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第61話 任せるもの


 忙しい毎日の中、何とか段取りをつけることができた。


 今日も今日とて忙しい。


 精霊工房の一階では、従業員たちが開店準備を進めている。棚の埃を払い、商品を並べ、注文票を確認し、保護した子供たちの朝食まで用意する。


 その横では、セレナが帳簿を開いていた。


 眼鏡を掛け、羽根ペンを走らせる姿は、完全に仕事の顔だ。昨日までの事件処理も終わっていないのに、今日の売上、在庫、従業員の配置、保護した子供たちの食費まで、きっちり整理している。



「セレナ」


「はい」



 俺が声をかけると、セレナは顔を上げた。



「店側の事務所には、これを置いていく」



 机の上に、銀色の薄い板を置いた。

 見た目は、少し厚みのある金属板だ。中央に小さな結晶めいた光があり、表面には薄く魔法陣のような模様が浮かんでいる。


 もちろん、本当は魔法陣ではない。


 アルがそれっぽく見せているだけだ。

 正体はナノマシンの塊である。



「通信端末、ですか?」


「ああ。基本的な連絡はこれで取れる。店側のメイン端末だ。管理はセレナに任せたい」


「私が、ですか」


「ああ。俺がいない間、表の判断はセレナに任せる」



 セレナは、端末を見下ろした。


 表情は大きく変わらない。


 ただ、ほんの少しだけ、息を吸う間があった。



「責任が重すぎませんか」


「軽いとは言わない」


「そこは否定してください」


「無理だな。重いから任せる」



 セレナが、少しだけ困ったように目を細めた。

 それでも、拒まなかった。



「分かりました」



 短く言って、セレナは端末の横に帳簿を置いた。



「店舗運営、従業員管理、在庫、外部対応、保護対象の生活費管理。加えて、ヴァルシュ商会、オルベック商会、冒険者ギルド、商業ギルドとの連絡窓口。すべて、こちらで受けます」


