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第62話 二人旅



 夜明け前の精霊工房は、まだ静かだった。


 いつもなら、もう少し遅い時間になると従業員たちが来る。店の準備を始める音や、朝食の匂い、誰かが水を運ぶ足音が聞こえてくる。


 けれど、今はまだ何もない。


 保護している子供たちも眠っている。

 ミラとチャドも、昨日は小さい子供たちの世話をして疲れたのだろう。起こさずに出ることにした。


 見送りに来ていたのは、セレナだけだった。

 店側事務所の明かりが、まだ薄暗い室内に小さく灯っている。机の上には、昨日置いた通信端末が静かに光っていた。


 セレナは、いつものように背筋を伸ばして立っている。

 眼鏡を掛け、服装も整えている。

 まだ夜明け前だというのに、完全に仕事の顔だ。


 俺とエマは旅装だった。

 武器、薬品、依頼書、紹介状、採取用の小瓶、保存食。必要なものは、昨夜のうちにアルが何度も確認している。

 足りないものはない。


 たぶん、普通の冒険者なら引くくらい準備が整っている。

 マジックバッグの有難みをひしひしと感じる。



「行ってきます」


「はい。行ってらっしゃいませ」


「店は頼む」


「任されました」


「それじゃ」



 それだけだった。


 けれど、扉を出る直前、少しだけ振り返る。


 セレナは、いつものように背筋を伸ばして立っていた。

 ただ、その表情だけが少し違った。

 珍しく、切なそうに見えた。


 それを見た瞬間、足が少しだけ止まりそうになった。


 でも、止まらなかった。


 任せると決めたのだから。


 だから俺は、エマと一緒に精霊工房を出た。






 ヴェルクハーフェンの街は、まだ薄い青の中に沈んでいた。


 石畳は夜露で少し濡れている。

 港の方から、潮の匂いが流れてくる。


 遠くで、荷を運ぶ男の声が一つ聞こえた。港町の朝は早い。だが、街全体が動き出すには、まだ少しだけ時間がある。


 俺たちは冒険者ギルドの貸し鳥場へ向かった。


 龍の回廊までは、馬車なら五日ほどかかる。


 もちろん、道中で宿場に泊まり、荷馬車の速度に合わせ、休憩を取りながらの話だ。

 今回は、そんな悠長な移動はしない。



 使うのは、ルル・ト。

 一人乗りの陸走鳥だ。


 街道沿いでは何度も見かけている。宿場町やギルドの近くで、首元の札を揺らしながら大人しく立っている姿も知っている。

 だが、実際に乗るのは初めてだった。


 貸し鳥場に着くと、二羽のルル・トが用意されていた。


 砂色の短い羽毛に細身の身体、長い脚。

 首を軽く曲げ、喉の奥で、るるる・・・と小さく鳴いている。


 馬とはまるで違う。


 だが、目は穏やかだった。


 こちらを見ているようで、どこか遠くまで見通しているような、不思議な目だ。



「こっちがアキラの子で、こっちが私の子ね」



 エマが手綱を受け取りながら言った。



「見分けつくのか?」


「羽の色が少し違うでしょう?」


「そうか?」


「こっちは少し砂色が濃いわ。あなたの方は淡い若草色が混じってる」


「言われれば、そんな気もする」



 俺が近づくと、ルル・トは首を軽く下げた。


 試しに首元を撫でてみる。

 羽毛は思ったより滑らかだった。



「るるる・・・」


「今のは?」


「たぶん機嫌がいいのよ」


「たぶんか」


「ルル・トは大人しいけど、結構気分屋なの。嫌な人は乗せたがらないこともあるわ」


「マジか」


『心拍、筋緊張、眼球運動に警戒反応は見られません。騎乗許可と判断できます』


(だから、そういう分析じゃなくて、今はファンタジーを楽しませてくれ)


『了解。ファンタジー的表現に変換します』


(変換しなくていい)


