第35話 深緑の瞳
翌朝。
商業ギルドから割り当てられた露店区画の端で、俺たちは簡易の木台を広げていた。
布を敷き、その上へ商品を並べる。
スクリューキャップできっちり閉まる瓶、ふわふわの吸水布、鮮明に映る手鏡、精密な銀鎖のペンダントと、小さな装飾品。
見栄えは悪くない。いずれも、この街では見かけなかったものだ。
むしろ、こうして並べると妙に洗練されて見える。
価格は、かなり悩んだ。
ふわふわの吸水布は大銅貨三枚。
スクリューキャップ瓶は小さいものが大銅貨二枚。少し大きいものは大銅貨三枚。
手鏡は銀貨一枚。
精密な銀鎖は銀貨一枚から。
魔石を使った装飾品は銀貨二枚。
日本円で換算すると、大銅貨が一枚千五百円、銀貨が一枚一万五千円。
そう考えるとかなり強気な価格設定だ。
ただ、この世界には存在しない商品だ。
俺としては、かなり強気でも売れると思っていた。
だが――。
「・・・」
「・・・」
俺とエマは並んで立った。
通行人がちらりとこちらを見る。
そして、通り過ぎる。
別の客が見る。
通り過ぎる。
さらに見る。
通り過ぎる。
三十分経過。
一時間経過。
誰も買わない。
笑えるくらい買わない。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
先に口を開いたのは俺だった。
「売れねぇな・・・」
「売れないわね。一つも」
エマも容赦がない。
いや、事実だけど。
通行人は興味がないわけじゃない。視線は向ける。
ただ、足を止めない。
何に使うのか分からない。
値段が妥当か分からない。
見慣れなくて怪しい。
要するに、価値が伝わっていないのだろう。
エマが腕を組む。
「並べているだけでは駄目ね」
「だな・・・」
『提案。実演販売を推奨します』
脳内にアルの声が響く。
同時に、エマもわずかに耳元へ意識を向けた。共有通信がきちんと機能しているらしい。
「実演・・・たしかに、その方が早そうね」
よし、やるか。
俺は台の前へ水差しと二枚の布を置いた。
近くを通る主婦らしき女性二人組へ、少し大きめに声をかける。
「奥さん、少し見ていきませんか。面白い布があります」
女性たちは警戒しつつも足を止めた。
「布?」
「ただの端切れじゃない」
「まあ見てください」
俺は石畳へ少し水をこぼす。
まず普通の端切れで拭く。
じわっと広がって、水が薄く残る。
「いつもの感じですよね」
「ええ」
「続いてこちらをご覧ください」
次にふわふわ布を置く。
じゅっ、と吸うように水が消えた。
二人が同時に目を見開く。
「えっ」
「なにこれ」
さらに布を絞り、もう一度水を吸わせる。
また一瞬。
「吸う・・・!」
「すごいじゃないの!」
通行人が数人、こちらを見る。
よし、止まった。
「手触りもどうぞ」
女性の一人が恐る恐る触り、すぐに顔を上げた。
「柔らかっ」
「端もほつれてない・・・」
食いついた。
『実演効果、良好』
アルの声に、俺は内心で頷く。
次だ。
俺は瓶を持ち上げた。
「こちらは保存用の瓶です」
「瓶なんてどこにでも――」
言いかけた女性の前で、水を入れて蓋を閉める。
くるり。
逆さにした。
一滴も落ちない。
「・・・・・・え?」
女性たちが固まる。
今度は周囲の男まで足を止めた。
「漏れてないぞ」
「どうなってる?」
「蓋をこう回すだけで、ぴったり閉まります」
開けて見せ、閉めて見せ、また逆さ。
ざわ、と小さな人だかりができる。
主婦の一人が身を乗り出した。
「香辛料入れに良さそう・・・」
「乾物も湿気なさそうね」
もう勝ちだ。
価値が伝われば、人は食いつく。
最初に売れたのは、ふわふわの吸水布だった。
「一枚ちょうだい」
「ありがとうございます。大銅貨三枚です」
「少し高いけど・・・この吸い方なら欲しいわ」
続いて瓶。
「小さいのを二つ」
「私は大きい方を一つ」
少しずつ、人の流れが変わっていく。
さっきまで誰も寄らなかった露店の前に、足を止める者が増え始めた。
エマも流れを掴んだらしい。
手鏡を一つ持ち、近くにいた若い女性へ差し出す。
「こちらも見てください」
「鏡・・・?」
女性が何気なく覗き込み、息を呑んだ。
