第65話 狂っている国
倉庫の床下から出ると、乾いた香辛料の匂いが鼻を刺した。
そこに並んでいるものだけを見れば、どこにでもある小さな商会の倉庫だった。
だが、俺たちが出てきた床板は、どう考えても普通ではない。
マルスが最後に上がると、倉庫番らしい男が無言で床板を戻した。軋みも残さず、隙間も残さず、そこに隠し口があったことなど最初からなかったように、古い木箱を二つ動かして上に重ねる。
手慣れている。
床下から人が出てくることに、慣れている動きだ。
「ようこそ、と言うべきか。急いで出た方がいい、と言うべきか」
倉庫の奥にいた痩せた中年男が、低い声で言った。
「両方かな」
マルスが答える。
「では、両方で。ようこそ、そして長居はおすすめしません」
男は頭を下げた。
腰が低い。
商人らしい物腰だった。
だが、こちらに何があったかを聞かない。誰が来たのかも確認しない。必要なことだけを処理する。
これも慣れだ。
余計なことを知れば危険が増える。
だから、知らないふりをする。
「フィルザ商会。表向きは乾物と雑貨の店だよ」
マルスが小さく説明した。
「表向きは、か」
「うん。裏では僕たちの連絡線を守ってくれている」
「レジスタンスの拠点か?」
「拠点というより、通り道だね」
通り道。
その言葉は、この場所の空気に合っていた。
砦ではない。
武器庫でもない。
ここにいる人たちは戦うために集まっているわけではない。床下の扉を閉じ、荷札を替え、逃げてきた者を次へ流す。
それだけの場所だ。
「ここが押さえられると、オーブリン方面との連絡が一本死ぬ。だから、ここでは派手なことはしない」
「助けを求めてきた人間を匿うんじゃないのか?」
「一晩ならね。長くは置かない。助けるためには、ここを守らないといけないから」
理屈は分かる。
だが、気持ちは追いつかない。
助けを求めてきた人間を長く置けない。
それは薄情に聞こえる。
けれど、ここが潰れれば、次に逃げてくる人間は助からない。
正しさが、簡単に一つに決まらない場所。
それがラムールなのだろう。
「荷札は替えておきます」
痩せた男が、木箱の上に置かれた帳簿を開いた。
隣にいた若い女が無言で札を取り、紐を通していく。こちらを見ても、驚いた様子はない。
俺たちが床下から出てきたことも、マルスが何者かも、全部込みで処理している。
倉庫番の男が、俺の足元を指さした。
「おい、そこに立つな。足跡が残る」
「あ、悪い」
「謝る暇があるなら、そこの木箱を持て」
「分かった」
口は悪い。
だが、仕事は早い。
俺が木箱を持ち上げると、男は床にこぼした香辛料を足で軽く散らし、荷物の擦れ跡と混ぜた。
ただの倉庫番ではない。
追われる者を隠すことに慣れた男の動きだった。
倉庫の奥で、エマが深くフードを被り直す。
ラムールに入った。
その事実が、今さら背中に重くのしかかってくる。
「外へ出る前に、少しだけ話を整えるよ」
マルスが言った。
「君は商人兼冒険者。エマは護衛兼魔法使い。僕は案内役兼剣士。リゼットさんの依頼書はまだ使える」
「まだ使えるのか?」
「むしろ、ここからが本番だ。ラムール側では、商売目的で動いている理由がある方がいい」
「香辛料と乾物か」
「そう。君の場合、本気で興味があるから自然だしね」
「否定できない」
若い女が、荷札と薄い書類を差し出した。
「山向こうの乾物、香辛料、薬草。書類上は自然に見えます。それと、こちらを」
女が差し出した袋には、いくつかの香草と香辛料が入っていた。
「最低限の形は整えておきませんと。この国では、紙に書いてあっても無くても危険には変わりがありませんが」
嫌な説得力だった。
マルスは頷き、荷札と袋を受け取る。
「行こう。ここにいる時間が長いほど、商会に迷惑がかかる」
「ああ」
俺たちはフィルザ商会の倉庫を出た。
ノルドヴェイルは、綺麗な街ではなかった。
鉱石を積んだ荷車。
薬草を括った束。
獣皮を背負った男。
それに、乾いた土と油と汗のにおいが混じる。
山脈資源を集める街だ。
そういう荒っぽさだけなら、まだ受け入れられたかもしれない。
ヴェルクハーフェンの港にも、独特の匂いと喧騒がある。場所が違えば、人の暮らし方も違う。それ自体は当たり前だ。
だが、この街には、それとは別のものが混ざっていた。
荷車を押しているドワーフの首に、金属の輪があった。
背の低い小人族の女性が、店先で乱暴に荷物を積まされている。
獣人の片耳の男が、革紐で手首を繋がれたまま、重い樽を運んでいる。
麻の粗末な貫頭衣のエルフの女が、二人の男に挟まれて建物の奥へ連れていかれる。
誰も止めないし、誰も驚かない。
ただ、値段や労働力や所有物、当たり前の日常として見ている。
『周辺観測を開始。奴隷識別用と思われる金属首輪、魔力反応を複数確認』
(隷属首輪か?)
