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第55話 精霊の噂



 その日、俺たちは店を閉めることにした。


 夜を徹した活動で、全員が限界だった。


 解散して自宅に戻ると、俺たちは泥のように眠った。





  △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 

 次の日。

 朝から、精霊工房の空気は少し変だった。


 店はいつも通り開店準備をしている。

 棚を拭き、商品を並べ、帳簿を開き、工房の奥ではドグランが金属を叩いている。


 だが、何か視線が多い。


 俺が少し動くたび、従業員たちの意識がこちらへ寄る。露骨に見てくるわけではない。けれど、聞きたいことが喉元まで来ているのは分かった。



(・・・まあ、そうなるよな)


『肯定。噂の伝播速度は想定以上です』


(早すぎないか?)


『人間は、恐怖と救済を含む情報を優先的に共有する傾向があります』


(嫌に冷静な分析だな)



 そんなやり取りをしていると、販売担当のマリアベルが、そろそろと近づいてきた。



「あの・・・アキラさん」


「なんだ?」


「外で、その・・・銀の精霊が子供たちを助けたって話が出ています」


「もうそこまで広がってるのか」


「はい。それと、精霊工房には本当に精霊がいるんだって」



 店内の手が止まった。


 全員、聞いている。

 聞いていないふりをしている者まで、完全にこちらへ意識を向けていた。



「精霊って、本当にいるんですか?」



 誰かが、小さく聞いた。

 

 まあ、鏡も瓶も布も普通ではなかった。今さら精霊が出てきたところで、驚きつつも納得してしまうのかもしれない。


 奥から、カン、と大きな音が響いた。



「なーにを今さら騒いどる」



 ドグランが槌を肩に担ぎ、酒臭い声を投げてきた。



「小僧のやることが普通じゃないのは、昨日今日の話じゃなかろうが」


「おい、ドグラン。言い方・・・」


「事実じゃろう」


「くっ・・・否定できねぇ」



 少しだけ、場が緩んだ。

 助かる。

 だが。



「大体、あのアル――」


「ドグランさん」



 セレナの声が飛ぶ。


 静かだが、よく通る声だった。

 ドグランは口を閉じ、髭を撫でる。



「・・・む。まあ、なんじゃ。みなが知っておくべきことは、小僧が話すじゃろ」



 従業員たちが、神妙に頷いた。

 

 セレナは細縁の眼鏡を押し上げ、俺を見た。


 逃げるな、という目だった。

 エマも静かにこちらを見ている。

 リゼットは少し離れた場所で、完全に面白がっていた。


 なぜリゼットがもういる。

 見物しに来るな。



「・・・はぁ」



 俺は一つ息を吐いた。


 全部を話すわけにはいかない。

 だが、完全に隠すには、もう遅い。


 何より、ここで働いている人間たちを、ただの外側に置いたままにするのも違う気がした。



「みんな、少し集まってくれ」



 従業員たちが、作業の手を止めて集まってくる。


 俺は彼らを見回した。


 エマ、セレナ、ドグラン、リファニー、マリアベル。

 販売担当、製造補助、運搬担当、見習い。


 いつの間にか、精霊工房は俺だけの場所ではなくなっていた。



「町中に広まっている噂についてだ。詳しいことは言えないんだが・・・」



 店内が静かになる。



「ただ、昨夜、行方不明になっていた子供たちを助けるために、俺の力を使った。それは事実だ」



 誰も口を挟まなかった。



「それと・・・精霊がいるのも、事実だ」



 小さく息を呑む音が重なる。



(アル、少しだけだ)


