第28話 転換点
冬は、空気そのものが刃のようだ。
朝の外気は凍りつくように冷たく、息を吐けば白く濁る。耳の奥がきしむような静けさが、街全体を覆っていた。
だが、その寒さが不快として身体に残ることはなかった。
むしろ――心地いい。
肺に入る空気は澄み、頭の中まで研ぎ澄まされるような感覚がある。
扉を開けると、冷気が室内に流れ込む。それを遮るように、背後から暖気がゆっくりと押し出してきた。
『現在の外気温、マイナス六℃』
「・・・やっぱ外は寒いな」
振り返ると、エマが軽く肩をすくめる。
「中が快適すぎるのよ」
その言い方に、わずかに苦笑が混じる。室内は昨晩の余熱がまだ残っている。風呂、寝具、そして断熱。すべてが整えられた環境は、もはや外とは別世界と言っていい。その差を、こうして一歩外に出るたびに実感させられる。
「まあ、それはそうだな」
俺は外套の襟を立てながら、街路へ視線を向けた。早朝にもかかわらず、通りにはちらほら人の姿がある。商人、冒険者、職人。冬でも生活は止まらない。
ただ、その動きはどこか鈍い。寒さに引きずられている。
(前なら、俺もあんな感じだったな)
身体が重い。頭が回らない。反応が遅れる。それが普通だった。だが今は違う。足取りは軽く、視界も広い。周囲の動きが自然に入ってくる。
隣を歩くエマも同じだった。外套の下、動きに一切の無駄がない。歩幅も安定しているし、呼吸も乱れていない。
「・・・慣れたわね」
ぽつりとエマが言う。
「何に?」
「この生活に」
少しだけ、間を置く。
「最初は、落ち着かなかったのよ」
意外な言葉だった。
「そうか?」
「ええ。あまりに快適ぎて・・・逆に、気が抜けるというか」
視線は前に向けたまま、続ける。
「でも、今は違う」
「どう違う?」
「これがいい、って思えるようになった。感謝してるのよ?」
その言葉は、どこか静かで、しかしはっきりしていた。納得する。俺も、同じ感覚だった。快適さに慣れるというのは、堕落ではない。むしろ、余計な負担を削ぎ落として、本来の状態に近づくことだ。
「・・・その分、動きやすいしな」
「ええ。無駄に消耗しない」
そこで、エマがわずかに口元を緩める。
「結果として、効率もいい」
「実感あるな」
この数週間、討伐、護衛、納品――
様々な依頼をこなしてきた。
そのどれもが、以前より楽だった。無理をしている感覚がない。
それでいて、結果は出る。
むしろ、安定している。
ギルドでの評価も、少しずつ変わり始めているのを感じていた。
「・・・だから」
エマが続ける。
「そろそろ、いい頃合いじゃないかしら」
「何が?」
分かっているくせに、あえて聞く。エマも同じように、わずかに間を置いた。
「ダンジョンよ」
その言葉に、自然と視線が合う。
冷たい空気の中で、その一言だけが、妙に温度を持っていた。
「・・・だな」
短く答える。
準備はできている。
装備も、連携も、生活も。
足りないものは、もうない。
「場所は?」
「決まってるわ」
エマは迷わず言う。
「エメルネスト廃坑」
あの場所だ。
最初に関わったダンジョン。
構造もある程度は分かっている。
「ちょうどいいな」
「ええ。無理もないし、確認にもなる」
確認。つまり――
「今の自分たちが、どこまで通用するか」
エマの言葉に、俺は小さく頷いた。
街の外へ向かう道を進む。冬の空は高く、雲は薄い。冷たい風が頬を打つ。だが、不快ではない。むしろ、意識がはっきりする。
(・・・いい状態だ)
これなら、どこまででも行ける。そんな感覚があった。そして――その感覚が、どこまで正しいのかを確かめる場所が、今から向かう先にある。
エメルネスト廃坑の入口は、以前よりもさらに静まり返っていた。採掘に使われていたはずの木箱や道具が、そのまま放置されている。人の気配が薄い。空気は冷たいが、外とは違う重さがあった。湿っていて、そして、わずかに――魔力の流れを感じる。
「・・・来てるわね」
「ああ」