『ヴェルクハーフェンで確認した複合魔道具とは異なります。簡易識別具、または拘束具と思われます』
(量産品か)
『はい。規格化されています』
規格化。
その言葉が、嫌に響いた。
ヴェルクハーフェンで見た隷属首輪は異常な道具だった。人の精神を壊し、命令に逆らえば首を切るような、悪夢のような複合魔道具。
だが、ここにある首輪は違う。
もっと単純で、もっと安い。
そして数が多い。
つまり、この国では、人を縛るための道具が普通に作られ、普通に流通し、普通に使われている。
ここでは異常な魔道具ではない。
異常なのは制度だ。
「・・・っ」
隣で、エマが小さく息を呑んだ。
フードの奥で、唇を強く結んでいる。
その時だった。
小さな石が飛んだ。
石は、荷車を押していたドワーフの額に当たった。
ぱし、と乾いた音がする。
ドワーフは避けなかった。
避けようともしなかった。
額から血が一筋流れる。
石を投げたのは、ヒュームの子供だった。
年は十にも満たないだろう。
その子供は笑っていた。
そばにいた母親らしい女も、止めなかった。
近くの兵士はちらりと見て、鼻で笑っただけだった。
「おい」
足が前に出た。
その瞬間、マルスの手が俺の腕を掴んだ。
「待って」
「待てるか」
「止めたら、あの男は後でもっと酷い目に遭う」
「なんでだよ」
「ヒュームの子供に恥をかかせるからだよ」
意味が分からなかった。
いや、意味は分かる。
分かりたくないだけだ。
「怪我をさせられたのは、あのドワーフだぞ」
「この国ではね、奴隷は人ではないんだ・・・」
マルスの声は静かだった。
静かすぎるほどに。
だが、外套の下で握られた拳は白くなっていた。
爪が掌に食い込んでいる。
この男は、慣れているわけではない。
諦めているわけでもない。
知っているのだ。
知っていて、そのうえで怒っている。
それでも、今は動けない。
俺は奥歯を噛んだ。
血を流したドワーフは、何事もなかったように荷車を押し始めた。
石を投げた子供は、また笑った。
それを見て、胸の奥に吐き気のようなものが上がってくる。
怒りはある。
だが、それより先に気持ちが悪かった。
人を人として扱わない仕組みが、あまりにも自然に道端へ置かれている。
俺は、隣にいるエマを見た。
フードの奥で、エマの顔は見えづらい。
それでも分かる。
怒っている。
そして、耐えている。
もし、同じことをエマにされたら。
石を投げられたら。
首輪をつけろと言われたら。
商品を見るような目で見られたら。
俺は、たぶん我慢できない。
だが、ここで暴れれば、俺たちは国から追われる。
マルスの目的も潰れる。
フィルザ商会の連絡線も危うくなる。
それでも、許せる気はしなかった。
(アル)
『はい』
(エマの偽装はできるか。フードを取らされても、エルフに見えないように)
『ナノマシンによる光学偽装で対応可能です』
(魔法じゃない。幻術看破には?)
