第27話 青い目
朝、目が覚めた瞬間から、体の違いは分かった。
まず、重さがない。
寝台から上体を起こしても、昨日までのような鈍い沈み込みがない。関節が引っかかる感じも、頭の奥に残っていた薄い靄も、きれいに抜け落ちている。
蛇口をひねり、カップに水を注ぐ。
澄んだ水を一息に飲み干すと、喉を通っていく冷たさまで妙にはっきり感じられた。体も頭も冴えている。昨日まで普通だと思っていた状態が、実は少し下がったところにあったのだと、今さら気づかされる感覚だった。
「・・・やっぱ違うな」
小さく呟いて立ち上がると、ちょうど向かいの部屋からエマが出てきた。
扉を開けたタイミングまで重なったせいで、目が合った瞬間、二人同時に口を開く。
「「おはよう」」
声まで揃った。
エマは一瞬だけ目を丸くし、それから何事もなかったように髪を軽く払う。寝起きのはずなのに、月白を帯びた灰銀の髪はほとんど乱れていない。これは種族差なのか、育ちの良さなのか、それとも単に本人の性格なのか。たぶん全部だ。
「水、飲むか?」
「いただくわ」
カップを渡すと、エマは両手で受け取り、静かに水を飲んだ。
その仕草もいつも通り落ち着いているのに、飲み終えた後の表情だけが少し違っていた。ほんのわずかに、肩から力が抜けている。
「・・・本当に違うわね」
「だろ?」
「ええ。コンディションがいいと、動く前からこんなに楽なのね。・・・悔しいけど」
「そこは素直に喜んどけよ」
「喜んでいるわ。悔しいだけで」
ややこしいな。
軽く朝食を済ませて装備を整える。いつもなら確認にもう少し時間がかかるところだが、今日は妙に手順が滑らかだった。必要な物を手に取り、装備の締め具合を確かめ、忘れ物がないか確認する。その一つひとつが、頭で考える前に自然と終わっていく。
エマも同じらしい。
互いに急いだわけでもないのに、気づけばもう出発できる状態になっていた。
「行くか」
「ええ」
朝の空気を吸い込みながら、俺たちはギルドへ向かった。
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ギルドに入ると、すぐにいくつかの視線がこちらへ向いた。
昨日の余波だろう。
あからさまに声をかけてくる者はいないが、興味と警戒が混じったような空気がある。新入りが目立つことをした後の、あの独特の距離感だ。
カウンターに近づくと、受付のミーアが俺たちを見つけて、少し困った顔をした。
「あの・・・ちょうどよかったです」
「どうした?」
「エマさん、確かBランクでしたよね?」
「そうだけど・・・」
エマが眉を寄せる。
ミーアは一瞬だけ周囲を気にしてから、カウンターの下から一枚の依頼書を取り出した。
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依頼:鉱山系ダンジョン【エメルネスト廃坑】周辺
アイアンゴーレム討伐
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「・・・アイアンゴーレム?」
エマの声が低くなった。
反応だけで分かる。軽い依頼ではない。
「Bランクの討伐じゃない!」
Bランクの討伐とは、通常、Bランクのパーティに依頼するものである。
俺たちは、エマ個人はBランクだが、俺個人とパーティ“双灯”はDランクだ。
「分かってます! でも緊急性が高いんです。高ランクの方々は別件で出払ってしまっていて・・・!」
「周辺封鎖は?」
「出張所から人を回しています。ただ、いつまでも保ちません。鉱夫や採取人が近づかないように止めてはいるんですが、あのあたりは生活がかかっている人も多いので」
ミーアの声には焦りがあった。
依頼書に書かれている文面は簡潔だが、状況は単純ではない。放置すれば被害が出る。けれど、今すぐ動ける高ランク冒険者がいない。だから、エマに声がかかった。
厄介な相手なのは間違いない。
だが――。
「お二人で無理なら、Cランクパーティとの合同という形でも・・・」