足を踏み入れる。靴底が砂利を踏む音が、やけに大きく響いた。光は、まだ届いている。入口に近い浅層は、完全な闇ではない。だが――奥へ行くほど、それは消えていく。
「まずは様子見だな」
「ええ」
無理はしない。だが、警戒も過剰にはしない。今の自分たちが、どれくらいの位置にいるのか。それを測るには、ちょうどいい場所だ。
そろそろ光も届かなくなってきたのを見計らって、小さく呟く。
「【トーチファイア】」
基本的な火属性魔法。熱量より光量を重視していて、薄暗いダンジョンの中では必須級の魔法だ。俺が最初に発動させた魔法でもある。
ふと隣を見ると、エマが驚愕の表情でこちらを見ていた。
「あ、あなた、魔法使えたの!? 私てっきり・・・」
「まぁ、いくつかは。まだ練習中だがな」
「思い出したわ。そういえば、初めて会った時も治癒魔法も使っていたわね」
「ま、まぁな」
あれは違うのだが、あえて訂正はすまい。
そのとき。
頭上で空気が揺れた。
「来るぞ」
「分かってる」
ケイブバットの群れだ。
暗がりの中から一斉に飛び出してくる。
数が多い。
素早い。
まとわりつくように襲ってくる。
だが――見えている。
軌道が、分かる。
「右、二段」
「もう捉えてるわ」
エマが軽く手を上げる。
風が流れる。
ほんのわずかな気流の変化。
それだけで、バットの群れの軌道が乱れる。
まとまりが崩れた。
その瞬間を逃さない。
間合いを詰める。
剣を振る。
数が一気に減る。
「残り、まとめるわよ」
「任せる」
風が収束する。
押し潰すように、群れを一箇所へ寄せる。
そこへ一閃。
瞬間的な連撃。
音が後から追いつく。
それで終わりだった。
「・・・弱いわね」
「だな」
以前なら、もう少し手間取っていたはずだ。
数に押され、動きを制限されていた。
だが今は違う。
余裕がある。
状況を見て、崩して、処理する。それだけだ。
(・・・楽だな)
次に現れたのは、ケイブゴブリンだった。
岩陰から、じわりと出てくる。目
はほとんど機能していない。
だが――
「こちらを感知してるわ」
「音と魔力だな」
こちらの位置は、すでに割れている。
だが、それでも問題はない。
「先に動くぞ」
「ええ」
音を消すように動く。
エマが魔力の流れを乱し、探知をずらす。
そのまま一気に詰める。
反応が遅れる。
ゴブリンがこちらを向く前に、数を減らす。
「連携が甘いわね」
「遅いな」
あとは処理。
囲ませない。
逃がさない。
全て倒しきるのに数分もかからなかった。
「・・・拍子抜けね」
「まあ、浅層だしな」
だが、それだけではない。
明らかに違う。
「・・・順調すぎるな」
「ええ」
エマも同じことを感じている。
動きの無駄、判断のが早さ、連携。
以前の自分たちとは、明らかに違う。
「・・・これが、整ってる状態ってことか」
「そうね。無理してないのに、ちゃんと結果が出る」
言いながら、エマは少しだけ考えるような顔をした。
「・・・こういうの、嫌いじゃないわ」
「だろ?」
軽く笑う。
そのまま、奥へ進む。
足音が少しずつ変わる。
硬い岩の感触。
湿り気が増す。
空気の流れも変わってきた。
そして――違和感が、じわりと広がる。
地面にやたらと傷がある。
壁に、削れた跡がある。
戦闘の痕跡。
それも、一つや二つじゃない。
あまりにも数が多い。
「・・・これ」
エマが足を止める。
「・・・ああ」
俺も同時に気づく。
多すぎる。
浅層のはずだ。
だが、これは――
「・・・明らかにおかしいわよ」
その言葉が、静かに落ちた。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
──中層
違和感は、進むほどにはっきりしていった。
足元に転がる破片。
砕けた岩。
削られた壁。
戦闘の痕跡だ。
それも――
一度や二度じゃない。
そこら中にある。
「・・・これ、最近のものよ」
エマがしゃがみ込み、破片を指先でなぞる。