 エマが少し笑った。


「どうしたの?」


「いや、ついに異世界騎乗デビューだと思ってな」


「馬には乗ったことがあるでしょう?」


「あるけど、これはまた別だろ」


「それはそうね」



 貸し鳥場の係員が、首元のタグを確認する。

 返却先を示す木札と、魔法印の入った札が鞍の横に差し込まれていた。



「龍の回廊の入口で放してくだされば、自分で戻ります。合図は首の鈴を二回。強く引っ張らないでください。機嫌を損ねます」


「分かった」


「あと、別れ際に首元を撫でてやると、次に乗る時、少しだけ速く走ってくれるって噂があります」


「それは本当なのか?」


「さあ。ですが、やって損はありません」



 商売上手だな。


 でも、たぶんやる。

 俺はそういう話に弱い。


 東の空が、薄く赤くなり始めていた。


 街門の前に着くと、門番があくびを噛み殺しながら門の閂を外しているところだった。


 日の出の開門。


 その最初の通行人が、俺たちだった。



「朝早いな」


「少し遠出です」



 エマが自然に答える。

 門番は依頼書の写しを確認し、軽くうなずいた。



「乾物商への書類配送か。ご苦労なこった」


「ついでに素材も見てきます」


「精霊工房なら、そっちが本命か?」


「否定できませんね」



 門番が笑った。


 うん。表向きの理由としては、ちゃんと機能している。


 門が開く。


 朝日が、街道の先を照らし始めた。



「行きましょう」


「ああ」



 俺たちはルル・トに跨った。


 鞍は思ったより安定していた。


 軽く手綱を引く。

 次の瞬間、ルル・トが走り出した。


 長い脚が地面を蹴る。

 身体が前へ流れる。


 だが、揺れは少ない。


 馬のような上下の衝撃ではなく、しなやかなバネに乗せられて滑っているような感覚だった。



「おお・・・!」



 思わず声が出た。


 前を行くエマが振り返る。



「どう?」


「思ったより快適だな!」


「ルル・トは長距離向きなの。速いけど、乗り手に負担が少ないわ!」


「これで二日か」


「ええ。馬車なら五日。でもルル・トなら二日で届くわ。ずっと全速で走らせるわけではないけれど、それでも馬車とは比べものにならないの」



 なるほど。


 馬車は荷も人も積む。

 道も選ぶし、無理をすれば馬も車輪も壊れる。休憩も多い。


 ルル・トは一人乗りだ。荷物も最小限。速度も持久力もある。


 五日が二日。

 数字だけ聞くと乱暴だが、実際にこの速度を体感すると納得できた。

 

 街道が後ろへ流れていく。

 朝の風が顔に当たる。


 遠くに草原が広がり、その先に薄く山の影が見えた。


 グランヴェイル大山脈。

 あの向こうに、ラムールがある。

 そして俺たちは、その山の下を通る。


 巨大な地下迷宮、龍の回廊。


 考えるだけで、少し胸が高鳴る。


 ただの移動ではなく、冒険だ。


 そう思ってしまうあたり、俺も大概だと思う。



『周辺警戒を継続中。進行方向に異常なし』


(了解)


『速度、心拍、筋疲労は許容範囲です』


(そっちも頼む)


『ルル・トの個体状態も良好です』


(そっちまで見てるのか)


『騎乗対象の故障は移動計画に影響します』


(故障って言うな。生き物だぞ)


『表現を修正します。騎乗対象の体調は良好です』


(よし)



 俺のルル・トが、また喉の奥で、るるる・・・と鳴いた。


 たぶん、機嫌はいいのだろう。

 そう思うことにした。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 昼前に一度休憩を取り、簡単な食事を済ませた。


