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第41話 セレナ

 


 夜。


 精霊工房の店舗側の扉を叩く音がした。


 日が落ち、店内の灯りも最低限に落としていた時間だ。今日の面談が終わり、ベルナルドさんが帰り、セレナとドグランも一度それぞれの用事を片づけるために離れていた。


 明日から、いよいよ本格的に店として動く。


 そう思っていた矢先だった。



「こんな時間に?」



 エマが首をかしげる。



「セレナかもしれないな。住み込みの話はしてあるし」



 俺は扉へ向かった。


 開けると、そこにはセレナが立っていた。


 昼間と同じく、白に近い薄灰のブラウスに濃紺のベスト。淡い青灰色の髪は低い位置でまとめられている。派手さはないが、夜の灯りの下でも育ちの良さが分かる。


 そして、片手には鞄が一つ。


 本当に、それだけだった。



「夜分に失礼します。従業員寮へ入らせていただきます」


「え、もう?」


「はい。住み込み可能とのことでしたので」


「いや、それはそうなんだが・・・荷物は?」


「これだけですが、何か?」



 セレナは鞄を軽く持ち上げた。


 大きくはない。


 旅慣れた商人が、書類や着替えを入れて歩くにはちょうどいいくらいの革鞄だ。


 ただ、生活道具一式が入る大きさではない。



「本当にそれだけでいいのか?」


「はい。仕事に必要な道具と、数日分の着替えがあれば十分です。足りないものはこの街で揃えます」


「身軽だな」


「重い荷物は、判断を鈍らせますので」



 さらっと言った。


 言葉だけなら格好つけにも聞こえるが、セレナの場合は妙な実感がある。


 大商会の出身と聞いている。


 だが、目の前の彼女は、屋敷から大量の荷物を運ばせてくる令嬢ではなかった。各地を渡り歩き、必要なものだけを持ち、必要な場所で仕事をすることに慣れている人間だ。


 たぶん、この鞄一つでどこへでも行ける。


 そういう人なのだろう。



「分かった。案内する」


「お願いします」



 俺はエマに視線を向けた。



「俺が説明してくる」


「ええ。変な説明をしないようにね」


「変な説明って何だ」


「あなたの普通は、普通ではないことがあるから」


「・・・否定できないな」



 エマが小さく笑った。


 俺はセレナを連れて、店舗奥の階段を上がった。


 従業員棟の二階には、個室を四つ用意してある。最初から大人数を雇うつもりはなかったが、住み込みで働く人間は出るだろうと考えていた。


 部屋は簡素だ。


 ベッド、机、椅子、収納棚。


 ただし、俺とアルが手を入れているので、見た目ほど普通ではない。寝具は現地のものに寄せてあるが、中身はかなり快適仕様だ。湿気はこもりにくく、虫も入りにくい。



「この部屋を使ってくれ。隣は空き部屋だ。鍵はこれ」


「ありがとうございます」



 セレナは部屋の中へ入り、一通り見回した。


 目線が速い。


 昼間、商品を確認した時と同じだ。


 ベッド、机、窓、収納、床、壁、天井。見る場所に無駄がない。



「住み込みの部屋としては、十分すぎます」


「そうか?」


「はい。一泊で金貨が飛ぶ高級宿並です。これ目当てで従業員希望者が殺到するレベルです」


「いきなり問題点を出すな」


「問題点ではありません。管理項目です」



 なるほど。


 この人、部屋を見ても「快適そう」ではなく「従業員管理上の基準」として見ている。


 やはり、雇って正解だった気がする。



「水場はこっちだ」


「水場?」



 俺は共用スペースへ案内した。


 二階の廊下奥には、洗面台と簡易キッチン、シャワー室、そしてトイレがある。


 従業員が二階で生活するなら、いちいち一階まで降りるのは面倒だ。だから設置した。俺としては、かなり合理的な判断だった。


 だが、セレナは洗面台の前で足を止めた。



「これは?」


「水場だな。こっちをひねると水が出る」


「・・・水が」


「ああ」


「汲みに行くのではなく?」


「ここで出る」


「井戸から?」


「仕組みを簡単に言うと、まあそんな感じだ。実際にはいろいろ通してるけど」


「いろいろ」



 セレナは俺の手元を見ていた。