「乾いてない」
「ああ」
中層でも浅層に近いところで、これだけの戦闘が起きること自体がまずおかしい。
さらに奥へ進む。
空気が重くなる。
そして――
現れた。
ストーンビーストだ。
「・・・ここで出るか?」
「普通はもう少し下よ」
しかも一体ではない。
間を置かず、もう一体。
さらに奥で、別の気配。
「数が・・・」
「多いな」
だが、ここまではまだ対処可能だ。
確実に倒していく。
余裕はある。
だが――
問題は、その先だった。
通路を曲がった瞬間。重い音が響く。金属同士が擦れるような音。
「・・・まさか」
姿を現したのは、アイアンゴーレム。
それも、一体ではない。
「・・・おいおい」
「ありえないわ」
この階層で複数のBランクモンスター。
完全に異常だ。
処理する。
だが、相手が三体もいると戦闘のテンポが変わる。
敵の連携が良いわけではないが、攻撃が次々に来る。
密度が高い。
消耗はしていないが、違和感が積み重なる。
なんとか、三体のアイアンゴーレムを撃破したところで一息つく。
「素材、持って帰れないよな・・・」
「いくら何でも無理ね。それにしても、これはちょっと異常よ」
「一度引き返そう。ギルドに報告しないと不味い」
下から来ている。
湧きが崩れている。
異常湧き。
その確信が、次の瞬間に裏付けられた。
「・・・アキラ!」
「わかってる」
視界の奥。
暗がりの中で、光が反射する。
銀。
「・・・嘘でしょ」
エマの声が、わずかに震える。
出てきたそれは、明らかに別格だった。
『資料の情報から照合・・・合致。推定、ミスリルゴーレム。Aランク盗伐対象』
本来、この深度にいるはずがない存在。
それが――目の前にいる。
「やるぞ」
「ええ!」
間合いを取る。
だが、動き出した瞬間に分かる。
速い。
アイアンゴーレムとは別物だ。
関節の動きが滑らかすぎる。
重量があるのに、まるで慣性を無視しているように方向が変わる。
「来る!」
振り下ろしをバックステップで回避。
だが、追従が速い。
距離を詰められる。
「っ・・・! 【ライトニングボルト】!!」
エマが雷を放つ。
直撃。
だが――
「効きが浅い!」
弾かれるように魔力が散る。
「耐性があるぞ!」
「分かってる!」
高い耐性だけではない。
動きが速い。
精度が高い。
そして――硬い。
このままでは押し切れない。
(何か変える必要がある)
視線を落とす。
足元。
油。
砂。
閃く。
「動きを鈍らせる!」
油と砂を混ぜる。
それを、関節へ執拗に叩き込む。
何度も、何度も。
やがて、ゴーレムの動きが――わずかに鈍る。
「今よ!」
エマが即座に反応する。
「【チェインライトニング】!」
雷の連撃。
それが関節に集中する。
ミスリルゴーレムを連続で削っていく。
だが――
止まらない。
「まだ動く・・・!」
削れているが、致命打にならない。
攻撃を捌きながら、頭の中で計算する。
このペースでは消耗が先に来る。
エマの魔力も、長くは持たない。
(・・・限界か)
認めるのは、癪だった。
だが、事実だ。
(フルアシスト───頼む)
『了解。補助モード解除。完全自動戦闘モード、起動します』
次の瞬間――世界が、変わった。
ゴーレムの腕が振られる。
その軌道が、止まる。
軌道の予測がホログラムで表示される。
空気の流れ。
床の振動。
エマの呼吸のタイミング。
全部が、静止画のように切り分けられて入ってくる。
『ナノマシン散布。スキャン開始。・・・弱点部位を特定しました』
思考が加速する。
体が軽い。
正確には、重いはずなのに重さを感じない。
強化筋肉の出力が上がっている。
踏み込みの角度を、コンマ数度単位で修正できる。
ゴーレムの次の一手が見える。
右腕。
フェイント。
本命は左からの薙ぎ払い。
一歩、内側に入る。
「っ――」
エマが息を呑む声が聞こえた。
アキラの目の淡い光が、はっきりと青く輝き始める。剣の軌道に、ナノマシンの残滓がホログラムのように蒼い軌跡を残す。