 ルル・トは水を飲み、草を食べ、しばらくするとまた平然と走り出した。


 すごい生き物だ。


 見た目はどこか可愛いのに、移動性能がおかしい。


 午後になると、風景が少しずつ変わってきた。


 港町近くの湿った空気が薄れ、草原と低い丘が増える。

 街道の脇には、ところどころ小さな祠や石積みがあった。旅人が無事を祈るものらしい。


 エマはそれを見るたびに、軽く視線を向けていた。



「祈るのか?」


「祈るというより、挨拶ね。旅の道には、その土地の気配があるから」


「エルフっぽいな」


「そう?」


「なんとなく」


「あなたはしないの?」


「俺は・・・どうだろうな」



 祈る相手が、まだよく分からない。


 神なのか、精霊なのか。

 はたまたこの星そのものなのか。


 しかし、そもそも、この星は俺が作った惑星ノアなのだ。

 この世界の人が創造神ってのを信じているとしたら、それは俺だ。

 そう考えると、祈るという行為が少し複雑になる。


 ただ、アキラの記憶によると、万物には八百万の神がいるのだという。

 普段口にする「いただきます」も祈りと言えば祈りだ。


 俺が黙ると、エマはそれ以上聞かなかった。


 ただ、少し速度を落として、俺の横に並ぶ。



「無理に合わせなくていいわ」


「ああ」


「でも、旅の途中で何かに挨拶するのは、なんていうか・・・気分がいいわよ」


「そういうものか」


「ええ。道に対してでも、風に対してでも、無事にここまで来たことに対してでも」



 道に挨拶。

 風に挨拶。


 ずいぶん曖昧な話だ。


 でも、この世界では不思議としっくり来る。



「なら、今はルル・トに感謝だな」


「それは大事ね」


「るるる・・・」



 俺のルル・トが鳴いた。



「聞こえてたのか?」


「たぶん」


「賢いな、お前」



 首元を軽く撫でると、ルル・トは気持ちよさそうに目を細めた。


 少しだけ愛着が湧いてきた。


 乗り捨て前提なのに。

 困ったものだ。


 日が傾き始めた頃、アルが野営候補地を提示した。



『前方八百メートル。小川、岩陰、風除けに適した地形を確認。周辺に大型魔物の痕跡なし』


「そこで泊まるか」


「ええ。ここまで順調だったし、無理に進まなくても明日には着くわ」


「ルル・トも休ませたいしな」



 街道から少し外れた場所に、小さな水場があった。

 岩が風を遮り、近くには背の低い木が生えている。地面はやや傾いているが、水はけは良さそうだった。


 普通の野営地としては、十分だ。

 ただ、俺たちの場合は、ここからが少し普通ではない。



「アル、野営準備」


『了解。周辺素材を利用し、野営設備を構築します』


「やりすぎるなよ」


『最低限に留めます』



 数分後。

 そこには、平らに均された床、石組みに見える簡易炉、折り畳み式の調理台、風除け、雨避けのタープ、排水溝、簡易ランタンまで揃った野営地ができていた。



「最低限とは」


『快適な睡眠と栄養摂取に必要な水準です』


「アルの最低限、相変わらず高いな」



 エマが周囲を見回し、少し呆れたように笑った。



「普通の野営ではないわね」


「普通の野営って、もっと硬いパンと干し肉をかじるものだよな?」


「そうね」


「これは?」


「精霊工房式野営、かしら」


「名前を付けると商品化されそうで怖い」


「セレナが聞いたら、本当に売り出しそうね」


「やめよう。この話はここで終わりだ」



 ルル・トたちは、水場の近くで休ませる。


 首元のタグを確認し、鞍を少し緩めると、二羽とも大人しく草を食べ始めた。


 旅慣れている。

 人間より野営が上手そうだ。


 俺は夕食の準備に入る。


 リファニーが持たせてくれた香草包み、乾燥肉、豆、硬めの根菜、少量の塩、そしてアルが選別した食べられる野草。

 そこに、俺が現代知識を少しだけ混ぜる。


 乾燥肉はそのまま煮ると臭みが出るので、軽く湯通しする。

 豆は事前に水で戻す時間が足りないが、アルが温度と圧力を調整して短縮。

 根菜は薄く切り、香草と一緒に煮込む。

 簡易炉の火加減はアルが見ている。


 便利すぎる。



「野営でここまでやるのね」



 エマが感心したように鍋を覗き込んだ。



「せっかくだからな。食事が雑だと、旅の記憶も雑になる」


「それ、分かる気がするわ」


「エマは普段、野営だと何を食べてたんだ?」


「干し肉、硬いパン、干した果物、あとは採取できるものね。魔物が近い時は火を使わないこともあるわ」


「それはきついな」


「冒険者なら普通よ」


「普通じゃない方でいこう」


「そうしましょう」



 エマは少し笑った。



「あなたと旅をしていて、普通だったことの方が少ないもの」


「否定できない」


「でも嫌じゃない、わ」


「そうか」


「ええ。少し、楽しい」



 その一言だけで、今日の野営は成功した気がした。


 鍋から香草と肉の匂いが立ち上る。


 夕焼けが岩の端を赤く染め、風が少し冷たくなってきた。


 器によそった煮込みを、エマに渡す。



「熱いぞ」


「ありがとう」



 エマは器を両手で持ち、湯気に目を細めた。


 一口食べる。



「・・・おいしい」


「よし」


「何を勝ち誇っているの?」


「料理担当としての評価は大事だろ」


「ふふ。合格よ」


「厳しい審査員だ」


「そうでもないわ。おいしいものには素直よ」



 そう言って、エマはもう一口食べた。


 誰かが俺の作った料理をおいしそうに食べてくれる。

 それだけで、変に満たされた気持ちになる。


 未来文明の知識やナノマシンの使い方としては、たぶんかなり平和な部類だ。


 だが、こういう使い方こそ必要なのだと思う。


 戦うためだけでも、守るためだけでもない。


 ただ、誰かと温かいものを食べるため。


 それも、力の使い道だ。



『鍋底の焦げ付きを検知。火力を三パーセント低下します』


(情緒のあることを考えてる時に、鍋底の報告を入れるな)


『焦げ付きは食味に影響します』


(それはそう。まぁ、こういう力の使い方もあるのだろう)



