第69話 王宮のメイド
「王宮の話は・・・したくありません」
それだけ言うと、ミレイアは唇を閉じた。
いや、閉じたというより、もう言葉が出なくなったのだろう。
膝の上で握られた手が、白くなるほど力んでいる。
呼吸も浅い。
長い前髪に隠れて目元は見えないが、怯えていることだけは分かった。
『強い恐怖反応。心拍上昇、呼吸浅い。これ以上の質問は逆効果です』
(だよな)
俺は、ミレイアを見るのをやめた。
正確には、彼女の顔を覗き込むような真似をやめた。
この子にとっては、見られることそのものが怖いのかもしれない。
「今日は、ここまでにしよう」
俺が言うと、クラウディオ公爵がこちらを見る。
「よろしいのですか?」
「今聞いても、まともな答えは返ってこないと思う。それに、無理に聞き出せば、王宮と同じことをしているようなものだ」
ミレイアの肩が、ぴくりと動いた。
俺は少しだけ声を落とす。
「ミレイア」
名前を呼ぶと、彼女はまた肩を震わせた。
「答えなくていい。ただ、これだけは聞いてくれ」
俺は、できるだけゆっくり言った。
「ここにいる間、誰も君を王宮へ戻さない。少なくとも、俺はそうさせない」
ミレイアは顔を上げなかった。
それでも、握りしめた手の力が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「僕も賛成だよ」
マルスが言う。
「彼女は証人である前に、保護した人だ。今日は休ませよう」
クラウディオ公爵は静かに頷いた。
「分かりました。ミレイア、今日はもう休みなさい」
ミレイアは小さく頷いた。
声は出なかった。
部屋を出たところで、廊下の壁にもたれている男がいた。
軽薄そうな笑み。
だが、目だけは笑っていない。
「よぉ。しけた面してんな、マルス」
「リブ?」
マルスが珍しく驚いた顔をした。
「君、まだオーブリンにいたはずじゃ」
「いたぜ。ちょっと前まではな」
「早すぎない?」
「愛と根性と近道だ」
「最後のだけ詳しく聞きたいね」
「いい男には秘密がある・・・ってね」
リブは肩をすくめた。
久しぶり、というほど離れていたわけではないはずだ。
それでも、彼の軽口が入っただけで、廊下の空気が少し緩んだ。
「戻って早々で悪いが、頼みたいことがある」
クラウディオ公爵が言った。
「だと思ったよ。俺が呼ばれる理由は、大体ろくでもない」
「グラシオンの派閥、セラフィーヌの使用人名簿、そしてオルガンに繋がる魔道具工房。三つの線を探ってほしい」
「そりゃヘビーだな」
「君にしか頼めない」
「あー・・・そう言われると断りにくいんだよな」
リブは頭をかき、マルスを見た。
「悪いな、マルス。再会の感動はまた今度だ」
「感動するほど久しぶりでもないよ」
「冷てぇな。まあ、そういうとこ嫌いじゃないぜ」
リブは軽く手を振り、廊下の奥へ歩いていった。
その背中を見送りながら、マルスが小さく息を吐く。
「頼もしいけど、無茶もするんだよね」
「似た者同士じゃないか?」
「否定しづらいな」
マルスは苦笑した。
だが、その目はすぐに戻る。
調べるべきことは山ほどあるのだ。
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その日の夕方、俺は再びミレイアの部屋を訪れた。
食事はほとんど減っていなかった。
パンが少し。
スープが一口。
それだけだ。
「食べられないか」
ミレイアは小さく肩を震わせた。
「も、申し訳ありません・・・」
「謝らなくていい」
「でも、残すと・・・」
「安心しろ。ここは王宮じゃない」
俺は、水差しを机の端に置いた。
「食べられる分だけでいい。今日は一口でも十分だ」
ミレイアは長い前髪を揺らして、ほんの少しだけ顔を動かした。
「怒らないんですか?」
「なんで怒るんだ?」
「王宮では、残すと叱られました」
「ここは王宮じゃない。何度でも言う」
ミレイアの手が、膝の上で小さく動いた。
「・・・ありがとう、ございます」
「礼も無理に言わなくていい」
「でも・・・言いたい、です」
「なら、受け取っておく」
そう言うと、ミレイアはほんの少しだけ頷いた。
それだけだった。
だが、昨日よりは呼吸が落ち着いている。
それで十分だと思った。
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夜。
