第63話 龍の回廊(前)
グランヴェイル大山脈は、近づくほどに現実味を失っていった。
遠くから見た時は、ただの山脈だった。
いや、ただの山脈というには大きすぎるが、それでもまだ、空と大地の境目に連なる黒い稜線として見えていた。
だが、麓まで来ると違う。
壁だ。
大地そのものが立ち上がったような、巨大な壁。
雲を押し上げ、風を裂き、東西の世界を分ける地の背骨。
その一角に、ぽっかりと口を開けた巨大な影があった。
「・・・あれか」
「ええ。龍の回廊よ」
エマが手綱を引き、ルル・トの速度を落とした。
俺もそれに合わせる。
近づくにつれて、それがただの洞窟ではないことが分かった。
山肌を削るように作られた巨大な入口が見える。
その前に並ぶ荷車、武装した傭兵、保存食を売る露店、魔石灯を積んだ柱。
そして、岩壁に張り付くように建てられた倉庫と安宿。
それに人の声、獣の匂い、油煙、湿気、金属音が乗る。
なんとも俗っぽい。
なんというか、名前だけで、もっと神秘的なものを勝手に想像していた。
龍の回廊。
その響きは、古代の竜が眠る神秘の地下道のようだ。
だが。
「・・・思っていたより、商売の匂いがするな」
「実際、交易路だもの。地下一層は、だけれど」
「地下一層は、か」
「ええ。人が使っているのは、あくまで一部よ」
エマの視線が、入口の奥へ向く。
闇の中に、魔石灯の光が点々と続いている。
「言っておきますけど、行くのは交易路よ? 探索はしないわよ?」
「わ、わかってるよ」
「どうせワクワクしてたんでしょ」
「うっ・・・」
エマはクスッと笑うと、ルル・トを入口手前の邪魔にならない場所で止める。
俺も後に続いた。
ここから先は徒歩だ。
回廊内の正規道なら馬車も通るらしい。
ルル・トも通れるのだろうが、ここまでの契約となっているのだ。
「ここまでありがとうな」
俺はルル・トの首元を撫でた。
砂色に若草色が混じった羽毛は、相変わらず滑らかだ。
首元のタグを確認し、係員に教わった通り、小さな鈴を二回鳴らす。
ちりん、ちりん。
ルル・トは喉の奥で、るるる・・・と鳴いた。
「これで帰れるんだよな」
「ええ。この子たちは、私たちより道を覚えてるわ」
「俺より賢いかもしれない」
「否定はしないわ」
「そこは否定してくれ」
エマは少し笑った。
二羽のルル・トは、しばらくこちらを見ていたが、やがて踵を返すように来た道へ向かって走り出した。
長い脚が地面を蹴ると、すぐに砂色の背中が小さくなっていく。
たった二日の旅だった。
それでも、少し寂しい。
『ルル・ト二体、帰還行動に移行。異常なし』
(そうか)
『愛着反応を確認』
(分析しなくていい)
『了解』
俺は小さく息を吐いて、巨大な入口へ向き直った。
ここから先が、龍の回廊だ。
検問所は、入口の少し手前にあった。
岩を削った詰所に、二人の検問兵が立っている。片方は通行証や依頼書を確認し、もう片方は荷車や人相を見ている。
そこまで厳重ではないが、雑でもない。
人と物が大量に流れる場所らしい、実務的な空気だった。
「次」
呼ばれて、俺たちは前に出た。
俺は冒険者証と、リゼットが用意した依頼書を出す。
検問兵がそれを受け取り、ざっと目を通した。
「書類配送か。宛先はラムール寄りの乾物商・・・報酬、安くないか?」
「私、じつは商人なんですよ」
いつもと違う声色で話す。
「商人? 冒険者で商人もやってるのか?」
「ええ、だもんで報酬の他に実利があります。報酬を貰えて、他国に仕入れに行ける。私のように商人を兼ねている者にとっては、おいしい依頼なんですよ」
検問兵は、俺と依頼書を見比べた。
「なるほどな。商人みたいな冒険者じゃなくて、冒険者みたいな商人か」
「最近、自分でも分からなくなってきました」
「ははっ。まあ、そういう奴はここじゃ珍しくない」
検問兵は依頼書に簡単な印を押した。
「乾物、香辛料、薬草か。回廊の途中にも売ってるが、奥の方は質も値段も荒いぞ」
「へぇ、よく見ておきます」
「ボッタクられんなよ」
「へへっ、気をつけます」