「すごいな。俺が言う前に全部出てきた」


「それくらいは想定していました」


「頼もしい」


「頼もしいで済ませないでください」


「いや、本当に助かってる」



 そう言うと、セレナは一度だけ視線を落とした。


 そして、少しだけ声を低くする。



「ちゃんと・・・戻ってきてくださいね。店が回りませんから」


「それは心配の仕方としてどうなんだ」


「本音ですので」


「おおい」


「半分は」


「残り半分は?」



 セレナは、眼鏡の奥で少しだけ目を伏せた。



「・・・戻ってきてくださいね」



 その言葉には、帳簿も売上もなかった。


 俺は少しだけ言葉に詰まり、うなずいた。



「ああ。戻る」


『セレナを店側端末の管理者として登録します』



 アルの声が、端末から響く。


 セレナは端末へ向き直り、軽く頭を下げた。



「よろしくお願いします、アル」


『よろしくお願いします』



 妙に事務的な挨拶だった。


 だが、その短いやり取りだけで、精霊工房の表側に一本、芯が通ったような気がした。







 次に向かったのは地下工房だ。


 ここは、表向きには存在しない。


 母屋と旧倉庫の地下に広がる秘密基地。


 入れるのは、俺とアル、そしてドグランだけだ。


 エマにも、何かやっていることは薄々気づかれていると思う。だが、そこはあえて踏み込まないでいてくれている。ありがたいような、少し怖いような話だ。


 隠し扉を抜けると、地下の空気は表とは別物だった。


 炉の低い唸りに、金属と油と、熱を帯びた石の匂いが重なる。


 壁面にはアルが増設した作業灯が並び、中央にはドグランが陣取っていた。


 その前には、白零。


 俺の剣が、炉の光を受けて静かに光っている。



「来たか、小僧」


「調子は?」


「剣の方は良い。使い手の方は知らん」


「ひどい評価だな」


「事実じゃ」



 ドグランは白零を持ち上げ、刃を軽く見た。


 それだけで、何か分かるらしい。



「白零は切れすぎる。おぬしの腕なら扱えるじゃろうが、慢心するな」


「言われなくても分かってる」


「分かっとるなら、余計に気をつけろ。分からん奴より、分かったつもりの奴の方が危ない」


「それは耳が痛いな」


「痛いなら覚えとけ」



 ドグランはそう言って、白零を鞘に戻した。


 相変わらず口は悪い。


 だが、手は丁寧だ。


 白零に触れる手つきだけは、まるで別人のように繊細だった。



「それと、炉の端末をアップグレードしておく」


「通信もできるようになるのか?」


「ああ。俺たちと連絡も取れるし、遠く離れたアルともやり取りできる」


「ほう」



 ドグランの目が、明らかに変わった。


 これはまずい。


 酒を見つけた時と、未知素材を見つけた時と、かなり近い目だ。



「つまり、小僧がいなくてもアルと研究の続きができるわけじゃな」


「・・・使い方は間違えるなよ」


「間違えとらん。正しい使い方じゃ」


「連絡用だからな」


「研究連絡用じゃろう」


「勝手に一語足すな」


『炉端末への通信機能、追加の解析補助機能、記録共有機能を追加します』



 炉の横に据え付けられた端末の表面に、淡い光が走った。


 魔道具に見える。

 見えるだけだが。


 ドグランは、その光をじっと見つめていた。



「・・・面白いのう」


「その顔で言われると不安になる」


「安心せい。壊しはせん」


「作り変えそうなんだよな」


「必要ならな」


「必要にするな」



 そこで、俺は地下工房の奥へ目を向けた。


 厳重に封じた箱。


 その中には、押収した隷属首輪がある。


 ドグランも、その視線だけで察したらしい。



「小僧。あれは、ワシが預かる」


「いいのか?」


「いいも悪いもあるか。こんなもん、そこらの倉庫に置けるか」



 ドグランの声は低かった。

 怒りというより、嫌悪に近い。


 あの首輪を見た時のドグランの顔を、俺は忘れていない。


 技術者だからこそ、分かるのだろう。

 何のために作られ、どう悪用されたのか。



「ま、ここなら安心か」


「調査も続ける。だが、使うためではない」


「分かってる」


「ワシが見たいのは、こいつを作った奴の考え方じゃ。どう壊すか、どう防ぐか、そのために見る」


「ああ。頼む」



 俺がそう言うと、ドグランは鼻を鳴らした。



「頼まれた」



 短い返事だった。


 だが、十分だった。


 俺は白零を受け取り、腰に戻す。


 その重みが、いつもより少しだけ現実的に感じた。



「戻ったら、次の素材を試すぞ」


「そこは無事を祈るところじゃないのか」


「無事に戻らんと試せんじゃろうが」


「なるほど。筋は通ってるな」



 ドグランは、にやりと笑った。



「それに、あるんじゃろ? 隠してるのが」


「・・・何がだ」


「素材じゃ。小僧はそういう顔をしとる」


「どんな顔だよ」


「まだ面白いものを隠している顔じゃ」



 なぜ分かる。


 いや、たぶん俺の管理が甘いんじゃない。


 ドグランの嗅覚がおかしい。



『秘匿素材の存在を推測された可能性があります』


(見れば分かる)


『秘匿精度の再評価を推奨します』


(俺の表情筋から見直すべきかもしれない)