 俺は鍋をかき混ぜた。

 エマが不思議そうにこちらを見る。



「どうしたの? 眉間にしわが寄ってるわよ?」


「アルが鍋奉行になってる」


「なべぶぎょう?」


「火加減にうるさい精霊って意味だ」


「それは・・・頼もしいわね?」


「たぶん」



 夕食後、片付けは早かった。


 食器はアルが洗浄し、残飯は匂いが残らないよう処理する。火の始末も完璧だ。


 普通の野営経験が積めなくなりそうで怖い。

 まあ、積む必要があるのかは知らないが。


 寝る準備に入った時、問題に気づいた。


 テントが一つしかない。

 いや、正確には一つしか作っていなかった。

 広さは十分ある。

 二人で寝ても狭くはない。


 だが、そういう問題ではない。



「アル、もう一つテントを」


「今更でしょ。一緒で良いわよ」



 エマが言った。


 さらりと。

 いや、さらりと言ったように見せた。


 耳は真っ赤だった。



「・・・いいのか?」


「いいわよ」


「いや、でも」


「見張りはアルがしてくれるのでしょう?」


『周辺警戒は私が行います。二人はご休憩してください』


「言い方」


『休息は必要です』


「そういう意味じゃない」



 エマが視線を少し逸らす。



「それに、信じてるから」


「そう、か?」


「あなたの秘密も知っているし、家でも一緒に過ごしているし、旅も一緒で・・・その、今さらテントを分ける方が変でしょう?」


「そういうものか」


「そういうものよ」



 絶対にそういうものではない気がする。


 だが、エマがそう言うなら、ここで余計なことを言う方が不自然だ。


 俺は覚悟を決めた。



「分かった」


「ええ」



 二人でテントに入る。


 中は快適だった。


 地面の硬さはほとんどない。湿気も上がってこない。空気もこもらない。寝具も野営用としては十分すぎる。


 問題は、快適さではなかった。

 距離だ。


 近い。


 広いはずなのに近い。


 エマが隣にいる。


 ただそれだけで、妙に意識してしまう。


 外ではルル・トが小さく、るるる・・・と鳴いている。

 遠くで虫の声。

 風がタープを揺らす音。


 それなのに、俺の意識は隣の気配に集中していた。


 眠れるわけがない。


 いや、寝なければならない。


 明日も移動だ。

 龍の回廊に着く前に寝不足になるのは論外だ。


 そう思えば思うほど、目が冴える。



「アキラ」


「ん?」



 エマの声は、小さかった。



「起きてる?」


「まあ」


「眠れない?」


「少しな」


「私も」



 やっぱりか。


 しばらく沈黙があった。

 嫌な沈黙ではない。


 だが、少しだけ緊張する静けさだった。



「アキラ」


「ん?」


「私にも、まだ話していないことがあるの」



 声の調子が変わった。


 俺は、少しだけ身体を横に向ける。

 暗がりの中で、エマの輪郭が見えた。



「そうか」


「あなたは話してくれたわ。アルのことも、自分のことも。だから、私も話さないといけないと思ってる」


「無理に話さなくていい」


「でも、話したいとは思っているの」



 エマは、少しだけ息を吸った。


 だが、その先の言葉は出なかった。



「・・・もう少しだけ、待って」


「分かった」


「聞かないの?」


「話せる時に話せばいい」


「あなたは、そういうところがずるいわ」


「ずるいのか」


「ええ。問い詰めてくれた方が、言い訳できるのに」


「じゃあ、聞いた方がいいか?」


「嫌」


「難しいな」


「私もそう思う」



 少しだけ笑いが漏れた。


 その笑いで、空気が少し緩む。