 俺が蛇口をひねると、水が流れ出す。


 透明な水が、何の抵抗もなく、洗面台へ落ちていく。


 セレナは表情をほとんど変えなかった。


 ただ、瞬きの回数が少し減った。



「それと、煮沸もしてあるからそのまま飲める」



 そう言ってカップに水を入れて飲んでみせる。


 カップを洗ってもう一度水を注ぎ、セレナに渡す。



「飲んでみろ」


「い、いただきます」



 コクン、とセレナの喉が鳴る。



「・・・おいしい」


「水を止める時は戻す」


「・・・はい」


「こっちは湯だ」


「湯」


「熱すぎたら、こっちで水と混ぜて調整する」


「調整」


「冬場は便利だと思うぞ。たぶん」


「たぶん?」


「俺が寒がる前に、エマが先に気に入った」


「・・・なるほど」



 セレナは小さく頷いた。


 納得したのか、納得することを諦めたのかは分からない。


 次に、俺はシャワー室の扉を開けた。



「こっちがシャワーだ」


「シャワー」


「上から湯が出る」


「上から」


「浴びる」


「湯を、浴びる」


「そうだ。体を洗う時に使う。浴槽に湯を溜めるより手軽だし、短時間で済む」


「短時間で、湯浴みができる」


「まあ、そうだな」



 セレナは黙った。


 さっきからずっと丁寧な態度だが、その沈黙だけは少し長い。


 俺は蛇口や温度調整の仕方、排水のことをざっと説明した。構造を詳しく聞かれても困るので、細かいところは「魔道具と工房機構の組み合わせ」と言っておく。


 完全な嘘ではない。


 かなり雑な説明ではあるが。



「それと、こっちがトイレだ」



 俺は最後に、廊下の反対側の扉を開けた。


 セレナの視線が、静かに室内へ向かう。


 そして、初めて表情が止まった。


「・・・室内の」


「ああ」


「それも、二階に、ですか?」


「そうだけど」


「・・・・・・」



 セレナが無言になった。

 水や湯やシャワーより、こっちの方が効いたらしい。


 考えてみれば当然だ。


 この世界のトイレは、基本的に汲み取りだ。室内にあるだけでも贅沢や特殊設備の類だろうし、二階以上に設置するとなれば、臭気、処理、漏れ、構造、あらゆる問題が出る。


 普通に考えれば、ありえない。


 俺はそのあたりを、少し軽く見ていたかもしれない。



「使った後は、ここを押す」


「押す」


「水が流れる」


「・・・流れる」


「臭いも、基本的には残らない」


「・・・・・・」


「構造は企業秘密だ」


「企業」


「いや、店の秘密だ」


「・・・はい」



 セレナは一度だけ、ゆっくりと息を吸った。


 そして、いつもの落ち着いた顔に戻る。


 戻ったように見えた。



「確認ですが」


「うん」


「これは、従業員用の設備なのですね?」


「そうだな」


「客には見せない?」


「今のところは、そのつもりはない」


「絶対に見せないでください」


「そんなにか?」


「そんなにです」



 即答だった。


 俺は思わず頷いた。



「分かった。見せない」


「お願いします。少なくとも、私が販売計画を組むまでは」


「販売計画?」


「今は考えないでください。私も考えたくありません」


「そうか」



 なんだろう。


 セレナの顔が、昼間に商品を見た時より真剣だ。


 というか、少し怖い。



「あと、体を拭く布はここに置いてある。使ったものはこっちの籠へ。あとで洗う」


「分かりました」


「他に分からないことがあったら聞いてくれ」


「ありがとうございます。十分すぎるほど分かりました」


「それならよかった」


「ええ。十分すぎるほど」



 セレナは丁寧に一礼した。


 俺はそのまま階段を下りた。


 途中で、少しだけ気になって振り返る。

 セレナはまだ、二階の廊下に立っていた。

 水場でも、シャワー室でも、トイレでもなく、そのすべてをまとめて見るように、廊下の中央に立っていた。


 顔は落ち着いている。


 だが、何かを必死に計算しているようにも見えた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 セレナは、自室に戻ってからもしばらく鞄を開けなかった。