「うそ、すごく見える」
「でしょう?」
エマが少し誇らしげだ。
その女性が友人を呼び、また別の女性が覗く。
「なにこれ、顔がはっきり映るわ!」
「普通の鏡と全然違う!」
銀鎖や小さな飾りにも視線が集まり始める。
ただし、手鏡と装飾品は簡単には売れない。
手に取る客は多い。
欲しそうに見つめる客も多い。
だが、値段を見て迷う。
怪しい露店でポンっと出せる金額ではないのだ。
俺としては、十分高級品のつもりで価格設定をしたのだから。
その時、背後から聞き慣れた穏やかな声がした。
「ほう・・・これは少々、予想以上ですね」
振り返る。
ベルナルドが、腕を組んで商品を眺めていた。
「見に来てくれたんですか」
「登録したばかりの露店が気になりましてね。・・・なるほど、これは面白い」
ベルナルドは瓶を手に取り、蓋を回し、鏡を覗き、布を撫でる。
そして銀鎖を指でつまんだ瞬間、目が細くなった。
「・・・均一」
「はい?」
「この輪、この細さで一つ一つの大きさが揃いすぎている」
さすが見るところが違う。
ベルナルドは小さく息を吐いた。
「アキラさん、少々よろしいですか」
「はい」
露店の横へ少し移動する。
ベルナルドは周囲の客に聞こえない程度の声で言った。
「実用品の価格はよろしいでしょう。布と瓶は、庶民にも手が届く範囲で、便利さも伝わりやすい。口コミを広げる商品としては悪くありません」
「ということは、他が?」
「鏡と装飾品です」
ベルナルドは、手鏡と銀鎖へ視線を向けた。
「安すぎます」
「・・・安いですか? 結構強気にしたつもりなんですが」
「それは庶民の物差しです」
言い方は穏やかだが、内容はかなりはっきりしていた。
「この鏡は、外国の貴族や大商家の夫人に見せれば、銀貨一枚どころでは済みません。装飾品も同じです。これほど細く均一な鎖、これほど滑らかな留め具、これほど細かな透かし細工。普通の露店で並べる品ではありません」
エマが目を丸くする。
俺も少し固まった。
「そんなにですか」
「はい。数倍。物によっては数十倍でも買い手がつくでしょう」
「数十倍・・・」
『価格設定の再評価を推奨』
(うん、そうだな)
「ちなみに私なら貴族相手に百倍でも売る自信はあります。私でこれです。生粋の商人ならもっと行くでしょう」
ベルナルドは続ける。
「安く売ればどうなるか。価値を理解した商人が買い占め、他国の貴族や富裕層へ転売します。莫大な利益を得るのは転売した者で、作ったあなたではありません」
ああ。
それは確かにまずい。
俺はただ、この世界にない物を売ろうとしていた。
でも、商品によっては庶民向けではなく、最初から高級市場向けにすべきものがある。
商売って難しいな。
「では、鏡と装飾品は値上げした方がいいですか?」
「本格的に売るなら、そうです。ただし今日は初日です。反応を見るという意味では、このままでも構いません。ですが、数は出しすぎない方がよろしい」
「分かりました」
「特に、同じ質のものを大量に露店へ並べるのは避けるべきです。珍品は珍品であることにも価値があります」
ベルナルドは穏やかに微笑む。
「私は商売の才はありませんが、人を見る目だけは多少あるつもりです。アキラさん、あなたは物作りの才がある。ですが、値付けはまだ商人の目ではない」
「・・・勉強になります」
「ええ。学べばよろしいのです」
嫌味がない。
だから素直に聞ける。
ベルナルドは露店へ戻りながら、最後に小さく付け加えた。
「それと、今日は高価な品に手を出せず、迷っている客をよく観察なさい。買う者だけでなく、買えなかった者を見るのも商売です」
買えなかった者を見る。
その言葉は、妙に印象に残った。
露店に戻ると、エマが小声で尋ねる。
「どうするの?」
「鏡と高いアクセサリーは、今日は数を絞る。反応を見るだけにしよう」
「分かったわ」
それでも客足は途切れない。
ふわふわ吸水布が一枚、二枚と売れ。
瓶も「これ三つ」「私は五つ」とまとめ買いが出る。
手鏡は展示品扱いに近くなったが、覗き込む女性客は途切れない。
そして銀鎖や小さな装飾品の前には、何人もの若い女性が立ち止まった。
その中に、一人。
銀のネックレスをじっと見つめる少女がいた。