 ドグランは楽しそうに白い歯を見せた。



「無事に戻れ、小僧。戻ったら吐かせる」


「送り出しの言葉としては最悪だな」


「ワシらしいじゃろ」


「否定できねぇ」



 俺は苦笑して、地下工房を後にした。






 リファニーの研究室は、地下工房とは別の意味で秘密基地だった。


 いや、秘密ではない。


 ただ、一般人が見たら立ち入ってはいけない場所だと本能で判断するだけだ。


 散乱した何かよくわからないものの数々。

 そして、あちこちに積み上げられた紙の山。


 研究室というより、何かを召喚する儀式場に見えなくもない。



「ぐふふ・・・来ましたねぇ」



 リファニーは机の向こうから顔を出した。


 髪はいつもより跳ねている。

 寝癖なのか、薬品の爆発なのか、判断が難しい。


 銀の板を取り出す。



「これは?」


「リファニーの研究室にも端末を置く」


「端末?」


「アルとの通信端末だ」


「おお・・・! つまり、離れていても連絡が取れるわけですねぇ」


「そうだ。理解が早くて助かる」


「そして、アルさんと共同研究もできるわけですねぇ」


「おい・・・まあ、必要な範囲ならな」


「ぐふっ・・・ぐふふふふ」



 リファニーの目が輝いた。


 しまった。


 今、俺は何かの封印を解いた気がする。



「必要な範囲。いい言葉です。研究に必要な範囲は、とても広いですからねぇ」


「ほどほどにな」


「ぐふふ・・・善処します」



 絶対にほどほどにならない返事だった。


 隣にいたセレナが、小さく息を吐く。



「こちらが旅用の薬品セットです」



 リファニーが机の上に小箱を並べた。



「鎮静薬、睡眠誘導薬、解毒薬、胃腸薬、傷薬。あと、臭気避けと虫除け香です」


「ずいぶんあるな」


「地下は臭いですからねぇ。あと、変なものを食べた時のためです」


「食べる前提なのか」


「アキラさん、変な実とか香辛料とか、絶対に拾いますよね?」


「否定できない」



 悔しい。

 本当に否定できない。



「それと、採取サンプル用の小瓶です。香辛料、乾燥香草、薬草、樹脂、鉱物粉末。分けて入れてくださいねぇ。混ざると泣きます」


「リファニーが?」


「素材がです」


「素材側か」


「研究者は素材の気持ちを考えるものです」


「それは初耳だな」



 そこで、セレナが静かに口を開いた。



「・・・では、帳簿のサポートも少々、よろしいですか?」


「セレナまで?」


「業務効率化です」


「言い方が強いな」


「必要な範囲です」



 リファニーと同じ言葉を、セレナがさらりと使った。


 しまった。


 リファニーに許可しておいて、セレナを拒否する理由はない。



「・・・分かった。必要な範囲なら」


「ありがとうございます」


「ぐふふ・・・仲間ですなぁ、セレナさん」


「研究暴走の仲間にしないでください。私は業務です」


「業務も研究も、未知を整理するという意味では似ていますよぉ」


「似ていません」



 いや、少し似ている気もする。


 が、言わないでおこう。



『各端末への権限設定を開始します』


「ああ、頼む」


『研究支援、帳簿補助、通信管理、工房防衛、素材収集、在庫照合、薬品反応記録を並列処理します』


「・・・増えてないか?」


『増えています』


「だよな」



 俺には見えた。


 ドグランに炉の温度管理を相談され、リファニーに薬草成分の解析を頼まれ、セレナに帳簿の誤差検出を求められ、ついでに店側から在庫確認まで投げられるアルの未来が。


 いや、未来というか、たぶん明日からそうなる。



「アル」


『はい』


「・・・がんばれ」


『処理能力には余裕があります』


「そういう問題じゃない気がするんだよな」



 リファニーが楽しそうに笑う。



「精霊工房の精霊さん、大人気ですねぇ」


「その言い方だと可愛いんだけどな」


「実際、可愛いではありませんか。銀の小鳥ですし」



 外向きには、そういうことになっている。


 銀の精霊。


 精霊工房に宿る、不思議な守り神。


 まあ、間違ってはいない。


 少なくとも、この世界の人に説明するなら、その方が近いのだろう。



『工房防衛用、通信補助用、素材収集用の分体を残します』


「量は足りるか?」


『精霊工房、従業員、保護対象の防衛を維持しつつ、周辺素材を利用した自己増殖が可能な量を確保します』


「ならいい」



 リファニーが、端末をじっと見ていた。



「・・・素材を集めて、増える精霊」


「深く考えるな」


「考えたいです」


「ほどほどにな」


「本日二度目ですねぇ」


「二度言う必要があるからな」



 セレナが、静かに端末へ視線を落とす。



「これで、最低限は回せます」


「最低限で済むか?」


「済ませます。無理はしません」



 その言い方が、少しだけ頼もしかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 昼前、従業員たちを店舗一階に集めた。


 全員に詳しい事情を話すわけにはいかない。

 が、必要なことをまとめて伝えた。



「・・・でだ。俺がいない間、店はセレナに任せる」



 その一言で、従業員たちの視線がセレナへ向いた。


 セレナは眼鏡を押し上げる。



「通常業務は続けます。ただし、無理はしません。危険を感じた場合は即時閉店。判断はこちらで行います」



 俺が何か言うより、よほど店が締まった。


 適材適所。


 たぶん、こういうことなのだろう。



「保護している子供たちについては、外部から聞かれても答えないでください。必要な対応はこちらで行います」



 従業員たちは、少し緊張した顔でうなずいた。


 無理もない。


 銀の精霊だの、夜の一斉摘発だの、保護された子供たちだの、ここ数日の精霊工房は話題が多すぎる。


 普通の人なら、とっくに逃げ出したくなっていただろう。



「店長」



 従業員の一人が、おずおずと手を上げた。



「ちゃんと帰ってきてくださいよ」


「店長って呼ばれるの、まだ慣れないんだが」


「じゃあ、アキラさん」


「ああ。戻ってくる」



 短い返事だった。


 だが、それを聞いて、従業員たちの表情が少しだけ緩んだ。

 



