古びてはいるが、よく手入れされた小型の商用連絡船の前で、船頭らしい男がこちらを見た。
「客は三人。荷は少しと聞いている。南岸まで」
男はそれだけ言った。
マルスが頷く。
「聞いている通りだよ」
「なら乗れ。出す」
船頭は俺たちの顔も荷物も深く確認しなかった。
余計なことは聞かない。
それが、こちら側の人間である証のようだった。
俺たちは船に乗り込む。
エマは最後までフードを深く被ったままだ。
船が桟橋を離れる。
水面が船腹を叩き、王都側の岸がゆっくりと遠ざかっていく。
船頭は舵を取りながら、こちらを一度も振り返らなかった。
しばらくして、マルスが小さく頷いた。
「ここなら大丈夫だ。船頭はヤギの協力者だよ」
「なら、戻すか」
俺は小さく息を吐いた。
(アル、エマの偽装を解除してくれ)
『了解しました』
エマの顔を覆っていたそばかすと傷が、薄い霧のように消えていく。
くすんで見えていた髪が、元の色を取り戻す。
隠されていた耳の輪郭も、いつもの形に戻った。
エマはしばらく動かなかった。
それから、そっと船縁へ近づき、湖面を覗き込む。
揺れる水面に、元のエマの顔が映っている。
銀の髪。
翡翠の瞳。
長く尖った耳。
いつものエマだ。
「不思議ね。本当に戻ったわ」
「ああ、戻ってるな」
エマは水面に映る自分を見つめながら、少しだけ安心したように息を吐いた。
それから、ふとこちらを見る。
「ねぇ、アキラ」
「ん?」
「私の耳、ちゃんとあるかしら?」
「ああ、ちゃんとあるぞ」
そう言いながら、俺はエマの髪を少しだけ避けて、耳の先に軽く触れた。
「んっ・・・!」
エマの肩が跳ねた。
「さ、触らなくてもいいからッ!」
「え?」
エマの顔が、一瞬で赤くなる。
耳まで赤い。
「す、すまん。痛かったか?」
「痛くはないわよ!」
「じゃあ、どうした?」
「どうしたって・・・!」
エマは何か言おうとして、言えずに口をぱくぱくさせた。
その横で、マルスが小さくため息をつく。
「ダメだよ、アキラ」
「何が?」
「エルフの女性の耳を触って良いのは、結婚を誓った恋人や配偶者だけなんだ」
「そ、そうなのか!?」
俺は慌てて手を引いた。
「す、すまん! 本当に知らなかった!」
「い、良いのよ。知らなかったんだし」
エマは真っ赤な顔のまま、視線を逸らした。
「それに、アキラなら・・・」
「え?」
「な、なんでもないわ!」
エマはフードを掴み、顔を隠すように深く被り直した。
いや、もう偽装は解いたのだから、そこまで隠さなくてもいいはずだ。
ただ、顔が赤すぎる。
耳まで赤い。
どう見ても隠したいのはそこだ。
マルスが、どこか楽しそうに笑う。
「まったく、見せつけてくれるね・・・」
「そんなんじゃないからっ!」
エマの声が湖上に響いた。
船頭がちらりとこちらを見たが、すぐに何も聞こえなかったような顔で舵へ視線を戻す。
さすがヤギの協力者だ。
聞かない能力が高い。
王都で見たものが、消えたわけではない。
処刑台の血も、死んだ魚のような目をした群衆も、まだ頭の奥に残っている。
それでも。
エマがこうして怒って、照れて、声を上げている。
そのことに、少しだけ救われた気がした。
船は湖の上を滑るように進んだ。
王都ラムールの白い城壁は、湖面の向こうで少しずつ小さくなっている。
代わりに、水の広がりが視界を満たしていく。
広い。
湖というより、内海に近い。
風が吹くたびに、細かな波が光を砕き、船の影が揺れる。
エマはまだ少し頬を赤くしていたが、湖上の風に当たっているうちに、少しずつ落ち着いてきたようだった。
マルスも、先ほどよりは表情が柔らかい。
ただ、その目の奥には、まだ処刑台の影が残っている。
俺も同じだ。
だからこそ、聞かなければならない。
「マルス」
「何かな」
「ゼフィランドは、最後に目を指した」
「うん」
「王宮の方も指していた」
「見ていたね」
「あれは、どういう意味だ」
マルスはすぐには答えなかった。
湖面を見つめたまま、少しだけ黙る。
「正直、まだ分からない」
「分からない?」
「分からないと言うより、確信が持てない。嫌な想像はいくつかあるけれどね」
(アル)
『はい』
(ゼフィランドの発言と動作、再評価できるか)
『実施済みです』
(早いな)
『重要度が高いと判断しました』
視界の端に、アルの分析結果が簡易表示される。
『発言「見るな」、自分の目を指す動作、王宮方向の指示。この三点から、王宮内、または王宮関係者に視線を媒介とした危険要素が存在する可能性が高いです』
(候補は?)