十五歳くらいだろうか。
栗色の髪を肩で揃えた、品のいい服装の娘だ。
だが手は出さない。
ただ、何度も何度もネックレスと値札を見比べている。
エマが気づいて声をかけた。
「気になりますか?」
少女はびくっとして顔を上げた。
「あっ・・・い、いえ、その・・・」
明らかに欲しい顔だ。
俺とエマが見守る中、少女は少しもじもじしてから、小さく言った。
「・・・これ、取り置きってできますか?」
少女の視線の先にあるのは、雫型の小さな魔石をあしらった銀のネックレスだった。
深い青を帯びた透明石に、細い銀線が流れるように絡んでいる。
派手ではない。
だが、繊細で目を引く一本だ。
エマが柔らかく微笑む。
「ええ、今日の閉店までは取っておきますよ」
「ほ、本当ですか!?」
「はい」
少女はぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 私カミユって言います! すぐ戻ります!」
ぺこりと頭を下げ、そのまま人混みの向こうへ走っていく。
元気だな。
エマがくすっと笑った。
「よほど欲しかったのね」
「銀貨二枚は、あの歳の持ち金じゃ厳しいだろうしな」
おそらく親に頼みに帰ったのだろう。
戻ってくるかは分からない。
だが、あの顔を見る限り本気だった。
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その後も露店は盛況だった。
布と瓶は想像以上の勢いで減っていく。
特に瓶はまとめ買いが多い。
「香草入れにちょうどいいわ」
「薬瓶にも欲しい」
「うちの店でも使えそうだ」
用途が広い分、反応もいい。
ふわふわ吸水布も触ればほぼ売れる。
逆に鏡と高級アクセサリーは、客の視線を集めるだけ集めて、慎重に悩ませる商品になっていた。
ベルナルドの言う通りだ。
これは庶民が気軽に買うものじゃない。
価値が分かるほど、簡単には手を出せない。
だからこそ、じっと見つめる客の顔が印象に残る。
買えないけれど欲しい。
その感情が、視線に出ていた。
気づけば日が傾き始めていた。
露店の周囲も少しずつ人が減る。
「そろそろ片付けるか」
「そうね」
エマが布を畳み始める。
その時だった。
「ま、待ってください!」
聞き覚えのある声が飛び込んできた。
振り向くと、昼間の少女が、息を切らしてこちらへ走ってきていた。
肩で息をしながら、胸元を押さえている。
かなり急いだらしい。
「・・・はぁ、はぁ・・・ま、間に合った・・・」
エマが思わず笑う。
「お帰りなさい」
少女――カミユは、少し恥ずかしそうにしながら銀貨を二枚差し出した。
「お父様に頼んで・・・前借りしてきました。これ、ください」
その目は真剣だった。
迷いはない。
俺はネックレスを手に取り、エマへ渡す。
「頼む」
「ええ」
エマはカミユの背後へ回った。
「せっかくだから、お付けしましょうか」
「え・・・い、いいんですか?」
「もちろん」
カミユの髪をそっと避け、細い首へ銀鎖を回す。
留め具が小さく鳴った。
「はい。できました」
エマが手鏡を差し出す。
カミユは恐る恐る覗き込み――そのまま目を丸くした。
「わぁ・・・」
鏡の中で、雫型の魔石が胸元に揺れている。
銀線が夕日を浴びできらりと輝いた。
少女はネックレスと自分の顔を何度も見比べ、やがて頬を紅潮させた。
「・・・大人になったみたい」
ぽつりと漏れたその言葉に、エマが少しだけ目を細める。
「ええ。とても似合っていますよ」
「ほ、本当ですか?」
「本当です」
カミユは満面の笑みになった。
その顔は、昼間とは別人みたいに明るい。
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げる。
そしてネックレスを大事そうに胸へ押さえ、そのまま何度も振り返りながら帰っていった。
嬉しさが隠しきれていない。
見ているこっちまで少し温かい気持ちになる。
「・・・いい顔してたな」
「ええ」
エマは小さく頷いた。
だが、その視線は去っていくカミユの背中をまだ追っている。
どこか、少しだけ羨ましそうに。
俺はその横顔を見て、なんとなく察した。