 部屋は静かだった。


 ベッドがあり、机があり、窓がある。


 住み込み従業員の部屋としては破格だ。いや、破格という言葉では足りない。下手な宿の上等部屋より整っている。


 それだけなら、まだ理解できた。


 金をかけたのだろう。

 アキラという男は、金の使い方がおかしい。


 そう判断すれば済む。


 だが、水は違う。


 湯も違う。


 シャワーという、上から湯を降らせる設備も違う。


 そして、二階にある臭わない便所は、完全に理解の外側だった。



(この人は、何を当然のように説明していたのですか)



 セレナは額に手を当てた。


 冷や汗が浮かんでいる。


 商品棚に並んでいた吸水布、スクリューキャップ瓶、手鏡、アクセサリー。


 どれも異常だった。


 売れる。


 間違いなく売れる。


 だからこそ、販売計画を組まなければならないと考えた。


 しかし、ここへ来て分かった。


 商品棚に並んでいるものは、まだ分かりやすい異常だ。


 客に見せるための異常。


 店として売るための異常。


 だが、この従業員棟の設備は違う。


 これは、売り物にするつもりすらなかった異常だ。


 アキラは、従業員に使わせる設備として、これを用意している。


 その事実が、セレナには恐ろしかった。


 恐ろしいほどに、価値があった。


 セレナは鞄を置き、シャワー室へ向かった。


 使わないという選択肢はなかった。


 説明を受けただけで判断する商人は二流だ。自分で使い、価値を測る。そうでなければ、何を売るべきか、何を隠すべきか、何を武器にすべきか分からない。


 言われた通りに操作する。


 最初に水。


 次に湯。


 温度を調整する。


 頭上から、温かい水が降った。



「っ・・・」



 声が漏れかけ、セレナは口元を押さえた。


 湯浴みは贅沢だ。


 湯を用意するには人手がいる。水を汲み、運び、火を起こし、湯を沸かし、桶や浴槽へ移す。その手間があるからこそ、湯浴みには価値が生まれる。


 それが、ここでは指先一つで降ってくる。


 体を洗うという行為が、生活の一部に落ちている。


 贅沢ではなく、日常になっている。



(駄目です)


(これは、駄目です)


(人に知られてはいけません)



 だが、同時に思う。


 知られれば、求められる。

 求められれば、金になる。


 いや、金どころではない。


 生活そのものが変わる。


 そして、シャワーを終えたあと、セレナは置かれていた白い布を手に取った。


 アキラは、体を拭く布だと言っていた。


 柔らかい。


 まず、そこがおかしい。


 水を吸う布は、もっと粗い。


 実用性を求めれば手触りは落ちる。手触りを求めれば水を吸いにくくなる。どちらも満たす布など、少なくともセレナは知らない。


 濡れた髪に当てる。

 水が吸われた。


 肌に当てる。

 痛くない。


 強く擦らずとも、水分が取れていく。

 水を含んで重くなっているはずなのに、肌触りの不快感が少ない。



(何ですか、これは)



 吸水布は便利な商品だ。


 売れる。


 庶民にも、業者にも、使い道はいくらでもある。


 だが、この布は違う。


 便利では済まない。


 一度使った人間は、元の布に戻るたび、不満を覚える。

 元の生活が、少しだけ粗く見える。


 それは、商売としては極めて危険で、極めて強い。


 人を戻れなくする商品。


 セレナは、そう判断した。


 部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。


 寝具も、やはりおかしかった。

 沈みすぎない。

 硬すぎない。

 体に余計な力が入らない。


 長く旅をしてきた者ほど、この異常性は分かる。


 セレナは天井を見上げた。


 商品が異常なのではない。

 この場所そのものが異常だ。


 アキラはおそらく、まだ自覚していない。


 吸水布も、瓶も、鏡も、アクセサリーも、生活を変える断片にすぎない。


 水が出る。

 湯が出る。

 臭わない。

 清潔に眠れる。

 肌触りの良い布で体を拭ける。


 そのすべてが揃った時、人は元の生活へ戻れなくなる。



(やり方を間違えなければ)



 セレナは目を閉じた。



(いずれ、プシュケーを越えられる)



 その確信は、夜の静けさの中で、ひどく鮮明だった。




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