『了解』



 俺の肩口に、銀色の光が集まった。


 粒子のような光が寄り集まり、小さな鳥の形になる。昨夜、街を駆けた銀の鳥より、ずっと小さい。手のひらに乗るほどの、淡く光る小鳥。


 店内の空気が止まった。



『アルです』



 美しいカーテンシーとともに、短い声が、店の中に落ちる。


 それだけだった。

 ただ、そこにいるだけ。

 俺は言った。



「誰かを驚かせるためのものでもない。昨日は、子供を助けるために力を借りた。それだけだ」


「・・・私たちは、どうすればいいんですか?」



 マリアベルが聞く。



「いつも通り働いてくれ」


「はい」


「それと、アルについては詮索しないでくれ。これは、うちの工房の秘密だ」



 うちの工房。


 自分で言って、少しだけ胸に残った。

 従業員たちも、その言葉に少し顔を上げる。


 悪くない反応だった。



「補足します」



 セレナが前に出た。



「今見たものを外で話す必要はありません。聞かれた場合は、知らないことは知らないと答えてください。見ていないことを見たと言わない。聞いていないことを聞いたと言わない。それだけです」



 従業員たちは真剣に頷く。



「本日は通常通り営業します。子供たちが助かったことは喜んで構いません。ですが、仕事は止めないでください」


「はい!」



 返事は、さっきより強かった。


 不安が消えたわけではない。

 けれど、そこには少しだけ誇らしさが混じっている。


 銀の小鳥は、一度だけ羽を揺らし、光の粒になって消えた。



「よし」



 俺は手を叩いた。



「さあ、店を開けるぞ」


「開けるんですか?」


「閉めた方が噂になるだろ?」


「はい。その判断は正しいです」



 セレナが即答する。



「見物人を外に溜めるより、客として流した方が管理できます」


「頼もしいな」


「必要ですので」



 いつも通りの声だった。

 だが、そのいつも通りが、今はありがたい。


 精霊工房は、その日、普通に扉を開けた。


 普通ではない噂の真ん中で。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 精霊工房を出ると、噂はもう通りのあちこちに落ちていた。



「まったく、広がるのが早すぎるだろ」


「子供が助かった話だもの。広がって当然よ」



 隣を歩くエマは、落ち着いていた。

 ただし、何も感じていないわけではない。すれ違う親子連れを見るたび、ほんの少しだけ目元が柔らかくなる。



「悪い噂ではないわ。少なくとも、今は」


「今は、か」


「ええ。だから、関わり方を間違えたらダメよ?」


「分かってる」



 そう答えながらも、俺は少しだけ落ち着かなかった。


 ただの職人でも、ただの冒険者でもなくなっていく感覚。


 精霊使い。


 言葉にすればなんてことは無い。

 けれど、その名前には、期待も、恐れも、面倒事も乗ってくる。


 それでも、今はいい。

 子供たちが助かった話と一緒に広がっているなら、今だけは受け止めるべきなのだろう。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 俺たちは、午後から子供たちの様子を見に行った。

