第55話 精霊の噂
その日、俺たちは店を閉めることにした。
夜を徹した活動で、全員が限界だった。
解散して自宅に戻ると、俺たちは泥のように眠った。
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次の日。
朝から、精霊工房の空気は少し変だった。
店はいつも通り開店準備をしている。
棚を拭き、商品を並べ、帳簿を開き、工房の奥ではドグランが金属を叩いている。
だが、何か視線が多い。
俺が少し動くたび、従業員たちの意識がこちらへ寄る。露骨に見てくるわけではない。けれど、聞きたいことが喉元まで来ているのは分かった。
(・・・まあ、そうなるよな)
『肯定。噂の伝播速度は想定以上です』
(早すぎないか?)
『人間は、恐怖と救済を含む情報を優先的に共有する傾向があります』
(嫌に冷静な分析だな)
そんなやり取りをしていると、販売担当のマリアベルが、そろそろと近づいてきた。
「あの・・・アキラさん」
「なんだ?」
「外で、その・・・銀の精霊が子供たちを助けたって話が出ています」
「もうそこまで広がってるのか」
「はい。それと、精霊工房には本当に精霊がいるんだって」
店内の手が止まった。
全員、聞いている。
聞いていないふりをしている者まで、完全にこちらへ意識を向けていた。
「精霊って、本当にいるんですか?」
誰かが、小さく聞いた。
まあ、鏡も瓶も布も普通ではなかった。今さら精霊が出てきたところで、驚きつつも納得してしまうのかもしれない。
奥から、カン、と大きな音が響いた。
「なーにを今さら騒いどる」
ドグランが槌を肩に担ぎ、酒臭い声を投げてきた。
「小僧のやることが普通じゃないのは、昨日今日の話じゃなかろうが」
「おい、ドグラン。言い方・・・」
「事実じゃろう」
「くっ・・・否定できねぇ」
少しだけ、場が緩んだ。
助かる。
だが。
「大体、あのアル――」
「ドグランさん」
セレナの声が飛ぶ。
静かだが、よく通る声だった。
ドグランは口を閉じ、髭を撫でる。
「・・・む。まあ、なんじゃ。みなが知っておくべきことは、小僧が話すじゃろ」
従業員たちが、神妙に頷いた。
セレナは細縁の眼鏡を押し上げ、俺を見た。
逃げるな、という目だった。
エマも静かにこちらを見ている。
リゼットは少し離れた場所で、完全に面白がっていた。
なぜリゼットがもういる。
見物しに来るな。
「・・・はぁ」
俺は一つ息を吐いた。
全部を話すわけにはいかない。
だが、完全に隠すには、もう遅い。
何より、ここで働いている人間たちを、ただの外側に置いたままにするのも違う気がした。
「みんな、少し集まってくれ」
従業員たちが、作業の手を止めて集まってくる。
俺は彼らを見回した。
エマ、セレナ、ドグラン、リファニー、マリアベル。
販売担当、製造補助、運搬担当、見習い。
いつの間にか、精霊工房は俺だけの場所ではなくなっていた。
「町中に広まっている噂についてだ。詳しいことは言えないんだが・・・」
店内が静かになる。
「ただ、昨夜、行方不明になっていた子供たちを助けるために、俺の力を使った。それは事実だ」
誰も口を挟まなかった。
「それと・・・精霊がいるのも、事実だ」
小さく息を呑む音が重なる。
(アル、少しだけだ)
『了解』
俺の肩口に、銀色の光が集まった。
粒子のような光が寄り集まり、小さな鳥の形になる。昨夜、街を駆けた銀の鳥より、ずっと小さい。手のひらに乗るほどの、淡く光る小鳥。
店内の空気が止まった。
『アルです』
美しいカーテンシーとともに、短い声が、店の中に落ちる。
それだけだった。
ただ、そこにいるだけ。
俺は言った。
「誰かを驚かせるためのものでもない。昨日は、子供を助けるために力を借りた。それだけだ」
「・・・私たちは、どうすればいいんですか?」
マリアベルが聞く。
「いつも通り働いてくれ」
「はい」
「それと、アルについては詮索しないでくれ。これは、うちの工房の秘密だ」
うちの工房。
自分で言って、少しだけ胸に残った。
従業員たちも、その言葉に少し顔を上げる。
悪くない反応だった。
「補足します」
セレナが前に出た。
「今見たものを外で話す必要はありません。聞かれた場合は、知らないことは知らないと答えてください。見ていないことを見たと言わない。聞いていないことを聞いたと言わない。それだけです」
従業員たちは真剣に頷く。
「本日は通常通り営業します。子供たちが助かったことは喜んで構いません。ですが、仕事は止めないでください」
「はい!」
返事は、さっきより強かった。
不安が消えたわけではない。
けれど、そこには少しだけ誇らしさが混じっている。
銀の小鳥は、一度だけ羽を揺らし、光の粒になって消えた。
「よし」
俺は手を叩いた。
「さあ、店を開けるぞ」
「開けるんですか?」
「閉めた方が噂になるだろ?」
「はい。その判断は正しいです」
セレナが即答する。