『魔力的な幻術反応は発生しません。ただし、物理接触による形状確認には対応できません』
(触られる可能性を極力落としたい)
『対象への接触意欲を低下させる外見偽装が有効です』
アルは一拍置いた。
『提案。そばかす、顔面傷痕、加齢印象を追加。中年女性魔法使いとして偽装します』
(・・・かなり思い切るな)
『対象の美貌を抑制するだけでは接触リスクを十分に下げられません』
その言い方は正しい。
正しいが、エマに伝えるのは少し気が重い。
「エマ」
「何?」
「少しだけ、見た目を変える。フードを取らされても、エルフに見えないように」
エマは一瞬、俺を見た。
「アル?」
「ああ」
「・・・どんな風に?」
「エマは美人過ぎる。多少の偽装では触られるかもしれない」
「ちょっ」
一瞬でエマの顔が赤くなる。
「だから、触られる可能性を無くすために、そばかすがひどくて、顔に傷がある中年女性魔法使いに見せる」
エマの動きが止まった。
ほんの一瞬だ。
「・・・な、なるほど?」
「嫌なら・・・」
「い、嫌ではないわ」
エマは通りの向こうを見た。
首輪をつけた奴隷たちが歩いている。
「この国で、私がエルフだと知られる方が嫌」
「悪い」
「謝らないで。私を守るためでしょう?」
「ああ」
「なら、いいわ」
エマは静かにうなずいた。
アルの淡い光が、エマの髪と耳元を薄くなぞる。
見た目が変わった。
尖った耳はなくなり、ヒュームのものに見える。
髪はくすみ、濃い灰色に、顔には細かなそばかすが浮かぶ。左目の下、頬から顎にかけて、古い傷痕のような線が走った。
目じりのしわ、ほうれい線。年齢も、少し上に見える。
触って確かめたいと思わせない。
男の本能を欺くための顔だった。
「・・・変な感じね。自分じゃわからないけど、変わっている・・・のよね?」
「ああ、変わってる。アキラとアルは本当に凄いね」
「すぐ戻せるからな」
「ええ」
エマは頬に触れようとして、途中で手を止めた。
「触ると?」
「たぶん、違和感が出る」
「なら、やめておくわ」
そう言った声は落ち着いていた。
俺は、何も言わなかった。
これは必要な偽装だ。
それでも、エマの顔を別人に見せることが、何とも言えず嫌だった。
嫌なのに、そうしないと守れない。
この国は、そういう場所なのだ。
フィルザ商会の奥で、簡単な地図を広げた。
ノルドヴェイルからレーヴェンハルト公爵領へ向かう道を、マルスが指でなぞる。
「レーヴェンハルト公爵領へ行くなら、道は二つある」
「王都ラムール経由と、ヘルミン辺境伯領経由だったな」
「そう。王都ラムールを経由して、アステリオン湖沿いに南へ向かう道。もう一つは、南側の川を渡り、ヘルミン辺境伯領を抜ける道」
「王都を避けるなら、そっちの方が安全そうに聞こえるな」
「聞こえるだけだよ」
マルスは静かに首を横に振った。
「あそこは今、かなり荒れている。盗賊、奴隷狩り、私兵崩れ。兵と盗賊の境目も曖昧だ」
「そんなにか」
「今のラムールでは、王都から遠い場所ほど自由になるわけじゃない。王都の狂気が届かない代わりに、別の腐り方をする」
ひどい言い方だ。
しかし、今の街を見た後では、軽く聞こえなかった。
「街道を使わない道は?」
「あるにはある。湿地帯を無理矢理抜ける道だ」
「使えそうか?」
「道とは呼べないね。検問は避けられるけれど、魔物と泥と毒草に歓迎される」
「却下だな」
「僕も同意見だ」
マルスは地図の王都付近を指した。
「それに、僕は王都で確認したいことがある」
「王都に用事か」
「うん。その後の湖沿いの街道は、比較的道も治安もマシだ。今回はそちらを使う」
比較的マシ。
その言葉に、もう安心感はない。
この国の「マシ」がどれほど信用できるのか、俺にはまだ分からない。
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王都方面へは、荷馬車に同乗する形を取った。
王都までは四日ほど。
荷台には乾物袋と木箱が積まれ、俺たちは商人兼冒険者、護衛、案内役としてその脇に座る。
この方が目立たない。
軽装で歩くより、よほど自然だ。
道は整備されていた。