 秘密。



 エマにはまだ話していないことがある。

 それは、薄々分かっていた。


 雰囲気、知識、所作、魔法の扱い、時々見せる表情。

 隠しているものがある。


 でも、俺だってそうだった。

 話せるようになるまで、時間が必要だった。きっかけが必要だった。


 なら、待てばいい。

 そう思った時だった。


 ぽつり。


 テントの布に、小さな音がした。


 ぽつり、ぽつり。


 すぐに、その音は増えた。

 雨だ。



『降雨を確認。野営設備の防水性能に問題なし』


「そうか」



 雨音が、テントを叩く。


 さっきまで静かだった夜が、急に水の音で満たされていく。


 遠くで、低く雷が鳴った。

 ごろごろと、山の向こうを転がるような音。


 エマが、小さく息を吐いた。



「小さい頃、私、雷が怖かったのよ」


「エマが?」


「ええ。今は平気」


「今は、な」


「母が手を握ってくれたの。雷が鳴るたびに。そうすると、不思議と怖くなくなったわ」



 雨がテントを叩いている。


 また、遠くで雷が鳴った。



「母の手を思い出すからかしら。気づいたら、割と雷の魔法も好んで使うようになっていたわ」


「怖かったものを、得意なものにしたのか」


「そう言うとかっこいいけれど、たぶん、そこまで立派な話ではないわ」


「そうか?」


「ええ。怖いものが、全部嫌なものとは限らない。そう思いたかっただけかもしれない」



 エマの声は穏やかだった。


 風、雷、植物。


 エマの魔法には、彼女の記憶が混じっているのかもしれない。


 そう思うと、いつも見ていた雷撃の光が、少し違うものに見えた。



「俺には、そういう記憶はないな」


「両親の?」


「ああ。思い出そうとしても、何もない」



 言ってから、自分でも少し不思議だった。


 寂しい、という感覚とは少し違う。


 DNAに封印されていた俺の記憶。その中にはなかっただけだ。


 穴がある。

 けれど、その穴の形を知らない。


 だから、何を失っているのかも分からない。



「父の顔も、母の声も、何もない。記録としては、両親がいたんだろうなって分かる。でも、思い出としては何もない」


「・・・そう」


「気にするな。辛いという事もないんだ」


「わかったわ」



 エマの声が、少しだけ柔らかくなった。


 雨音が強くなる。


 テントの中は暗い。


 けれど、不思議と怖くはなかった。



「ねぇ」


「ん?」


「手をつないでみない?」


「手を?」


「そ、そしたら何か思い出すかもしれないわ」



 かなり強引な理由だった。


 エマ自身も分かっているのだろう。

 声が少し上ずっている。



「なるほど」


「何よ」


「いや、そういう可能性もあるかもしれないな」


「本当に思ってる?」


「少し」


「少しなのね」


「でも、手はつなぎたい」



 言ってから、少しだけ自分でも驚いた。

 エマも黙った。

 雨音だけがする。



 「隣、行くわね」



 布が擦れる音がする。


 しばらくして、暗がりの中で、エマの手がそっと伸びてきた。

 俺も手を伸ばす。

 指先が触れる。


 それだけで、エマの手が少し震えた。


 俺は、ゆっくり握った。


 エマの手は、思っていたより小さかった。

 けれど、温かかった。


 外では雨が降り、遠くで雷が鳴っている。


 アルは何も言わなかった。

 たぶん、気を利かせたのだろう。


 いや、単に周辺警戒に集中しているだけかもしれない。


 どちらでもよかった。



 俺は、何かを思い出すことはなかった。


 父の顔も。

 母の声も。

 何も。