 中庭の方から、小さな笑い声が聞こえた。


 覗いてみると、ミラが年下の子供に水を飲ませていた。


 チャドは木箱をひっくり返して椅子代わりにし、別の子供たちに何かを説明している。


 子供たちの何人かは、まだ大人を見ると身を硬くする。


 だが、ミラとチャドには少し気を許しているようだった。



「・・・何をしてるんだ?」


「あ、アキラ兄ちゃん」



 チャドが顔を上げた。



「小さいやつら、知らない大人が多いと怖がるからさ。俺たちが見てる」


「そうか」



 ミラが、小さな器を置いてこちらを見た。



「私たちも、ここにいていいって言われたから・・・何か、したくて」



 その言葉に、少し胸を突かれた。


 助けられた子供が、別の子供を助けている。


 それは、ほほえましい光景だった。



「無理はするなよ」


「してないよ」



 チャドが少しだけ胸を張る。



「こいつら、夜に泣くんだ。だから、先に寝る場所とか教えてやってる」


「頼もしいな」


「だろ」



 子供らしい得意げな顔だった。

 ミラは少しだけ笑っている。

 前に見た時より、表情が柔らかい。


 ただ、それでも目の奥にはまだ不安が残っていた。



「アキラ兄ちゃん、どこか行くのか?」



 チャドが聞いてきた。



「ああ。ちょっと遠くまでな」


「また、誰か助けに行くのか?」



 返答に詰まった。


 助けに行く。


 そう言っていいのかは分からない。


 だが。



「・・・そうだな。たぶん、そうなる」



 チャドは、真面目な顔でうなずいた。


 ミラが、少しだけ近づく。



「帰ってくる?」


「ああ。帰ってくる」


「ほんと?」


「ほんとだ」



 約束は、重い。

 特に子供相手の約束は。


 それでも、今はそう言うべきだと思った。


 エマが、少し離れた場所からこちらを見ていた。


 何も言わない。

 けれど、その目は少しだけ柔らかかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 夕方、リゼットが来た。

 相変わらず華やかだ。


 精霊工房の扉をくぐっただけで、空気が少し変わる。香水の匂い、服の色、笑顔、視線の置き方。全部が計算されている。


 そして、たぶん本人もそれを分かっている。



「準備は終わった?」


「まあ、大体な」


「それじゃ、私が最後ね」


「ああ」


「精霊使い様の初めての大遠征ですもの。盛大に送り出さないと」


「その呼び方やめろ」


「あら、定着してきたのに」


「定着させるな」



 リゼットは笑いながら、書類筒を差し出した。



「はい。これが正式な依頼書。香辛料と乾物を扱う商人への書類配送よ。宛先はラムール寄りの商会。表向きは、ただの面倒で割に合わない配達依頼」



 セレナが書類を受け取り、すぐに中身を確認する。



「報酬、やっぱり安いな」


「高価なら取り合いになるわ。だから、普通の冒険者なら見向きもしない金額にしてあるの」


「だろうな。普通なら絶対に興味を持たない」



 セレナが、書類から目を上げる。



「依頼としては成立しています。報酬は安いですが、香辛料と乾物に関心を持つ精霊工房が受ける理由としては不自然ではありません。依頼を受けならがら仕入れもしてくる、と言えますので」