ノルドヴェイルの荒っぽい道とは違い、車輪の跡も深すぎない。宿場もある。検問もある。王都へ向かう主要街道なのだろう。
だからこそ、道端の光景が目についた。
畑で働く者の首に、輪がある。
荷を運ぶ者の背中に、古い鞭の跡がある。
検問では、ヒュームの商人が笑って通り、耳の長い奴隷だけが荷物のように数えられていた。
馬車の中で、エマは無言だった。
偽装した顔は、フードの奥に隠れている。
それでも、握った手の強さで分かる。
怒っている。
「色々、詳しいな」
俺は、隣のマルスに小さく言った。
「昔、少しね」
「少しで済む知識じゃないだろ」
「そうかもしれない」
マルスはそれ以上言わなかった。
俺も聞かなかった。
盗賊たちに剣を振った時の顔を、まだ覚えている。
この男は、この国を知っている。
たぶん、俺たちが想像しているよりずっと深く。
そして、その深さの分だけ、この国を憎んでいる。
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数日馬車に揺られ、途中の宿ではずっとエマと一緒の部屋だった。
エマも何も言わなかった。この国では、女性が一人でいることが危険だ。
ましてやエルフとバレた日にはすべてが終わりだ。
王都まで半日ほどという宿場町に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
マルスが案内したのは、小さな雑貨店だった。
看板には灰色の兎が描かれている。
灰兎の雑貨店。
表向きは旅人向けの店らしい。紐、安布、火打ち石、乾物、安い香草、修理針、荷札。棚には旅で必要なものが雑多に並んでいる。
店主は、気弱そうな中年男だった。
だが、マルスを見ると、ほんの一瞬だけ目の奥が変わった。
「山向こうの乾物は?」
マルスが言った。
店主は棚の香草袋を整えながら答える。
「湿気を嫌う品ですので、奥へ」
ただの商談には聞こえない。
(今の、合言葉か)
『声量低下、視線移動、呼吸変化を確認。暗号応答の可能性が高いです』
(だよな)
店主は帳簿を閉じ、奥の小部屋へ案内した。
そこは、小宿の一室としても使えるようになっているらしい。狭いが、扉は厚く、窓は小さい。
「こちらが、三名様分の荷札です」
店主は帳簿の間から、薄い金属札を三枚取り出した。
「荷札?」
「王都では、荷札のない荷は嫌われますので」
マルスがそれを受け取り、俺たちへ一枚ずつ渡した。
「王都の検問用だよ」
俺の札には、アキレス=ジェイド。
エマの札には、エルマ=サーベル。
マルスの札には、マルクス=アルト。
「偽名か」
「王都の検問だけだ。通った後は、普通に呼んでいい」
「間違えそうだな」
「だから、本人が反応できる程度には近くしてある」
「アキレスは・・・なんというか、少し強そうだな」
「今の君なら、名前負けはしないと思うよ」
「そういう問題か?」
エマが札を見る。
「エルマ・・・」
「嫌か?」
「嫌ではないけれど、少し変な感じ」
偽装した顔のまま、エマは小さく息を吐いた。
その様子を見て、胸が少し痛む。
この偽名も、この顔も、全部一時的なものだ。
それでも、彼女にとっては気持ちの良いものではないだろう。
「王都の検問では、確実に一度は疑ってくる」
マルスが言った。
「確実なのか」
「確実だよ。それが仕事だからね」
「なら、どうする」
「銀貨を一枚。相手がまだ何か言ってきたら二枚握らせれば通れるはずだ」
エマが眉を寄せた。
「検問の意味がないわ」
「あるよ」
マルスは静かに言った。
「通れない者から奪うための意味がある」
誰も笑わなかった。
ラムールの仕組みを見た後では、その冗談めいた言葉が冗談に聞こえなかった。
店主が、乾いた声で続ける。
「白布は?」
マルスが聞いた。
「一枚だけ。破れはありません」
マルスの目が細くなった。
「黒塩は?」
「欠けています。王都では値が上がりました」
「赤香草は?」
「明日の朝、広場に並びます」
「古麦は?」
「湿っています。早めに移した方がいいでしょう」
何の話だ。
乾物、白布、黒塩、赤香草、古麦。
すべて商談のように聞こえるが・・・
マルスの表情が、言葉ごとに変わっている。
ほんのわずかに。
知らなければ見落とす程度に。
(アル、分かるか?)
