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第66話 王都ラムール


 翌朝。


 灰兎の雑貨店を出る頃には、空は薄く白み始めていた。


 眠れたかと聞かれれば、微妙だ。


 眠った気はする。

 だが、休んだ気はしない。


 昨夜のマルスの目が、まだ頭に残っている。



「行こう」



 マルスが言った。

 声はいつも通りだった。



「ああ」



 俺は頷いた。


 エマも無言でフードを深く被る。


 今日は王都に入る。


 王都ラムール。

 この国の中心。


 狂っている国の、心臓部だ。


 王都へ近づくほど、道は綺麗になっていった。


 石畳は整い、側溝には水が流れ、街道沿いには背の低い街路樹まで植えられている。


 兵士の装備も、ノルドヴェイルで見たものより整っていた。槍の穂先は磨かれ、胸当てには王家の紋章らしい意匠が刻まれている。


 遠くに白い城壁が見えた。


 朝日に照らされ、薄く輝いている。


 王都ラムールは、遠目には美しい都だった。


 だからこそ、気持ちが悪かった。


 奴隷の首輪も、兵士の横暴も、子供が投げた石も、すべてこの白い城壁へ続く道の上にあった。




「検問だ」



 マルスが小さく言った。


 王都の外門前に、荷馬車と旅人の列ができている。


 門は大きい。


 白い石で組まれた城壁に、鉄で補強された扉が開いている。その手前に検問所があり、兵士たちが通行人の札と荷物を確認していた。


 確認している、というより、止める相手を選んでいるようにも見える。


 ヒュームの商人は軽く流される。


 身なりの良い者も流される。


 だが、他種族らしき者や、貧しそうな者はすぐに止められた。


 荷物を開けさせられる。

 女は服の中まで確認される。

 さらに、見目麗しい女性はどこか別室に連れていかれる。


 そして、ときどき金が動く。


 マルスは、俺たちに目配せした。



「ここから検問を抜けるまでは、昨日の名前で」


「アキレス=ジェイド」


「エルマ=サーベル」


「マルクス=アルト」



 三人で小さく復唱した。

 声は落ち着いている。


 だが、エマの手は外套の奥でわずかに握られていた。



(アル)


『はい』


(エマの偽装を)