「見物人を外に溜めるより、客として流した方が管理できます」
「頼もしいな」
「必要ですので」
いつも通りの声だった。
だが、そのいつも通りが、今はありがたい。
精霊工房は、その日、普通に扉を開けた。
普通ではない噂の真ん中で。
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精霊工房を出ると、噂はもう通りのあちこちに落ちていた。
「まったく、広がるのが早すぎるだろ」
「子供が助かった話だもの。広がって当然よ」
隣を歩くエマは、落ち着いていた。
ただし、何も感じていないわけではない。すれ違う親子連れを見るたび、ほんの少しだけ目元が柔らかくなる。
「悪い噂ではないわ。少なくとも、今は」
「今は、か」
「ええ。だから、関わり方を間違えたらダメよ?」
「分かってる」
そう答えながらも、俺は少しだけ落ち着かなかった。
ただの職人でも、ただの冒険者でもなくなっていく感覚。
精霊使い。
言葉にすればなんてことは無い。
けれど、その名前には、期待も、恐れも、面倒事も乗ってくる。
それでも、今はいい。
子供たちが助かった話と一緒に広がっているなら、今だけは受け止めるべきなのだろう。
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俺たちは、午後から子供たちの様子を見に行った。
子供たちは、守備隊詰所の一室で保護されていた。
簡易の寝台が並び、薬草の匂いが漂っている。
治療師がこちらに気づき、静かに頭を下げた。
「命に別状はありません。薬の影響と疲労は残っていますが、順に目を覚まし始めています」
その一言だけで、胸の奥が少し軽くなった。
アルからも、生命に危険はないと聞いていた。
だが、人の口から聞くと違う。
部屋の奥に、ミラがいた。
椅子に座っているが、座っているというより、崩れないように必死で体を支えているように見える。
視線の先には、寝台の上の小さな体。
チャドだ。
「ミラさん」
俺が声をかけると、ミラははっと顔を上げた。
「あ、アキラさん・・・エマさん・・・」
「チャドは?」
「まだ眠っています。でも、さっき少し動いて・・・もうすぐ目を覚ますかもしれないって・・・」
声が震えている。
希望が怖いのだ。
本当に目を開けるまでは、安心できない。
俺とエマは少し離れて立った。
今、チャドのそばにいるべきなのは母親だ。
しばらくして、チャドのまぶたが小さく動いた。
「チャド・・・?」
ミラの声は、ほとんど息だった。
小さな唇が震える。
「・・・かあ、ちゃん?」
次の瞬間、ミラは崩れるように寝台へ駆け寄った。
「チャド!」
抱きしめる。
壊れ物を抱くように。
それでも、二度と離すまいとするように。
チャドは最初、何が起きたのか分からない顔をしていた。
けれど、母親の匂いに気づいたのか、小さな手がミラの服を掴んだ。
「こわかった・・・」
「うん・・・うん・・・もう大丈夫。もう大丈夫だから・・・」
「くらくて・・・くすりのにおいがして・・・」
「いいの。今は言わなくていいの」
ミラはチャドの頭を抱え、何度も頷く。
俺は一歩下がった。
エマも、何も言わずに隣へ並ぶ。
救えた。
ようやく、その実感が胸の奥に落ちてきた。
数字としての生存確認じゃない。
状態異常の解除でもない。
母親の腕の中で子供が泣いている。
怖かったと言える。
もう大丈夫だと返してもらえる。
それを見て、初めて救えたと思えた。
「・・・よかったわね」
エマが小さく言う。
「ああ」
それ以上の言葉は出なかった。
チャドは、何かを思い出したように俺を見た。
「ひかる・・・とり・・・」
ミラが顔を上げる。
「鳥?」
「ちいさい、ひかる鳥が・・・いた。きらきらして・・・それで・・・」
チャドの目に、また恐怖が戻りかける。
俺は静かに言った。
「今は休め。話は、元気になってからでいい」
チャドはぼんやりと俺を見る。
「・・・せいれいの、おにいちゃん?」
「それは、まだ慣れないな」
ミラが泣きながら笑った。
エマも、ほんの少しだけ口元を緩める。
俺は否定しなかった。
少なくとも、今だけは。
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保護室を出ると、守備隊員が廊下で待っていた。
「捕まえた連中はどうなってる?」
「みな、一様に震えています」
「震えてる?」
「精霊が見ていた、と。壁にも、天井にも、荷箱の隙間にも、大きな目玉がいたそうです。どこまで逃げても見られていたと」
「・・・」
(おい。完全にホラーじゃねぇか)
『抑止力として有効です』
(否定はしないけどさ)
「そのせいか、何人かは自分から名前を出し始めています。まだ裏付けは必要ですが」
「記録を取ってくれ。ただし、子供たちには近づけるな」
「もちろんです」
守備隊員の返事には迷いがなかった。