 子供たちは、守備隊詰所の一室で保護されていた。


 簡易の寝台が並び、薬草の匂いが漂っている。


 治療師がこちらに気づき、静かに頭を下げた。



「命に別状はありません。薬の影響と疲労は残っていますが、順に目を覚まし始めています」



 その一言だけで、胸の奥が少し軽くなった。


 アルからも、生命に危険はないと聞いていた。

 だが、人の口から聞くと違う。


 部屋の奥に、ミラがいた。

 椅子に座っているが、座っているというより、崩れないように必死で体を支えているように見える。


 視線の先には、寝台の上の小さな体。

 チャドだ。



「ミラさん」



 俺が声をかけると、ミラははっと顔を上げた。



「あ、アキラさん・・・エマさん・・・」


「チャドは?」


「まだ眠っています。でも、さっき少し動いて・・・もうすぐ目を覚ますかもしれないって・・・」



 声が震えている。

 希望が怖いのだ。


 本当に目を開けるまでは、安心できない。


 俺とエマは少し離れて立った。

 今、チャドのそばにいるべきなのは母親だ。


 しばらくして、チャドのまぶたが小さく動いた。



「チャド・・・?」



 ミラの声は、ほとんど息だった。


 小さな唇が震える。



「・・・かあ、ちゃん?」



 次の瞬間、ミラは崩れるように寝台へ駆け寄った。



「チャド!」



 抱きしめる。


 壊れ物を抱くように。

 それでも、二度と離すまいとするように。


 チャドは最初、何が起きたのか分からない顔をしていた。


 けれど、母親の匂いに気づいたのか、小さな手がミラの服を掴んだ。



「こわかった・・・」


「うん・・・うん・・・もう大丈夫。もう大丈夫だから・・・」


「くらくて・・・くすりのにおいがして・・・」


「いいの。今は言わなくていいの」



 ミラはチャドの頭を抱え、何度も頷く。


 俺は一歩下がった。

 エマも、何も言わずに隣へ並ぶ。


 救えた。


 ようやく、その実感が胸の奥に落ちてきた。


 数字としての生存確認じゃない。

 状態異常の解除でもない。


 母親の腕の中で子供が泣いている。


 怖かったと言える。

 もう大丈夫だと返してもらえる。


 それを見て、初めて救えたと思えた。



「・・・よかったわね」



 エマが小さく言う。



「ああ」



 それ以上の言葉は出なかった。


 チャドは、何かを思い出したように俺を見た。



「ひかる・・・とり・・・」



 ミラが顔を上げる。



「鳥?」


「ちいさい、ひかる鳥が・・・いた。きらきらして・・・それで・・・」



 チャドの目に、また恐怖が戻りかける。


 俺は静かに言った。



「今は休め。話は、元気になってからでいい」



 チャドはぼんやりと俺を見る。



「・・・せいれいの、おにいちゃん?」


「それは、まだ慣れないな」



 ミラが泣きながら笑った。


 エマも、ほんの少しだけ口元を緩める。


 俺は否定しなかった。

 少なくとも、今だけは。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 保護室を出ると、守備隊員が廊下で待っていた。



「捕まえた連中はどうなってる?」


「みな、一様に震えています」


「震えてる?」


「精霊が見ていた、と。壁にも、天井にも、荷箱の隙間にも、大きな目玉がいたそうです。どこまで逃げても見られていたと」


「・・・」


(おい。完全にホラーじゃねぇか)


『抑止力として有効です』


(否定はしないけどさ)


「そのせいか、何人かは自分から名前を出し始めています。まだ裏付けは必要ですが」


「記録を取ってくれ。ただし、子供たちには近づけるな」


「もちろんです」



 守備隊員の返事には迷いがなかった。


 この街の守備隊全体が腐っているわけではない。

 それは分かる。


 だからこそ、分けなければならない。


 関わった者、自ら進んで行った者。

 何も知らずに動いていた者。


 全部を同じ色で塗れば、こちらも雑な断罪者になる。



「アキラ」



 エマが俺を見る。



「分かってるさ。冷静にやる」


「ならいいわ」



 短い返事だった。


 でも、その声には信頼があった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 精霊工房に戻ると、店の前には朝より人が増えていた。