クラウディオ公爵、マルス、エマ、俺で情報を整理した。
机の上には、王宮見取り図と、断片的な人事記録、王都から送られてきたメモが並んでいる。
『容疑対象を、手段、利益、接触機会の三項目で分類します』
アルの声が頭に響く。
(頼む)
『セラフィーヌ=ヴァレ。手段、使用人管理。接触機会、女官・侍女・下級メイド全般。ミレイアへの直接影響が大きい』
『オルガン=メルキウス。手段、精神干渉魔法、認識誘導、魔道具制御。隷属首輪関連資料との関連疑惑あり』
『ダリオ=ヴェンクス。手段、薬理作用、香気成分、鎮静剤、神経安定薬。魔法反応が残らない場合の候補』
『ガレオン=オルディス。手段、儀式設計、群衆統制、忠誠唱和。ただし、目を媒介とする王宮内変質とは距離あり』
『グラシオン=バル=ローデン。利益享受者。第一王子派粛清後、権限集中。昇進速度異常』
整理されるほど、王宮の異常さが見えてくる。
誰か一人が怪しいのではない。
全員が怪しい。
そして、その怪しさがそれぞれ別方向を向いている。
「女官長は、単なる使用人頭ではないわ」
エマが言った。
「王妃付きともなれば、下級貴族より強い影響力を持つこともある。侍女やメイドの配置を通じて、情報の流れを握れるから」
「詳しいな」
「・・・帝国でも、宮廷の内側はそういうものよ」
エマはそれだけ言って、視線を資料に戻した。
「ミレイアが無事だった理由、少し分かった気がする」
マルスが言った。
「無事だった理由?」
「ああ。彼女は、恐怖で人の目を見られなくなっている」
マルスは、資料ではなく閉じられた扉の方を見た。
「あの子は、誰とも目を合わせない。女官長筆頭に、他人を恐れて、目を伏せることが癖になっている。皮肉だけど、それが幸いしたのかもしれない」
「洗脳系の魔眼だとしたら、目を合わせなかったことで影響を受けなかった可能性がある、ということか」
「うん」
マルスは頷いた。
「もちろん、断定はできない。でも、王宮の中で無傷に近い状態で出てこられた理由としては、かなり筋が通る」
エマが唇を結ぶ。
「怖がって目を伏せていたから助かった、なんて・・・」
「本当に皮肉だよ」
マルスの声は苦かった。
ミレイアは怯えている。
その怯えが、彼女を守ったかもしれない。
こんな話があっていいのかと思う。
だが、ラムールではそんなことばかりだ。
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二日目、三日目はあまり変化が無かった。
四日目。
ミレイアは、少しだけ話せるようになった。
相変わらず顔は上げないし、声も小さい。
それでも、昨日のように言葉が止まることはなかった。
「女官長様は・・・叱る時、必ず顔を上げさせます」
ミレイアの声は震えていた。
「目を見なさい、と」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「その後、叱られた人は?」
マルスが静かに聞く。
「・・・逆らわなくなります。何を言われても、はい、としか言わなくなって」
「セラフィーヌが直接やっているように見えた?」
ミレイアは少し迷った。
そして、小さく首を横に振る。
「分かりません。でも・・・」
「でも?」
「女官長様は、怖い方です。でも、皆が変わるのは、女官長様のお部屋に呼ばれた後だけではありませんでした」
クラウディオ公爵が目を細める。
「どういうことだ?」
「女官長様に叱られた後、変わる方もいました。でも、叱られただけで何も変わらない方もいました。逆に、女官長様に会っていないのに、急にぼんやりする方も・・・」
「つまり、セラフィーヌだけでは説明がつかない」
俺が言うと、ミレイアは小さく頷いた。
「それと・・・女官長様のお部屋に、宮廷魔導師長様の部下が出入りしていました」
「オルガンの部下か」
「はい。箱を持っていました。金具の音がして・・・首輪のようなものが見えたことがあります」
隷属の首輪。
また、その影が出る。
セラフィーヌだけでは説明がつかない状況・・・
もしや、魔眼持ちが複数いる?
いや、そんなことは考えたくもない。
それに、そんな凶悪な力を持ったもの同士がいたとするなら、きっとつぶし合うことになって、わかりやすくボロが出るはずだ。
それとも、魔眼のような効果を持つ魔道具やアーティファクトが存在する?