 それでも、不思議と眠れた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 目が覚めると、雨音は消えていた。


 テントの外が明るい。


 薄く目を開ける。


 すぐ近くに、エマの顔があった。


 思考が止まる。


 いや、近い。

 近すぎる。


 昨夜、手をつないだまま眠った。


 その手は、まだつながっていた。


 エマも目を覚ました。


 数秒、互いに固まる。



「・・・おはよう」

「・・・おはよう」



 エマの顔が、じわじわ赤くなっていく。

 俺もたぶん、似たような顔をしている。



『睡眠状態は良好でした』


「アル」


『二名とも深い睡眠を確認』


「報告しなくていい」


『健康管理上、有益な情報です』


「今はいらない」


「もう・・・」



 エマが布を被った。


 耳まで赤い。


 俺は手を離すタイミングを完全に見失っていたが、エマが布の中から小さく手を引いたことで、ようやく離れた。


 テントの外に出ると、世界は嘘のように晴れていた。


 草には雨粒が残り、朝日にきらきら光っている。

 小川は少し水量を増し、空は高く澄んでいた。


 昨夜の雨が、空気を洗ったようだった。


 ルル・トたちはすでに起きていて、草を食べている。


 俺のルル・トがこちらを見て、るるる・・・と鳴いた。



「おはよう」



 首元を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。


 エマも少し遅れてテントから出てきた。


 まだ頬が赤い。

 だが、表情は悪くなかった。



「よく眠れた?」


「・・・ええ」


「俺も」


「そう」



 それだけの会話だった。


 だが、昨日までとは少し違う気がした。


 何が変わったのかは分からない。


 ただ、手の中にまだ温かさが残っているような気がした。




 朝食は簡単に済ませた。


 昨夜の煮込みの残りを温め、薄焼きのパンに挟む。香草を少し足すと、思ったよりうまい。


 エマも黙って食べていたが、二口目から少し表情が緩んだ。



「これ、店でも出せそうね」


「野営飯を店で?」


「冒険者向けに売れるかもしれないわ」


「リゼットみたいなことを言い始めたな」


「今のは忘れて」


「忘れられるかな」


「忘れて」


「はい」



 片付けを終えると、アルが野営設備を解体した。


 元からそこにあった石や土へ戻るもの。

 回収されるもの。


 痕跡はほとんど残らない。


 便利すぎる。


 ルル・トの鞍を締め直し、荷物を確認する。


 今日の目的地は、龍の回廊。


 昨日よりも山脈は近い。

 空気も少し違う。


 どこか冷たく、重い。



『進行方向、魔素濃度が緩やかに上昇しています』


「山脈が近いからか?」


『龍脈由来の可能性があります。詳細は接近後に解析します』


「いよいよだな」



 エマが、山の方を見た。



「ええ」



 その横顔には、昨日の夜の柔らかさとは別のものがあった。


 冒険者の顔。

 戦う覚悟をした顔だ。


 俺も手綱を握る。



「行くか」


「ええ」



 二羽のルル・トが、朝の街道を走り出した。


 風。


 濡れた草原の匂いが流れていく。


 遠くに、グランヴェイル大山脈がそびえていた。


 雲を裂くように連なる黒い稜線。


 その麓に、ぽっかりと口を開けた巨大な影が見える。



 龍の回廊。



 ラムール王国は、山の向こうにある。




 俺たちは、その山の中へ向かっていた。



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