通行許可が出た。
俺たちは検問を抜ける。
少し歩いたところで、エマが横から小さく言った。
「ちょっとやり過ぎよ」
「何が?」
「今の説明。ちょっと気持ち悪かったわ」
「まあ、俺もどうかと思ったが」
「あなた、たまに変な役にハマるわよね」
エマは呆れたように言ったが、口元は少し笑っていた。
まあ、確かに商人と言うのは嘘じゃない。
香辛料も乾物も薬草も、普通に興味がある。
それが商品になるか、薬品になるか、美容品になるか、保存食になるかは分からない。
だが、見る価値はある。
検問所の先。
龍の回廊に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たい。
湿っている。
それでいて、人の熱がある。
入口近くの道は、とにかく広かった。
場所によっては、馬車二台が余裕を持ってすれ違える。壁には魔石灯が一定間隔で並び、路面は均され、排水溝まで掘られている。
「ダンジョンって、工事できるんだな」
「どういうこと?」
「なんか、壁を壊したりしても、勝手に元に戻ると思ってた」
「何それ。どんな仕組みでそうなるのよ」
まぁ、言われてみればそうか。
歩きながら周りを見回す。
荷車の車輪が軋む音、傭兵が料金でもめる声、行商人が荷札を確認する声。
いろいろな音がある。
ここは地下だ。
なのに、街道でもある。
いや、街道というより地下の国境道か。
「すごいな」
「ええ。何度来ても、最初はそう思うわ」
「エマは来たことがあるのか?」
「入口近くまでなら。奥まではない」
「地下一層なのに、奥って言い方になるんだな」
「なるわ。地下一層だけでも広すぎるもの」
エマが壁面に貼られた古い地図板を見る。
俺も覗いた。
正規交易路の線だけでもかなり長い。
その周囲に、灰色で潰された支道が無数にある。
封鎖、崩落、魔物発生区域、立入禁止。
そんな文字が並んでいる。
「支道は、全部塞がれてるのか」
「そう聞いているわ。少なくとも、普通の通行人が入れる道はないはずよ」
『広域地下構造を確認。自然洞窟に人工拡張が加えられています』
(人工物か)
『はい。ただし、拡張時期と補修時期が一致しません。複数時代の施工痕跡があります』
(古い遺跡を、後から交易路として使ってる感じか)
『現時点では、その仮説が有力です』
アルの声が、いつもより少しだけ硬い。
興味を持っている時の声だ。
『先行して調査を行っていますが、構造規模が想定を大幅に超過しています。地下一層のみでも、極めて広大な面積を有する可能性があります』
(どのくらいだ?)
『現時点では未確定。ただし、都市レベルという表現では不足します』
(国一つ分とか言い出さないだろうな)
『否定できません』
(マジか)
地下一層でそれか。
ダンジョンという言葉が、一気に重くなった。
逆に言えば、そんな場所の一部を切り開き、交易路として使っている人間も大概だ。
ここは道だ。
商人が通り、荷車が軋み、冒険者が笑い、傭兵が金額を吊り上げる。
けれど同時に、ここはダンジョンだ。
人が使っているのは、巨大な怪物の喉元に作った、ほんの細い足場に過ぎない。
「地下一層でも完全踏破されていない、か」
「ええ。正規道から外れる理由がないもの。理由があっても、普通は戻ってこられないわ」
「下層は?」
「Aランクパーティでも危険だと聞くわ」
その時、横から声がした。
「実際、危険だよ」
振り向く。
休憩所の壁際に一人の男がいた。
旅人の外套に、白と青が基調の装備。
柔らかな表情の一見すると優男。
だが、立ち方だけで分かる。
マルスだ。
「予定通りだね」
「そっちもな」
「君たちなら遅れないと思っていたよ」
「信用が雑だな」
「実績に基づいた判断さ」
マルスはにこりと笑った。
その笑いは穏やかだ。
だが、周囲の傭兵や冒険者の視線は、なぜかマルスに留まらない。見ているのに、見ていないように流れていく。
目立たない立ち方。
気配の消し方。
この人も大概だ。
「今日はマルスだけか?」