『実行します』



 エマの耳元と顔の周囲で、ほんのわずかに光が揺れた。


 ナノマシンによる光学偽装。

 魔力反応はない。

 幻術ではないからだ。

 ただ、光の見え方を変えているだけ。


 瞬間、フードの奥にいるのは、エマではなくなった。


 そばかすが目立ち、頬から顎にかけて古い傷のある、中年の女魔法使い。

 エルフの長い耳も見えない。

 月白を帯びた灰銀の髪も、くすんだ灰色に見える。



「次」



 兵士の声が飛ぶ。

 俺たちの番だ。


 マルスが先に進み、自然な動作で身分札を出す。



「マルクス=アルト。案内役だ。こちらはアキレス=ジェイド。商人兼冒険者。こちらは護衛のエルマ=サーベル」



 兵士は札を受け取り、ざっと目を通した。



「荷は?」


「乾物と香辛料の見本。王都で商談予定がある」


「商談ねぇ」



 兵士は俺を見る。

 次に、エマを見た。



「女、フードを取れ」



 来た。


 分かっていたのに、腹の奥が冷える。


 エマは一瞬だけ止まった。

 それでも、静かにフードへ手をかける。


 布が下りる。


 そこにいたのは、エマではなかった。


 そばかすの目立つ、顔に古い傷のある中年の女魔法使い。


 兵士は顔をしかめた。


 そして、すぐに視線を逸らした。



「おい、もう被って良いぞ」


「ったく、雰囲気だけかよ」


「だが、そんだけひどい顔なら隠したくもなるわな、ぎゃはは!」



 周囲の兵士が笑った。

 下品な笑い声だった。


 俺の中で、何かが冷たくなる。


 怒りは熱いものだと思っていた。


 違う。


 本当に腹が立つと、血が冷える。

 指先まで冷えて、逆に動きそうになる。



『筋緊張上昇。行動抑制を推奨』



 分かっている。

 今ここで動けば終わりだ。


 だが、エマが侮辱された。


 それだけで、この門の兵士を全員叩き伏せる理由にはなる。

 俺の中では、なる。


 だが、それをやればエマを守れない。

 マルスの目的も潰れる。


 だから、動かない。


 マルスは表情を変えず、兵士の手元に銀貨を一枚滑らせた。



「王都は初めてでね。書類の扱いに不備があれば、教えてほしい」



 兵士の指が銀貨を消した。


 見事な早業だった。



「・・・まあ、今回はいい。次は荷札の控えをもう一枚用意しておけ」


「助かる」


「行け」



 検問は、それで終わった。


 銀貨一枚。

 それだけで、疑いも、確認も、侮辱も、全部処理された。


 エマはフードを被り直し、無言で歩き出した。

 俺も続く。


 門を抜けた瞬間、王都の空気が身体に触れた。




 検問を抜けてしばらく歩いた。


 マルスが小さく言う。



「もう普通の名前でいい」


「分かった」



 俺は隣を歩くエマを見た。



「エマ」


「何?」


「悪かった」


「謝らないでいいわよ。必要だったもの」


「でも」


「必要だったのよ」



 エマはそう言った。

 声は落ち着いていた。


 だが、少し硬い。


 偽装はまだ維持している。


 王都内でいつフードを取らされるか分からない以上、解除するわけにはいかない。


 だから、俺の隣にいるのはエマなのに、見た目はエマではない。


 そのことが、妙に胸をざらつかせた。



「・・・変ね」



 エマがぽつりと言った。



「何が?」


「私、自分の見た目を、あまり好きじゃないと思っていたの」



 意外な言葉だった。



「好きじゃない?」


「だって、面倒でしょう。見られるし、値踏みされるし、勝手な意味を乗せられる。家では血筋の証のように扱われて、外ではエルフの美貌として見られる。私自身じゃなくて、顔や血や種族だけを見られている気がしていた」



 エマの声は静かだった。


 でも、その奥に少しだけ揺れがある。



「だから、好きだなんて思ったことはなかったわ」


「・・・今は違うのか?」



 エマは少しだけ黙った。


 王都の石畳を、馬車の車輪が軋みながら通り過ぎていく。



「あなたが、何度も言ったから」


「俺が?」


「最初は目だったわ」



 エマがフードの奥で、こちらを見た。


 偽装のせいで、いつもの翡翠の瞳も少しくすんで見える。



「私の目を、綺麗だと言ったでしょう」


「ああ」


「その後も、何度も。顔とか、髪とか、姿とか・・・あなたは、何も考えずに言っていたのかもしれないけれど」


「いや、何も考えてないわけじゃ」


「分かっているわ」



 エマは小さく息を吐いた。



「でも、あなたが言うと、不思議と嫌じゃなかった。値踏みでも、血筋でも、エルフだからでもなくて・・・私を見て、言ってくれている気がした」



 何も言えなくなった。


 照れるとか、そういう問題ではない。


 エマの言葉が、まっすぐ胸に刺さった。



「だから、少しずつ変わっていたのだと思う。私の目も、髪も、顔も、姿も・・・ただ見られるだけのものじゃなくて、私自身なんだって」



 エマは、そばかすと傷のある偽りの顔で、静かに続けた。



「さっき笑われて、初めて気づいたわ。私は、思っていたより、自分の姿を大切だって思っていたのね」


「エマ・・・」


「大丈夫よ」


「大丈夫そうに聞こえない」


「ええ、そうね。大丈夫ではないかもしれないわ」



 エマは少しだけ笑った。



「だから、後でいっぱい褒めてくれる?」


「分かった。後でおだてまくってやるよ」


「でも、今は必要なことだもの。だから、我慢するわ」



 代わりに、小さく頷いた。



「あとで元に戻してよね。ちゃんと」


「ああ。絶対に」



 俺は即答した。


 それくらいしか、今は言えなかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 王都ラムールは、美しい街だった。