無意識なんだろう。
ああいう時間が、少し羨ましかったのかもしれない。
「エマ」
「・・・なに?」
俺は荷箱の奥から、小さな包みを取り出した。
「ほれ」
差し出す。
エマが首を傾げた。
「何これ」
「初日、うまくいった記念」
「え?」
「というか・・・お前にも似合うと思って、作っといた」
包みを開いたエマが、息を止める。
中に入っていたのは、細い銀鎖のネックレス。
胸元に下がるのは、透明度の高い深緑の小粒魔石。
そこへ、ごく細い金線が二筋、石を抱くように絡んでいる。
夕陽を受けて、静かに光った。
「・・・綺麗」
エマの声がかすれる。
指先でそっと持ち上げ、石を見つめる。
「この色・・・」
俺は少し視線を逸らした。
「お前の目、こんな色してるだろ」
エマがぴたりと止まる。
「・・・え?」
「綺麗だったからさ。ついでに、ちょっと金を入れてみた」
勅光──魔法を使う時に滲む、あの金色。
そこまでは言わなかったが、たぶん伝わった。
エマはしばらく無言だった。
ただ、ネックレスを見つめている。
そしてぽつりと呟く。
「・・・そういうこと、さらっと言うのずるいわ」
「何が」
「何でもない」
でも耳が赤い。
分かりやすすぎる。
俺も少し照れくさい。
その沈黙を破るように、エマがそっとネックレスを差し出してきた。
「・・・せっかくだから」
「ん?」
「つけてくれる?」
不意打ちだった。
「・・・俺が?」
「あなた以外に誰がいるのよ」
いや、そりゃそうなんだが。
エマは少し身体を寄せ、背を向ける。
淡く輝く銀色の髪が肩から流れ落ち、白い首筋が露わになった。
距離が近い。
思った以上に近い。
俺は一瞬、息をのみ固まる。
『心拍数上昇を確認』
(黙ってろ)
脳内で即座に返しながら、震えそうになる手をなんとか抑えた。
ネックレスの留め具を摘まむ。
細い銀鎖が指先で揺れる。
エマの髪をそっと片側へ避けると、ふわりと甘い香りが鼻先をかすめた。
花みたいな、でも甘すぎない、清潔な匂い。
まずい。
変に意識するな俺。
「早くしないと、お客さん来ちゃうわよー」
「もう閉店してるだろ」
「そう。それじゃもっとゆっくりでいいわね」
「おい」
くすっと笑ってやがる。
絶対分かって言ってるなこいつ。
細い首筋の後ろで留め具を合わせる。
指が触れそうで触れない。
いや、ちょっと触れた。
そのたびに心臓が一回ずつ変な跳ね方をする。
『手元の震えを検知』
(黙れって言ってるだろ)
ようやく留め具がはまり、銀鎖がエマの首元へ落ち着いた。
「・・・できた」
エマがゆっくり振り返る。
胸元で、深緑の小粒魔石が夕陽を受けて揺れた。
金の細工がほんのわずかに光る。
思っていた以上に、似合っていた。
いや、似合いすぎていた。
一瞬、言葉が出ない。
エマが少し不安そうに首を傾げる。
「・・・どう?」
聞かれて、ようやく喉が動く。
「キレイだ・・・すげー似合ってる」
本音だった。
飾りが綺麗なんじゃない。
それをつけているエマが綺麗で、思わず視線を外せない。
エマは数秒、じっと俺の顔を見ていたが――ふっと笑った。
「そう」
その一言だけ。
でも、嬉しそうなのはすぐ分かった。
指先でネックレスをそっと撫でる。
「大事にするわ」
「そこまで高いもんじゃないけどな」
「値段の話じゃないの」
そう言って、エマは一歩だけ近づいた。
距離がまた詰まる。
俺が反応に困っていると、エマはいたずらっぽく目を細めた。
「初日の商売、大成功ね」
「ああ・・・まあな」
「それに」
エマは胸元の石を指でつまみ、軽く持ち上げる。
「・・・いい記念もできた」
夕陽が石畳を赤く染めていく。
片付けの終わった露店の前で、俺たちはしばらく並んで立っていた。
今日一日の売上は予想以上。
商売としても、十分すぎる手応えがあった。
けれど。
たぶんそれ以上に、胸の中へ妙に残っているものがある。
それが何なのか、今はまだ上手く言葉にできない。
ただ一つ言えるのは――
この異世界での生活が、少しずつ形になり始めているということだ。
冒険者として。
商人として。
そして――
エマと共に。
悪くない。
いや、かなり悪くない一日だった。