この街の守備隊全体が腐っているわけではない。
それは分かる。
だからこそ、分けなければならない。
関わった者、自ら進んで行った者。
何も知らずに動いていた者。
全部を同じ色で塗れば、こちらも雑な断罪者になる。
「アキラ」
エマが俺を見る。
「分かってるさ。冷静にやる」
「ならいいわ」
短い返事だった。
でも、その声には信頼があった。
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精霊工房に戻ると、店の前には朝より人が増えていた。
ただ、混乱はしていない。
セレナが客と見物人をきっちり分け、従業員たちも決められた範囲で受け答えしている。
噂に飲まれていない。うまくやっている。
それだけで、ずいぶん頼もしく見えた。
「おかえりなさい」
セレナが帳簿から顔を上げる。
「子供たちは?」
「順に目を覚ましてる。チャドも母親と会えた」
「そうですか」
表情は大きく変わらない。
けれど、ペンを持つ指先から少しだけ力が抜けた。
「よかったです」
「ああ」
その時、店の外がざわりと揺れた。
人混みが割れる。
無理に押しのけたわけではない。
通る者の圧が違う。
扉の前に立ったのは、鉄紺に近い黒青の髪を後ろでまとめた女だった。
動きやすそうな上着とブーツ。
腰には短杖型の護身具。
綺麗ではある。
だが、最初に来る印象は美しさではない。
なんというか、バリバリのキャリアウーマン。
判断も、歩く速度も、たぶん全部速い女だ。
「あら、もう来たのね。東港の姫」
リゼットが楽しそうに言った。
女はリゼットを一瞥する。
「本当は昨日のうちに来たかったんだがな。徹夜して皆寝ている、とのことだったので今日にしたんだよ」
「それは悪いことをしたわね。でも、来てくれてよかったわ」
「来るさ。西の毒花に呼ばれるのは珍しいからな」
「あら、毒花だなんてひどいわね」
「自覚がないなら、もっとひどい」
挨拶は、それで終わった。
仲が悪いのか、これが普通なのかは分からない。
まぁ・・・たぶん、両方だ。
「アキラ」
リゼットがこちらを見る。
「ミリアナ=オルベック。オルベック商会の長女で、第三新港湾の実務を握っている女よ」
「ミリアナ=オルベックだ。よろしく」
ミリアナは無駄のない動きで頭を下げた。
「君が、精霊工房のアキラだな」
「アキラ=ジェイ=ラッシュバックだ」
「噂は聞いている。いや、今は聞かない方が難しいか」
「早いな」
ミリアナの琥珀色の目が、俺を測るように動く。
顔、手、腰の武器。
そして、店内。
従業員の動きに商品棚も。
そして、一瞬だけ、俺の肩のあたり。
(アル、今は出るな)
『了解』
返事は俺の中だけで響いた。
「・・・今、誰かと相談したか?」
「してない」
「そうか」
心が読めるのか?
この人マジで怖い・・・
だが落ち着け、俺はやれる子のはずだ。
横でリゼットが笑う。
「そうそう、アキラ」
「なんだ?」
「あの女の前では、アルとは会話しないことね」
リゼットが耳元で囁く。
「肝に銘じておく」
(アルの方でも気を付けてくれ)
『了解』
リゼットが、にっこり笑った。
「今、また話したか?」
「・・・いや」
『否定は困難です』
(お前は黙ってろ)
「二度目ね」
「楽しそうに言うな」
「楽しいもの」
ミリアナは俺とリゼットを見比べた。
「面白そうな秘密があるのは分かった。でも、今は後回しにしよう」
「助かる」
「助けたつもりはない。優先順位の問題だ」
ミリアナは鞄からノートらしきものを取り出すと、それを開いた。
「確認するぞ。第三新港湾、運河沿い倉庫、水運、荷役所。そのどれかに、子供を運ぶ流れが混じっていた。そういう理解でいいか?」
「そうだ」
「君は、オルベック本家が黒幕だと言いたいのか?」
「いや、俺たちは末端の暴走だと捉えている」
「なら、まだ話はできるな」
声は冷静だった。
だが、奥に冷たい怒りがある。
「ただ、そちらの物流網が使われたのは事実だ」
「ああ。だから来た」
ミリアナの目が冷えた。
「荷を運ぶ商会の名を使って、子供を違法に荷にした。そんなもの、放っておけるわけがない」
店内の空気が変わる。
リゼットの笑みも薄くなった。
「オルベックは港、倉庫、水運を洗う」
ミリアナが言った。
「ヴァルシュは市議会と上流筋を見るわ」
リゼットが続ける。
「精霊工房は?」
二人の視線が、同時に俺へ向いた。
いや、そこでこっちを見るな。
だが、もう今更引ける場所じゃないよな。
覚悟を決めれば、後は自然に声が出た。
「俺たちは隠れている証拠を見つける」
俺は言った。
「逃げる奴も、証拠を消そうとする奴も、全部だ」
リゼットが笑う。
ミリアナの目が細くなる。
街の東と西。
そして、精霊工房。
噂は、ただの噂では終わらない。
銀の鳥が散った夜から、この街の裏側には、もう隠れていられなくなっていた。
俺とアルがそうはさせない。
そう、静かに誓った。