『精神干渉、魅了、認識誘導、命令伝達、記憶改変、恐怖誘導。ただし証拠不足のため、断定不可』
(視線系の能力か)
『はい。魔法、魔道具、生体能力、未知技術のいずれかは不明です』
俺はマルスに視線を戻した。
「視線を媒介にした精神干渉の可能性がある、とアルは見ている」
マルスの表情が、わずかに変わった。
「やっぱり、そう考えるよね」
「心当たりがあるのか?」
「あるようで、ない。ないようで、ある」
「それは答えになってないな」
「ごめん。でも、本当にそうなんだ」
マルスは苦笑した。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「王宮には、昔から妙な空気があった。いや、昔はそんなものじゃなかったはずなんだ。少しずつ、何かが変わっていった」
「少しずつ?」
「うん。記憶が変わる。判断がずれる。怒るところで怒らない。疑うところで疑わない。見ればおかしいと分かることを、誰もおかしいと言わなくなる」
それは、王都の広場で見た光景そのものだった。
全員が死んだ魚のような目で処刑を見ていた。
石を握り、言葉を唱え、血を見ても、誰も声を上げなかった。
「王宮から始まって、王都に広がったのか」
「その可能性はある」
マルスは船縁に手を置いた。
「ゼフィランドは、王宮記録局にいた。人の言葉、命令、処罰、異動、そういう記録を見る立場だった。だから、気づいたのかもしれない」
「あの人は、マルスを見ていた」
「うん」
「名前を呼ばなかった」
「呼べば、僕だけじゃなく、周囲も巻き込むからね」
「分かっていて、呼ばなかったんだな」
「そうだね」
マルスは湖の方を見た。
「立派な人だったよ。僕には、あの人を助けられなかった」
その声は静かだった。
泣いているわけではない。
怒鳴るわけでもない。
ただ、深いところに重りを沈めたような声だった。
「助けられなかった人間の数を、数え始めたらきりがない」
俺は言った。
「そうだね」
「でも、数えないと忘れる」
それは軍人であったジェイクとしての実感だった。俺はアキラであり、ジェイクでもあるのだ。
マルスがこちらを見た。
少しだけ驚いたような顔だった。
「君は時々、痛いことを言うね」
「自分にも刺さってる」
「だろうね」
マルスは小さく笑った。
今度の笑みは、少しだけ本物に近かった。
湖の風が変わった。
帆が一度、力なく揺れる。
船頭が舌打ちした。
「風が巻いてるな。この調子だと、南岸に着くのが少し遅れるかもしれん」
エマが空を見上げた。
雲は薄い。
だが、湖面近くの風が乱れているのか、船が思うように進まない。
エマは何も言わず、指先を少しだけ動かした。
次の瞬間、帆がふわりと膨らむ。
船がすっと前へ出た。
「お?」
船頭が空を見上げる。
「風が変わったな。運がいい」
俺はエマを見た。
「今の、エマか?」
「少しだけ」
「助かった」
「私も、やるときはやるのよ」
「ああ。知ってる」
エマは少しだけ得意そうに、けれどすぐに照れたように視線を逸らした。
船は風を受け、湖の中央へ向かって進んでいく。
王都はもう、遠い。
遠いのに、まだ心の中に張り付いている。
それでも、エマの風が船を動かしているのを見ていると、少しだけ呼吸が楽になった。
『湖水を微量採取しました』
(いつの間に)
『乗船直後です』
(早いな)
『水中に未知金属イオン、有機微粒子、未分類の藻類反応を確認。地球水系、およびジェイク時代に登録された標準水系データベースとは大きく異なります』
(湖まで素材に見えるのか)
『環境中の未知成分は重要な資源候補です。食品、薬品、染料、金属精錬補助材、培養基材として利用できる可能性があります』
(リファニーが聞いたら網を持って飛び込みそうだな)
『浮力補助具の設計は可能です』
(やらないぞ)
『採取は微量で継続します』
(聞く前にやるな)
『環境負荷はありません』
(そういう問題じゃないんだが)
アルらしい返答に、少しだけ肩の力が抜けた。
王都の後に、湖の水を分析している。
場違いと言えば場違いだ。
だが、それが俺たちだ。
壊れた国を見ても、処刑台を見ても、ただ沈むだけではない。
世界を知り、分析し、必要なら使う。
それが、俺とアルのやり方だ。
そしてエマは、風で船を進めている。
マルスは、南を見ている。
それぞれのやり方で、前に進んでいた。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