 白い石壁の建物は高く整然と並び、整えられた大通りは、王宮へ続く真っ直ぐな道だった。

 立ち並ぶ街路に、張り巡らされた水路。

 そして、磨かれた兵士の鎧。


 神殿らしき建物の尖塔が朝日に光り、貴族街へ続く道には彫刻が並んでいる。


 ここだけ見れば、豊かな国の都だ。


 だが、人の顔が暗く、声が小さい。

 商人は客と話しているのに、どこか周囲を気にしている。

 市民は歩いているのに、視線を上げない。

 奴隷はもちろん、市民までもが、何かに怯えるように目を伏せていた。


 そして、兵士の数が多い。

 多すぎる。


 門だけではない。

 大通りの角、神殿の前、市場の端、処刑広場へ向かう道。

 あちこちに兵士が立っている。


 そして、人々はその兵士を見ない。

 見ていないふりをしている。



「こっちだ」



 マルスが言った。


 何か人の流れがある。

 王都の中心に向かう流れだ。


 だが、祭りではない。


 誰もはしゃいでいない。

 誰も楽しそうではない。

 誰も怒っていない。


 ただ、静かに歩いている。


 目だけが、どこにも向いていなかった。


 老人も、商人も、母親に手を引かれた子供も、職人らしき男も、皆が同じ方向へ進んでいた。


 そこに意思はない。


 少なくとも、俺にはそう見えた。


 行きたいから行くのではない。

 行かなければならないから行く。


 そんな足取りだった。



「処刑広場だよ」



 マルスが言った。


 処刑広場。


 言葉だけで、胃のあたりが重くなる。


 広場に近づくほど、人の密度が増した。

 だが、騒がしくはならない。


 むしろ静かになる。

 異様な静けさだった。


 群衆がいる。


 なのに、熱がない。


 怒号も罵声も、娯楽として楽しむ熱狂すらない。


 ただ、見ている。


 石畳の広場の中央には、高台が組まれていた。


 処刑台。


 その周囲を兵士が囲み、民衆を一定の距離に押しとどめている。


 兵士の一人が、民衆の列を確認しながら板に何かを書き込んでいた。


 誰が来たか。

 誰が来ていないか。


 おそらく、それを記録している。



「見に来ているんじゃない」



 俺は呟いた。



「見せられているのか」


「そうだよ」



 マルスは短く答えた。


 その声には、感情がほとんどなかった。


 感情がないのではない。


 出さないようにしている。


 それが分かる。


 広場の奥から、鎖の音がした。


 男が連れてこられる。


 痩せた男だった。


 年齢は五十前後だろうか。

 髪は乱れ、頬はこけている。服は汚れているが、もともとは上等なものだったように見えた。


 文官。


 そんな印象を受ける男だった。


 戦う人間ではない。

 記録を読み、文書を書き、数字を扱う側の人間。

 その男が、両腕を縛られ、処刑台の上へ引きずられる。


 広場は相変わらず静かだった。


 誰も叫ばず、泣かず。

 誰も怒らない。


 皆、虚ろな目でただ見ている。


 処刑台の横に立った官吏が、巻物を広げた。



「罪人、ゼフィランド=セイル!」



 声が広場に響く。



「王命に背き、虚偽の情報を流布し、民を惑わし、第一王子の亡霊を利用して秩序を乱した罪!」



 第一王子。


 その言葉が出た瞬間、マルスの指がわずかに動いた。


 ほんのわずかだ。

 だが、俺は見逃さなかった。



「さらに、奴隷を王国臣民と同等に扱う異端思想を広め、王権と神意を汚した罪!」



 罪状の方が狂っている。

 奴隷を人として扱うことが、罪になる。


 官吏が巻物を畳んだ。



「王への忠誠を示せ!」



 兵士たちが槍の石突で地面を叩く。


 どん、と重い音が鳴った。


 民衆が口を開く。



「王国に栄光を」



 声が揃った。

 だが、熱はなかった。



「王国に秩序を」


「王国に秩序を」


「王に逆らう者へ、罰を」


「王に逆らう者へ、罰を」



 唱和。


 祈りではない。

 歓声でもない。


 ただ、言わされている。


 言わなければならないから言っている。


 広場にいる人々の目は、死んだままだった。


 死んだ魚の目。

 それなのに、口だけが動く。

 決まった言葉を吐く。


 まるで人形のように。


 兵士が小さな籠を持って回り始めた。


 中には、小石が入っている。


 民衆の前で止まり、一人ずつ石を取らせる。


 老人が取る。

 女が取る。

 子供が取る。


 取らなかった者の名を、別の兵士が板に記録する。


 俺は息を止めた。


 そういうことか。


 昨日、マルスが言った「それだけじゃない」の意味が、ようやく分かり始めた。


 これは処刑を見るだけではない。

 参加させられる。


 国が殺すだけではない。

 民に、自分は王に逆らわないと証明させる。


 そのための石だ。


 最初の石が、処刑台の男に当たった。

 次の石も。

 その次も。

 どれも小さい。


 殺すための石ではない。


 だが、もっとタチが悪い。


 殺すためではなく、従わせるための石だ。