関節の隙間に刃を滑り込ませる。
油と砂で鈍った部位を、正確に抉る。
金属が軋む。
深く入った。
剣から手を放し、飛びのく。
「エマ、ここだ!」
「分かってる」
エマが雷を集中させる。
同じ箇所へ、連続で叩き込む。
剣から電撃が内部に伝わり、ゴーレムの回路を焼く。
丈夫だったゴーレムの腕がついに限界を超えた。
だが、止まらない。
片腕が機能を失っても、もう片方が動く。
そして――
回避したエマの足元がずれる。
わずかな体勢の崩れ。
そこを、見逃さない。
腕が振られる。回避が間に合わない。
「っ――!」
直撃ではない。
だが、弾かれる。
エマの体が横に飛ぶ。
「がはッ」
「エマ!」
「大、丈夫・・・!」
声はある。
だが、体勢を崩されて立てない。
その瞬間。
ゴーレムの右腕が変形し、ゆっくりとエマに向けられる。
狙いを定めるように。
高密度の魔素が、収束し始める。
(やばい)
理解した瞬間、もう動いていた。
判断ではない。
反射でもない。
もっと単純な――「撃たなきゃ助けられない」という確信。
腰部。
展開。
エネルギーガン。
一瞬の光。
轟音はない。
ただ、貫いた。
ミスリルゴーレムの胸部を。
内部が崩壊する。
動きが止まる。
崩れ落ちる。
静寂が戻った。
数秒。
誰も動かない。
「ねぇ、アキラ・・・今のは何?」
エマの視線が刺さる。これはごまかせないかもな。
「気にするな」
「そういわれて流せるようなものじゃないけど!?」
当然だ。
深く息を吐く。
ここで隠し続けるのは無理だ。
しかし、すべてをそのまま話すわけにもいかない。
うーん、どうするべきか・・・
「・・・精霊って知ってるか?」
「・・・おとぎ話の?」
「聞いたことはあるんだな。俺には、ちょっと特殊なのがついてる」
エマがじっと見る。
信じているというより、他に説明がつかない顔だ。
「・・・それが、今のを?」
「ああ。俺自身の力じゃない。精霊の加護を借りてる」
完全な嘘ではない。
説明としては不十分だが、今はこれで十分だ。
エマはしばらく沈黙していた。
追及するかと思ったが――
「・・・あなたが一人で百面相してたのも、それ?」
「まあ、そうだ」
「・・・色々、納得はいったわ。納得したくないけど」
とは言うものの、まだ眉間にしわが寄ったままだ。
「で、名前は何て言うの?」
「え?」
思考が止まる。名前? 考えたことがない。だが――
「・・・アル」
口に出した瞬間、淡い光が浮かぶ。
小さな存在。
精霊の形。
ナノマシンの投影。
(ナイスサポートだ)
『いえ、こちらこそ素敵な名前をありがとうございます』
ふとエマを見ると、目を見開いていた。
「か、かわいい・・・」
エマの目が、わずかにキラリと輝く。
手を伸ばすが、触れることはできない。
「実体はないんだ」
「・・・そう」
少しだけ、残念そうに笑う。
それから、ふと真顔に戻った。
「・・・ねえ」
「何だ」
「これ、他に知ってる人は?」
「いない。エマだけだ」
しばらく、黙っていた。
「・・・そう」
視線を逸らす。
だが、口元が少しだけ緩む。
「・・・できれば、内緒にしてくれると助かる」
「そう言うと思った」
エマが小さく息を吐く。
「・・・それじゃ、二人だけの秘密、ね」
からかうような、だがそれだけではない言い方だった。
決意と、少しの照れが混ざったような。
「・・・頼む」
「任せなさい。絶対に言わないわ」
それ以上は言わなかった。
だが――分かった。
俺が隠していたように、エマにも隠していることがある。
そういうことだ。
お互い様、ということかもしれない。
「私も・・・そのうち、話すから」
「ん?」
「何でもない」
視線を逸らす。
それ以上は言わない。
それ以上は聞かなかった。
ミスリルゴーレムの残骸は、沈黙したままそこにあった。
銀色の外殻は、崩れ落ちてもなお鈍く光を返している。
「・・・これ、本当にこの階層のものじゃないわよね」