『会話内容に規則性を検出。品名、数量、品質表現が実在取引と一致しません』
(暗号か)
『高確率で暗号です。推定可能な範囲を表示します』
(できるのか)
『白布一枚は、王宮関係者、女性、救出対象を示す可能性があります。破れなしは外傷なし、または表面的損傷なし。黒塩欠けは情報線の一部損失。赤香草が明朝広場に並ぶ、は明朝の公開処刑を示す可能性が高いです。古麦が湿っている、はレーヴェンハルト方面の危険、または移送急務を示す可能性があります』
(そこまで分かるのか)
『完全復号には追加サンプルが必要です』
十分すぎる。
マルスは、白布の報告でわずかに声を落とした。
「白布が一枚、破れなし?」
「はい」
「よく無事だったね」
「見てもらえば分かります」
そのやり取りだけ、空気が変わった。
マルスは少しの間、黙った。
白、王宮、女性、救出対象。
それに外傷なし、か。
姫様?
メイドとか?
いや、そこまでは分からない。
だが、マルスの警戒は明らかだった。
「ヤギは?」
「王都に」
「分かった。明日、接触する」
「手筈は整っています」
ヤギ。
マルスが王都で確認したいこと。
この店主は本人ではない。
だが、ヤギと呼ばれる何者かへ繋がる口なのだろう。
それが何かは俺達にはまだわからなかった。
夜。
灰兎の雑貨店の奥部屋で、俺たちは簡単な食事を取った。
乾いたパンと薄いスープ。
塩気の強い干し肉。
欲し肉をちぎってスープに入れ、パンを浸して食べる。
贅沢ではない。
だが、今日見たものを思えば、温かいスープがあるだけで十分だった。
エマはしばらく黙っていた。
偽装は一度解いている。
いつもの耳と髪と顔に戻ったエマは、少しだけ疲れて見えた。
「・・・この国では、あれが普通なの?」
エマが言った。
「少なくとも、普通として扱われている」
マルスの声は静かだった。
「普通じゃないわ」
「うん。普通じゃない」
マルスは否定しなかった。
そのことが、少しだけ救いだった。
この国を知っている男が、まだ普通じゃないと言える。
それだけで、完全に壊れてはいないのだと思えた。
「見ているだけってのは、きついな」
「そうだね」
「止めたら、もっと酷くなるのか」
「止め方を間違えれば、そうなる」
マルスは、手元の杯を見つめた。
「助けるには、助けた後を考えなければいけない。ここでは、特にね」
「面倒な国だな」
「面倒で済めばよかったんだけど」
その言い方には、重いものがあった。
俺は聞かなかった。
今聞いても、たぶん答えは返ってこない。
マルスが顔を上げる。
「明日、王都に入る」
「王都ラムールか」
「うん。それと、公開処刑がある」
「・・・処刑?」
「珍しくない。王都では、毎日のようにある」
エマが息を呑む。
「毎日のように?」
「そうだよ」
「それを、民は見に行くの?」
「行く。というより行かされる。見ないふりをするために、見に行く者もいる」
「見ないふりをするために、見るのか」
「見ていなかったと言えないようにするためでもある」
気持ちが悪い。
この国は、どこまで人間をねじ曲げるのだろう。
「狂ってるな」
「うん」
マルスはうなずいた。
「でも、それだけじゃないんだ」
部屋の空気が、少し冷えた気がした。
「これ以上、他に何があるってんだ」
「見れば分かるよ」
その時だけ、マルスの目が変わった。
穏やかだったはずの瞳が、凍る。
視線だけで人を殺せるなら、今のマルスはきっと殺せた。
そう思うほど、冷たく、鋭い目だった。
次の瞬間には、いつもの穏やかな顔に戻っている。
けれど俺は、その目を忘れられなかった。