 ただ、混乱はしていない。


 セレナが客と見物人をきっちり分け、従業員たちも決められた範囲で受け答えしている。


 噂に飲まれていない。うまくやっている。


 それだけで、ずいぶん頼もしく見えた。



「おかえりなさい」


 セレナが帳簿から顔を上げる。



「子供たちは?」


「順に目を覚ましてる。チャドも母親と会えた」


「そうですか」



 表情は大きく変わらない。

 けれど、ペンを持つ指先から少しだけ力が抜けた。



「よかったです」


「ああ」



 その時、店の外がざわりと揺れた。


 人混みが割れる。


 無理に押しのけたわけではない。

 通る者の圧が違う。


 扉の前に立ったのは、鉄紺に近い黒青の髪を後ろでまとめた女だった。


 動きやすそうな上着とブーツ。

 腰には短杖型の護身具。


 綺麗ではある。


 だが、最初に来る印象は美しさではない。


 なんというか、バリバリのキャリアウーマン。


 判断も、歩く速度も、たぶん全部速い女だ。



「あら、もう来たのね。東港の姫」



 リゼットが楽しそうに言った。


 女はリゼットを一瞥する。



「本当は昨日のうちに来たかったんだがな。徹夜して皆寝ている、とのことだったので今日にしたんだよ」


「それは悪いことをしたわね。でも、来てくれてよかったわ」


「来るさ。西の毒花に呼ばれるのは珍しいからな」


「あら、毒花だなんてひどいわね」


「自覚がないなら、もっとひどい」



 挨拶は、それで終わった。

 仲が悪いのか、これが普通なのかは分からない。

 まぁ・・・たぶん、両方だ。



「アキラ」



 リゼットがこちらを見る。



「ミリアナ=オルベック。オルベック商会の長女で、第三新港湾の実務を握っている女よ」


「ミリアナ=オルベックだ。よろしく」



 ミリアナは無駄のない動きで頭を下げた。



「君が、精霊工房のアキラだな」


「アキラ=ジェイ=ラッシュバックだ」


「噂は聞いている。いや、今は聞かない方が難しいか」


「早いな」



 ミリアナの琥珀色の目が、俺を測るように動く。


 顔、手、腰の武器。

 そして、店内。

 従業員の動きに商品棚も。


 そして、一瞬だけ、俺の肩のあたり。



(アル、今は出るな)


『了解』



 返事は俺の中だけで響いた。



「・・・今、誰かと相談したか?」


「してない」


「そうか」



 心が読めるのか?

 この人マジで怖い・・・

 だが落ち着け、俺はやれる子のはずだ。


 横でリゼットが笑う。



「そうそう、アキラ」


「なんだ?」


「あの女の前では、アルとは会話しないことね」



 リゼットが耳元で囁く。



「肝に銘じておく」


(アルの方でも気を付けてくれ)


『了解』



 リゼットが、にっこり笑った。



「今、また話したか?」


「・・・いや」


『否定は困難です』


(お前は黙ってろ)


「二度目ね」


「楽しそうに言うな」


「楽しいもの」



 ミリアナは俺とリゼットを見比べた。



「面白そうな秘密があるのは分かった。でも、今は後回しにしよう」


「助かる」


「助けたつもりはない。優先順位の問題だ」



 ミリアナは鞄からノートらしきものを取り出すと、それを開いた。



「確認するぞ。第三新港湾、運河沿い倉庫、水運、荷役所。そのどれかに、子供を運ぶ流れが混じっていた。そういう理解でいいか?」


「そうだ」


「君は、オルベック本家が黒幕だと言いたいのか?」


「いや、俺たちは末端の暴走だと捉えている」


「なら、まだ話はできるな」



 声は冷静だった。

 だが、奥に冷たい怒りがある。



「ただ、そちらの物流網が使われたのは事実だ」


「ああ。だから来た」



 ミリアナの目が冷えた。



「荷を運ぶ商会の名を使って、子供を違法に荷にした。そんなもの、放っておけるわけがない」



 店内の空気が変わる。

 リゼットの笑みも薄くなった。



「オルベックは港、倉庫、水運を洗う」



 ミリアナが言った。



「ヴァルシュは市議会と上流筋を見るわ」



 リゼットが続ける。



「精霊工房は?」



 二人の視線が、同時に俺へ向いた。


 いや、そこでこっちを見るな。

 だが、もう今更引ける場所じゃないよな。


 覚悟を決めれば、後は自然に声が出た。



「俺たちは隠れている証拠を見つける」



 俺は言った。



「逃げる奴も、証拠を消そうとする奴も、全部だ」



 リゼットが笑う。

 ミリアナの目が細くなる。


 街の東と西。

 そして、精霊工房。


 噂は、ただの噂では終わらない。



 銀の鳥が散った夜から、この街の裏側には、もう隠れていられなくなっていた。


 俺とアルがそうはさせない。



 そう、静かに誓った。


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