「・・・っ」



 エマが小さく息を呑んだ。


 偽装した顔の奥で、彼女の瞳が揺れている。


 俺も、何も言えなかった。


 ゼフィランドと呼ばれた男は、石を受けながら顔を上げた。


 血が額から流れる。


 頬にも傷がある。


 それでも、彼は広場を見た。


 人形のように表情を失った群衆を。

 王への忠誠を唱える人々を。

 石を投げさせられる子供を。

 それを記録する兵士を。


 男は、笑った。


 笑ったように見えた。


 いや、泣いていたのかもしれない。



「この国は狂っている!」



 突然、男が叫んだ。


 広場がわずかに揺れる。


 兵士が動いた。


 だが、男は構わず叫び続けた。



「全員だ! 見ろ、この景色を! 異常だと思っている奴が一人もいない!」



 広場は静かだった。


 誰も動かない。

 誰も反論しない。

 誰も肯定しない。

 誰も彼の言葉を受け止めない。


 その無反応が、何より怖かった。



「子に石を持たせ、隣人に投げさせ、罪なき者を罪人と呼び、血を見ても目を伏せる! これを秩序と呼ぶなら、この国の秩序など呪いだ!」



 兵士が男の肩を殴った。


 男は崩れかけたが、それでも顔を上げ、視線が群衆の中を彷徨った。


 そして、一瞬だけ止まった。


 マルスの上で。


 男の目が見開かれた。


 何かを言おうとした。

 だが、言わなかった。


 代わりに、震える指で自分の目を指した。


 目。


 そして、王宮の方角を指す。



「見るな・・・目を見るな・・・!」



 処刑人が男の髪を掴んだ。


 兵士の怒号が飛ぶ。


 それでも、男は最後にもう一度、マルスを見た。


 名前は呼ばなかった。

 何も言わなかった。

 ただ、自分の目を指した。


 マルスの息が、ほんのわずかに止まった。


 俺はそれを感じた。



「処刑を執行する!」



 官吏の声が響く。


 処刑人が斧を持ち上げた。


 広場の空気が、さらに静かになる。

 誰も息をしていないようだった。


 斧が振り下ろされた。


 音がした。


 それだけだった。

 広場は動かなかった。


 悲鳴も怒号も。

 泣き声すらない。


 ただ、また一人、世界からいなくなった。


 首輪をつけた奴隷たちが、桶を持って前へ出た。


 血を流す者。

 血を拭く者。

 板を洗う者。


 処刑台の上に残ったものを片づける者。


 すべてが、決まった手順のようだった。


 処刑までが儀式なら、その後片づけまで儀式だった。


 民衆はまだ動かない。


 兵士が合図をするまで、誰も帰らない。


 ただ変わらず、死んだ魚のような目で処刑台を見ている。



「・・・こんなの」



 エマの声が震えた。



「こんなの処刑とは言わないわ・・・」



 俺はエマを見た。


 エマは、処刑台ではなく、広場全体を見ていた。


 石を投げた子供。

 それを止めなかった親。

 記録をつける兵士。

 口だけで忠誠を唱えた群衆。

 血を洗う奴隷。


 全部を見ていた。



「これは、人を裁くためのものじゃない」



 エマの声は低かった。



「石を握らせて、声を出させて、血を見せて・・・それでも逆らわないか確かめているのよ」



 エマは、処刑台ではなく、広場全体を見ていた。



「人が人を傷つけることに慣れるまで、何度でも繰り返すための儀式だわ」



 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 民に、人を傷つけさせる。

 罪を分け与える。

 自分も石を投げたのだから、もう異常だとは言えない。


 そうやって、全員をこの国の狂気に巻き込んでいく。


 処刑ではない。

 殺人の共犯にする儀式だ。



「行こう」



 マルスが言った。


 声は静かだった。

 だが、さっきよりわずかに低い。


 俺たちは広場を離れた。


 人々は、兵士の合図と共に散っていく。


 誰も会話しない。

 誰も処刑の話をしない。


 何事もなかったように、それぞれの道へ戻っていく。


 いや、何事もなかったように、ではない。


 何事もなかったことにしなければならないのだ。






 広場から少し離れた路地で、物乞いが一人、壁際に座っていた。


 汚れた外套。

 片足を引きずるような姿勢。

 掠れた声。


 顔には皺と汚れがあり、全身から悪臭を放っていた。



「旦那、古麦は刈られました」



 物乞いが呟いた。


 マルスは足を止めなかった。


 ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とす。



「白布は南へ。黒塩はまだ欠けたままです」



 物乞いは、手を差し出すようにして続けた。



「水は?」



 マルスが短く聞く。



「湖の南は、まだ濁っておりません」


「山羊は?」


「角は折れておりません」



 それだけ言うと、物乞いは咳き込み、また壁にもたれかかった。


 俺たちはそのまま通り過ぎる。



『照合中』


(アル?)