やがて、南岸が近づいてきた。
最初に聞こえたのは、人の声だった。
荷を下ろす男の怒鳴り声に、魚籠を抱えた女の笑い声。
桟橋を走る子供が、船を見て手を振る声が響いていた。
たったそれだけのことだった。
だが、昨日の王都を見た後では、その当たり前の喧騒が妙に胸に沁みた。
誰かが笑い、誰かが怒鳴り、子供が走っている。
それだけで、少し安心する。
南岸の桟橋に船が着く。
船頭は短く「着いたぞ」と言い、荷を降ろし始めた。
俺たちも船を降りる。
南岸にも検問はあった。
兵士が立ち、通行人の札を確認している。
だが、王都の検問とは違った。
兵士は札を見る。
荷を見る。
確認する。
それだけだ。
手は出されない。
銀貨も求められない。
誰かを笑う声もない。
エマの耳を隠すため再び偽装はしたが、少なくとも顔を見て嘲るような空気はなかった。
それだけで、まともに見えた。
ただ、まともに見えること自体が、少し悲しかった。
「ここがレーヴェンハルト公爵領か?」
「まだ入口だよ。領都クノッソスは少し先だ」
マルスが答える。
「王都とは空気が違うな」
「公爵家が抑えているからね。完全に安全とは言えないけれど、少なくとも王都ほどではない」
「それでも、王都の手は伸びているんだろ?」
「うん」
マルスの表情は緩まなかった。
「だから急ぐ」
船着き場からクノッソスへ向かう道は、王都ほど整ってはいなかった。
石畳もところどころ欠けている。
水路も貴族街のように美しく整えられているわけではない。
だが、人の暮らしがあった。
荷を引く馬が嘶き、漁師が網を畳み、子供が叱られながら走り回っている。
商人が値段で揉めている。
女たちが洗濯物を抱えて笑っている。
何でもない風景。
普通の風景。
その普通が、こんなにもありがたいものだとは思わなかった。
エマも少し表情を緩めていた。
湖から吹く風が、彼女の髪を揺らす。
俺は、ふとさっき触れてしまった耳のことを思い出し、慌てて視線を逸らした。
「何?」
「いや、何でもない」
「・・・思い出したでしょう」
「何を?」
「ここ。耳のこと」
エマは自分の耳を指して言う。
「いや、その・・・」
エマの耳が、また少し赤くなった。
マルスが前を歩きながら、肩を揺らしている。
「マルス」
「何かな?」
「笑ってるだろ」
「そんなことはないよ」
「嘘だ」
「旅には息抜きも必要だからね」
「人を息抜きにしないで」
エマが小さく抗議する。
その声が、さっきよりずっと自然に聞こえた。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
領都クノッソスは、王都ラムールほど美しくはなかった。
白い壁が揃っているわけでもない。
大通りが完璧に整備されているわけでもない。
建物の高さもまちまちで、湖から運ばれた魚の匂いと、焼きたてのパンの匂いと、馬の匂いが混ざっていた。
だが、人の声がある。喧騒がある。
それが一番違った。
王都ラムールでは、人がいても声が死んでいた。
クノッソスでは、声が生きている。
怒っている声も、笑っている声も、商売の声も、子供の声もある。
それだけで、街が生きているように見えた。
街の奥へ進むにつれて、道は少しずつ広くなった。
湖を見下ろす丘の上に、大きな屋敷が見える。
レーヴェンハルト公爵家の館。
王都の白とは違う、落ち着いた石造りの建物だった。
派手ではない。
だが、長い歴史を感じさせる重みがある。
長い時間、その土地を治めてきた家の建物。
そんな印象を受けた。
門の前には兵士が立っている。
装備は整っているが、王都の兵士のような嫌な笑いはない。
マルスが近づくと、門番の一人が表情を変えた。
驚き、警戒。
そして、安堵。
そのすべてが一瞬で浮かんで、すぐに消える。
訓練されている。
だが、人間らしい反応だった。
「マルス様」
門番は小さく言った。
声を抑えている。
周囲に聞かせたくないのだろう。
「クラウディオ公爵に取り次いでほしい」
「すぐに」
門番が走る。
俺は屋敷の門を見上げた。
マルスが、門の前で足を止めた。
「ここから先が、本当の用件だ」
俺は頷く。
エマも隣に立つ。
湖の風が、丘の上まで届いていた。
王都ラムールの重い空気とは違う。
それでも、胸の奥にある不穏さは消えない。
レーヴェンハルト公爵家の門が、ゆっくりと開いた。