「でしょう?」



 リゼットは得意げに笑った。



「それと、こっちが紹介状。向こうで乾燥香草や山麓産の香辛料を扱っている商人に渡せば、最低限の話は通るはずよ」


「助かる」


「ただし」



 リゼットの声が、少しだけ変わった。



「冗談抜きで、気をつけなさい。ラムールは、商売の理屈が通じない場所よ」


「商売の理屈が通じない?」


「欲しいから買う。契約したから守る。そういう当たり前が、通じない相手もいるということ」



 リゼットの表情は笑っている。

 だが、目は笑っていなかった。



「あなたの商品も、あなた自身も、向こうから見れば価値がある。価値があるものを、正規の手段で手に入れようとするとは限らないわ」


「肝に銘じておく」


「そうして」



 リゼットは、そこでいつもの笑みに戻った。



「明日には発つの?」


「ああ、そのつもりだ」


「そうだ、それじゃ最後に一つ」



 リゼットが、ふと思い出したように言った。



「あなたに幸運のおまじない。効果は保証付きよ」


「保証付きのおまじないって、商会令嬢が言うと胡散臭いな」


「あら、失礼ね」



 次の瞬間、リゼットが一歩近づいた。


 香水の甘い匂いが近い。


 胸元が視界に入るより早く、腕が首の後ろに回された。



「ちょっ・・・」



 柔らかい感触。


 そして、頬に軽く触れる唇。


 離れたリゼットは、満足そうに微笑んでいた。



「はい。これで大丈夫」


「何が大丈夫なんだよ」


「私のおまじないは効くの」



 その瞬間、横からすっと白い袖が伸びてきた。


 ぐいっと顔が引っ張られる。



「痛っ」



 エマが無言で俺の頬をこすった。



「エマ、痛い」


「消しているの」


「何を」


「余計なものを」



 そこでようやく気づいた。


 リップ跡だ。


 この女、わざと残るやつを使ったな。



「あら。幸運のおまじない、もう消えちゃったわね」


「リゼット!」


「怖い顔。でも、そういう顔も綺麗よ、エマさん」



 エマの袖が、さらに強く俺の頬をこすった。



「痛い。エマ、本当に痛い」


「我慢して」


「俺が悪いのか?」


「少し」


「少しか・・・」



 リファニーが、薬品箱を抱えたまま横から覗き込んだ。



「モテモテですなぁ」


「リファニー、今それを言うか」


「今だから言うんですよぉ」



 セレナは額に手を当てていた。


 ドグランがこの場にいなくて良かった。

 いたら絶対に酒の肴にされていた。



『軽微な痛みを検知。痛覚を遮断します』


(いや、いい。この痛みも感じていたいんだ)


『理解できません』


(だろうな)



 頬が少し痛い。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 リゼットは笑っている。

 エマは少し怒っている。

 リファニーは面白がっている。

 セレナは呆れている。


 この面倒くさい空気が、妙に現実的だった。


 そして、現実的だからこそ思った。


 俺には、帰る場所がある。




 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 夜。


 精霊工房の灯りは、まだいくつか残っていた。


 店側事務所にはセレナがいる。


 地下工房では、たぶんドグランが炉端末をいじっている。


 リファニーは研究室で端末を前に、早速アルへ何か聞いているかもしれない。


 従業員たちは明日の準備を終え、保護された子供たちは寝床に入った。


 俺とエマは、母屋の二階から中庭を見下ろしていた。



「ラムールは、私が思っていた以上にひどい国なのかもしれない」



 エマが静かに言った。



「噂は知ってたのか?」


「ええ。でも、噂と目の前の子供は違うわ」


「そうだな」



 俺は、昼間のミラとチャドを思い出した。


 水を配るミラ。


 小さい子供たちに寝る場所を教えるチャド。


 救われた子供が、別の子供を支えていた。



「救えた子供がいる。けど、救えてない子供もいる」


「ええ」



 エマの声は静かだった。


 だが、その奥には怒りがあった。


 冷たく、深い怒りだ。



「あなたは、きっと無茶をするわ」


「否定しづらいな」


「だから、私も行くの」


「止めないんだな」


「止めても行くでしょう?」


「まあな」


「なら、隣にいる方がいいわ」



 隣。


 その言葉が、思っていたより強く残った。



「・・・まだ怒ってるか?」


「何のこと?」


「その返しが怖い」


「怒ってはいないわ」


「本当か?」


「ええ。少し、気に入らなかっただけ」


「それは怒ってるって言わないか?」


「違うわ」


「そうか」


「そうよ」



 しばらく、二人で中庭を見ていた。


 風が少し冷たい。


 ヒリリと、頬がまだ少し痛い気がした。


 妙な話だが、その痛みで思った。


 俺には、帰る場所がある。



「でも」



 エマは、精霊工房の灯りへ視線を落とした。



「あなたが帰ってくる場所は、ここでしょう?」


「ああ」


「なら、いいわ」



 それだけ言って、エマは少しだけ肩の力を抜いた。


 俺も、中庭の向こうにある店の灯りを見た。


 頼れる仲間に、任せるものが増えた。


 そして、俺たちが帰る場所。


 背負うものが減ったわけではない。

 ただ、一人で抱えなくていいものが増えたのだ。


 それは、思っていたよりずっと心強かった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 夜も更けた頃、俺は小さな銀の羽根を手に取った。


 マルスへ連絡するための端末だ。



「アル、繋げるか」


『通信可能です』


「頼む」



 銀の羽根が、淡く光った。




「マルス、聞こえるか?」



 少し間を置いて、向こうから声が届く。



『アキラ?』


「ああ。こちらは明日には出られる。そちらの都合は」


『僕らもちょうど予定が終わったところさ』



 マルスの声は落ち着いていた。


 けれど、軽さはない。


 向こうも準備を終えたのだろう。



「それじゃ、龍の回廊で」


『ああ、龍の回廊で』



 羽根の光が、静かに揺れた。


 明日、俺たちはヴェルクハーフェンを出る。


 目的地は、グランヴェイル大山脈の地下。


 龍の回廊。



 そして、その先にあるラムール王国だ。



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