『対象の声紋、骨格挙動、歩行時の重心移動、皮膚表面形状を前夜の灰兎の雑貨店店主と比較』


(まさか)


『照合完了。さらに前夜接触時に採取した微細な皮膚片とのDNA照合も一致』


(同一人物か)


『はい』



 俺は思わず振り返りそうになった。


 すぐにやめる。


 あれが、昨日の店主。

 気弱そうな中年男と、路地の物乞い。


 同一人物。


 変装うますぎだろ。



『職業的訓練の可能性が高いです』


(ヤギと呼ばれる者の情報網、思ったより化け物だな)


『同意します』



 アルが同意した。

 珍しい。

 それほどなのだろう。


 マルスは路地を二つ曲がり、人目の少ない場所へ入った。


 そこに、小さな地下水路の入口があった。


 錆びた鉄格子に湿った石段、臭い水の匂い。


 王都の美しい白い大通りの下に、こういう場所がある。

 それだけで、妙に納得してしまった。


 マルスは鉄格子の横にある石を押した。


 小さな音がして、格子が少しだけ開く。



「少しだけ付き合って」


「ヤギって言われてた奴か?」


「うん。さすが、鋭いね」



 俺とエマは頷いた。


 地下水路へ入ると、中は暗かった。

 だが、奥に小さな灯りがあった。


 その灯りの横に、男がいた。


 老人にも中年にも見える。

 痩せているのに、弱そうではない。


 目は笑っていない。

 だが、口元だけは穏やかだった。



「お久しぶりです、ライオン」


「ここでは、その呼び方も危ないよ」


「では、マルス様」


「それも危ない」


「では、いつも通りに」



 男は、静かに頭を下げた。



「ヤギです」



 ヤギ。


 そう名乗った男の声は、低く、ひどく落ち着いているように聞こえた。



「ゼフィランドは・・・」



 マルスが言った。



「最後まで名前を呼ばなかったよ」



 ヤギは答えた。



「立派な男でした」



 マルスは何も言わなかった。

 ただ、拳を握った。


 さっき、処刑台の男はマルスを見た。

 名前を呼ばなかった。

 呼べばマルスが危ないと分かっていたからだ。


 その事実が、今になって重くのしかかる。



「彼は、最後の警告線でした」


「分かっている」


「王都内の黒塩は、まだ欠けたままです。白布は南へ送っています」


「やっぱり、そこが気になる」


「ええ。あの王宮から出たのに、傷が少なすぎる」



 マルスの目が細くなる。



「本人は?」


「怯えています。誰とも目を合わせようとしない」



 その言葉で、マルスの警戒がわずかに変わった。


 緩んだ、とは言えない。


 だが、方向が変わった。



「・・・それなら、なおさら早く見たい」


「ご案内は?」


「必要ない。ここから先は南へ向かう」


「湖沿いの道を」


「うん。王都での用事は終わった」



 マルスは一拍置いた。



「終わってしまった、と言うべきかもしれない」



 ヤギは頭を下げた。



「湖の南は、まだ濁っておりません。ただし、水面には影が差し始めています」


「分かった」


「急がれた方がよろしいかと」


「そうする」



 短いやり取りだった。


 それでも、分かったことは一つある。


 処刑台で終わった話ではない。


 王宮から逃げた白布とやらも、レーヴェンハルト公爵領も、ベルナードが最後に残した「目を見るな」という警告も、すべてまだ続いている。


 地下水路を出る前に、ヤギが小さく言った。



「彼は、最後まであなたを信じていました」



 マルスは振り返らなかった。



「だから、名前を呼ばなかったんだろうね」


「はい」


「なら、僕は急がないといけない」



 それだけ言って、マルスは地下水路を出た。


 王都ラムールを離れる道で、俺は一度だけ振り返った。


 白い城壁。

 整った大通り。

 美しい尖塔。


 その奥に、王宮が見える。


 白く、美しく、静かに狂った街。


 処刑台で流れた血は、もう洗い流されているだろう。

 人々も、何事もなかったように仕事へ戻っているだろう。


 子供はまた石を投げるかもしれない。

 親は止めないかもしれない。

 兵士は笑うかもしれない。


 そして明日も、誰かが処刑される。



「すぐ南へ向かう」



 マルスが言った。



「レーヴェンハルト公爵領へ?」


「うん。クノッソスへ向かう」


「王都での用事は終わったんだな」


「終わった」



 マルスは前を向いたまま答えた。



「でも、始まってしまった」



 その横顔を見て、俺は思った。


 この男は、ただのAランクパーティの冒険者ではない。


 誰かが命を懸けて名前を呼ばなかった相手。

 処刑台の上で、最後の警告を託された相手。


 そんな男だ。


 エマも、同じことを感じているのだろう。


 ただ、隣を歩いている。


 王都ラムール。



 俺たちはその街を背に、アステリオン湖へ向かうことになった。



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