「表向きはね。リブはまだオーブリン。他のメンバーはラムール側で動いている。先日の依頼みたいに全員が揃う方が珍しいんだ」
「そうなのか」
「それぞれ役割があるからね」
事情があるのだろうが、今は聞かない方が良いのだろう。
「下層の話をしていたね」
「ああ。Aランクでも危険って話だ」
「僕たちも地下十層までは行ったことがある」
「地下十層?」
思わず聞き返した。
マルスは軽くうなずく。
「踏破じゃないよ。到達しただけだ。そこで、エンシェントドラゴンを見た」
エマの表情が変わった。
「エンシェントドラゴン・・・」
「勝てないと確信した。だから撤退した。驚いたよ。十メートルはあろうかというモンスターを、まるで小魚をつまむみたいに食べていたんだ」
マルスの声は淡々としている。
だが、その淡々とした声の中に、確かな記憶の重さがあった。
「ただ、不思議だった。あれは、僕たちを気にしてなかった。追ってもこなかった。むしろ、下から上がってくる何かを防いでいるように見えた」
「防いでいる?」
「そう。あれを倒したら、たぶん龍の回廊は壊れる」
さらっと言う内容ではない。
「ダンジョンが壊れるって、どういう意味だ」
「下から上がってくる魔物を、誰も止められなくなるという意味だよ」
マルスは柔らかく笑った。
「スタンピード・・・」
エマの表情が一瞬険しくなる。
「だから、今日は下には行かないよ」
「当たり前だ」
「安心したよ。君なら少し興味を持つかと思った」
「持つには持つが、行くとは言ってない」
「それならいい」
エマが横から小さく息を吐いた。
今のやり取りで少し不安になったらしい。
俺も、否定しきれないのがつらい。
「まずは正規道を進もう。中央寄りの集落で一泊して、そこからラムール側へ抜ける」
「交易路は馬車で四日だったか」
「それは荷が満載の馬車の話。検問での荷の確認や休憩を考えれば、もっとかかることもある。僕たちは軽装だから早い」
「軽装すぎて目立たないか?」
「目立つよ」
「おい」
「だから、堂々としていよう。マジックバッグを持っている冒険者も商人も、ここでは珍しくない。ただ、狙われないとは言っていない」
マルスはにこりと笑った。
嫌な予告だった。
(変なフラグは立てないでくれよな・・・)
正規交易路を進む。
道は広いが、ずっと同じ広さではない。
場所によっては馬車がすれ違えるほど広く、場所によっては一台ずつ通るのがやっとになる。そういう場所には待避所が作られ、荷車の順番を調整する係までいた。
休憩所もいくつかあった。
魔石灯の光はあるが、空はない。
進むほど、地下にいる感覚がじわじわと身体に染みてくる。
中央寄りの拡張集落に着いたのは、かなり歩いてからだった。
集落。
そう呼ぶには雑で、野営地と呼ぶには大きすぎる。
案内された場所は、とても清潔とは言えない場所だった。
「ここに泊まるのか・・・正直、外の野営の方が快適そうだな」
「同感だけど、ここでは目立たない方がいいわ」
「精霊工房式野営は封印か」
「辛いけど封印ね」
エマに即答された。
少し残念だ。
あの快適野営は、結構気に入っている。
だが、ここでやったら確実に目立つ。
目立つどころか、商売人と盗賊と怪しい連中が全部寄ってくる。
「宿は取ってある。それにしても、この移動速度で息一つ切らしてないとは・・・二人とも流石だね」
マルスが案内した宿は、快適とは言い難かった。
床は軋み、壁は薄い。
毛布は硬いし、ベッドからは妙な匂いがする。
それでも、壁があり、扉があり、他の旅人に紛れられる。
大部屋と違い、三人一部屋で安心できる。
この場所では、それだけで十分なのだろう。
「こういう場所、平気なのか?」
部屋に入った後、俺はマルスに聞いた。
「慣れているだけだよ」
「慣れたくないな」
「それが普通の感覚だと思う」
マルスは窓のない壁を見た。
「でも、ラムール側には、慣れるしかなかった人たちがたくさんいる」
その言葉には、軽さがなかった。
俺もエマも、何も言わなかった。
いや、言えなかった。