「ああ。下層から上がってきてる」
異常湧き。その確信が、はっきりと形になっていた。
「・・・長居はしない方がいいわ」
「同感だ」
これ以上奥へ進む理由はない。むしろ――
(ここから先は、俺たちの領分じゃない)
そう判断するのが正しい。
「回収だけして戻るぞ」
「ええ」
討伐証明は胸部から取り出したゴーレムコア。
それを確保し、残骸へ視線を向ける。
ミスリル。
希少金属。
このまま放置するには、あまりにも価値がある。
「・・・全部は無理ね」
「だな。他の素材は全部捨てて、こいつをできるだけ持っていこう」
「賛成。価値が数段上だもの」
だが、持ち運べる量には限界がある。
使えそうな部位を選別する。
関節部。
外殻。
内部構造材。
優先順位をつけて積み込んでいく。
それでも――
「載せきれないな」
「贅沢な悩みね」
エマが苦笑する。
確かにそうだ。
拾いきれないほどの価値が、目の前にある。
(・・・やっぱり欲しいな)
頭に浮かぶ。
マジックバッグ。
運搬の制約を突破する手段。
だが、すぐに現実が追いつく。
ミスリル貨二枚。
日本円にして一億二千万円。
(・・・遠いな)
台車を押しながら、小さく息を吐く。
「戻るか」
「ええ」
その場を離れる。
背後に残る銀の残骸。
それが、ただの戦利品ではないことは分かっていた。
これは――"兆候"だ。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
ギルドの空気は、報告を終えた瞬間に変わった。
「・・・中層でミスリルゴーレム、だと?」
ギルドマスターの声が低く落ちる。
ざわめきが広がる。
「中層で?」
「ありえねぇだろ・・・」
「下から上がってきてるってことか・・・?」
受付嬢が慌てて記録を取り、奥へと人が走る。
マスターが腕を組み、しばらく黙り込む。
そして、結論を出した。
「・・・下層のモンスターが溢れてきてるな」
静かな一言。
だが、その場にいた全員が意味を理解した。
「採掘班を一時撤退させる。Cランクパーティを伝令に使え。戦闘はなるべく避けるように伝えろ」
「は、はい!」
「中層への立ち入りは制限する。Cランク以下は当面禁止だ」
次々と指示が飛ぶ。
空気が一気に引き締まる。
そして――
「上を呼ぶ」
その一言で、さらに空気が変わった。
ざわめきが一瞬だけ止まる。
誰かが、小さく呟いた。
「・・・導きの輪環か」
「それしかないだろ。近くまで来てるらしいぞ」
その名前が出た瞬間、隣でエマがわずかに表情を変えた。
ほんの一瞬だったが、見逃さなかった。
「・・・知ってるのか?」
小声で聞く。
エマは少しだけ間を置いた。
「・・・名前だけは。この大陸で五指に入る上位パーティよ」
それだけ言って、前を向いた。
続きは言わない。
さっきの「そのうち話す」が、また頭をよぎった。
ギルドマスターがこちらを見る。
「お前ら」
「ん?」
「詳しい話を後で聞かせてくれ。数日中に、上位パーティが来る」
そこで一拍置いてから、続けた。
「そのとき、もう一度来い」
エマと視線が合う。
小さく頷く。
「分かった」
それで話は終わりだった。
これ以上ここにいても、俺たちの出る幕はない。
ギルドはすでに次の段階に入っている。
外に出ると、冬の空気が頬を打った。
冷たい。
だが、さっきまでとは少し違って、街の空気がどこか張り詰めているように見えた。
「・・・大ごとになったわね」
エマが小さく言う。
「ああ」
間違いない。
これは、ただの討伐じゃない。
ダンジョンそのものに何かが起きている。
そして――それに対処できる存在が、もう動き始めている。
「導きの輪環、か・・・」
口に出してみる。
名前だけで、妙に現実味があった。
その相手と、数日後に顔を合わせることになる。
(さて・・・どんな連中かな)
歩き出す。
冷たい風が吹く。
だが、不思議と悪くない。
むしろ――
少しだけ、楽しみだった。