可能性を考えだしたらきりがない。
「水、置いておくぞ」
「ありがとうございます」
声はまだ小さい。
だが、昨日よりはっきりしていた。
俺が立ち去ろうとすると、ミレイアが小さく口を開いた。
「なぜ・・・」
「ん?」
「なぜ、私なんかのために、こんなにも良くしてくださるのですか?」
俺は少しだけ考えた。
答えは難しくない。
ただ、言葉にするのは少し難しい。
「私なんか、じゃない」
俺は、できるだけ柔らかく言った。
「君は、ちゃんと大切にされるべき人間だ。王宮で何を言われたのかは知らない。でも、ここでは違う」
「大切に・・・」
「ああ。それに、君には笑って生きてほしいと思った。それじゃ駄目かな?」
ミレイアは、長い前髪の奥で小さく息を呑んだ。
「お優しいのですね・・・」
俯いた頬が、ほんの少し赤くなったように見えた。
俺は少し照れくさくなって、頭をかいた。
「優しいかどうかは分からない。ただ、放っておけないだけだ」
「それを、優しいと言うのだと思います」
「そういうものか?」
「はい・・・たぶん」
ミレイアの声は、昨日より少しだけ柔らかかった。
部屋を出ると、廊下にエマが立っていた。
「・・・アキラ」
「何だ?」
「あなた、本当にそういうところよ」
「どういうところだ?」
「分からないならいいわ」
エマは少しだけ頬を膨らませ、先に歩き出した。
その後ろからマルスが苦笑する。
「罪な男だね」
「何がだよ」
「その分からなさが、だよ」
またそれか。
最近、似たようなことをよく言われている気がする。
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五日目。
リブから短い報告が届いた。
本人は戻ってこない。
代わりに、ヤギの連絡網を通じて届いた短い符号文だ。
クラウディオ公爵がそれを読み、俺たちへ内容を伝える。
「グラシオン派が、忠誠監査の範囲を広げているそうです」
「忠誠監査?」
「王への忠誠を確認する名目で、官僚や貴族家の使用人まで調べる制度です」
「嫌な言葉だな」
「ええ。実態は、反対派の洗い出しでしょう」
公爵は次の紙を見る。
「セラフィーヌ管理下の下級メイドで、配置替え後に消息不明となった者が複数。オルガン関連の工房では、首輪に似た金具の発注記録あり」
「繋がってきたな」
マルスが低く言う。
「ダリオ侍医の薬香は?」
「王宮の一部区画で使われている。ただし、直接証拠はまだ弱い」
「ガレオン神官長は?」
「処刑儀式と忠誠唱和には深く関わっている。だが、魔眼本体とはまだ距離がある」
アルの整理とも一致する。
現時点で濃いのは、セラフィーヌ、オルガン、グラシオン。
女官長と宮廷魔導師長。
それに、急出世した宰相。
いかにも怪しい三人だ。
特にグラシオンは、利益を得すぎている。
そう思う一方で、俺の中に小さな引っかかりもあった。
あまりにも分かりやすすぎる。
本当に犯人だとして、ここまで露骨にやるものなのか?
だが、まだ材料が足りない。
疑うにしても、外すにしても早すぎる。
その日の夕方、ミレイアは初めて自分から俺を呼び止めた。
「あの・・・アキラ様」
「どうした?」
名前を呼ばれた瞬間、ミレイアは自分でも驚いたように肩を震わせた。
それでも、逃げなかった。
「私、笑えるでしょうか」
小さな声だった。
「笑えるようになるまで、毎日来るよ」
俺はそう答えた。
「明日も・・・会えますか?」
「ああ。明日も来る」
ミレイアは、前髪の奥で小さく顔を伏せた。
けれど、その口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
笑った。
そう断言できるほどではない。
でも、少なくとも、泣きそうな顔ではなかった。
それだけで、少しほっとした。
「私、少しなら・・・話せます」
ミレイアが言った。
「無理はするな」
俺がそう言うと、彼女は小さく頷く。
頬が、ほんの少し赤い。
「でも、話さないと・・・また、誰かが王宮で・・・・・・」
ミレイアは膝の上で手を握りしめた。
そして、ゆっくり深呼吸をしてから話し始めた。
「私、女官長様の部屋で、見たんです」
「何を?」
「・・・目を」
その一言で、部屋の空気が止まった。