『隠すべきものが多いため、合同は非推奨』
(だよな)
俺たちが本気で動く場合、どうしても説明しづらいものが増える。アルの支援も、俺の身体能力も、使い方を間違えれば目立ちすぎる。
誰かと組むより、二人だけで終わらせた方がいい。
「合同はやめておこう」
「アキラ?」
「俺たちだけで行く」
エマがこちらを見る。
驚いているというより、本気で言っているのか確認している目だった。
「・・・本気?」
「本気。危ないと思ったら引く。けど、やれると思う」
「あなたの『やれる』は、時々信用していいのか分からなくなるのよ」
「今回は信用してくれ」
「・・・そう」
エマは少しだけ黙った。
その間に、依頼書へもう一度目を落とす。内容、場所、危険度、報酬。たぶん、頭の中で順番に確認しているのだろう。
やがて小さく息を吐き、依頼書を手に取った。
「分かったわ。受ける」
「ありがとうございます!」
ミーアの顔がほっと緩む。
その反応を見ると、引き受けた以上はさっさと終わらせた方がよさそうだった。
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エメルネスト廃坑は、ヴェルクハーフェンの北にある鉱山系ダンジョンだ。
もともとは普通の鉱山だったらしいが、掘り進めるうちに地下深くの天然ダンジョンへ繋がり、気づけば坑道全体がダンジョン化していたという。
今では魔鉄や、さらに深い階層ではミスリルまで採れるらしい。聞くだけなら夢のある場所だが、当然ながら資源だけが都合よく転がっているわけではない。魔物も出る。環境も安定しない。採掘は命がけだ。
そんな場所の入口周辺は、妙に静まり返っていた。
坑道へ続く黒い口が、山肌にぽっかり開いている。周囲には古い足場や、使われなくなった採掘道具の残骸があり、土と鉄と湿った石の匂いが混じっていた。
人の気配はない。
その代わりに、重い金属が地面を踏む音が、ゆっくりと響いている。
「・・・いたわね」
「ああ」
鉄の巨体。
アイアンゴーレムが、廃坑の入口近くを徘徊していた。
人間の倍どころではない。見上げるほどの巨体に、分厚い鉄板を重ねたような腕。あれに殴られれば、鎧ごと潰されるだろう。
エマが杖を握り直す。
「あんなのに殴られたら一撃で終わりよ。気を付けて」
「分かってる」
重く、硬く、一撃が重い。
だが、速くはない。
腕を振る前に肩が沈み、足を踏み出す前に重心が傾く。鉄の体は厄介だが、動きの予兆は大きい。昨日までなら少し余裕を持って見る程度だったかもしれないが、今日は違う。
見える。
関節の噛み合い、足運び、胸部中心にあるわずかな魔力の揺らぎ。こちらへ気づき、体の向きを変えるまでの遅さまで、妙にはっきり分かった。
「左膝と、胸の中心」
「了解」
短い言葉で通じた。
俺が前へ出ると、ゴーレムの頭部らしき部分がこちらを向く。次の瞬間、分厚い腕がゆっくりと持ち上がった。
遅い。
だが、当たれば終わる。
踏み込みすぎず、逃げすぎず、間合いの端で誘う。ゴーレムの腕が振り下ろされ、地面を叩いた。土と小石が跳ね、腹の底に響くような衝撃が走る。
その音に紛れて、背後で空気が震えた。
エマの魔力が練り上がる。
風が一瞬止まり、次の瞬間、青白い光が走った。
「【ライトニングボルト】!」
稲妻が一直線に伸び、ゴーレムの左膝を撃ち抜いた。
鉄が軋む。
膝の関節部から火花のような魔力光が散り、巨体がわずかに傾いた。
「効いてる!」
「ああ、そのまま行け!」
俺は側面へ回り込み、膝とは逆側の足元を狙う。
ゴーレムがこちらを追う。
遅いが、圧はある。
鉄の腕が横薙ぎに振るわれた瞬間、上体を沈めてその下を抜けた。風圧というより、壁が動いたような重さが頭上を通り過ぎる。
このヒリつく空気がたまらない。
「ほらほら、こっちだ、デカブツ!」
「挑発が雑よ!」
「効けばいいんだよ!」
軽口を返しながらも、頭の中は妙に冷えていた。
ゴーレムの動き、エマの位置、次の雷撃が通る角度。いくつもの情報が同時に入ってくるのに、邪魔にならない。
エマが再び魔力を練る。
今度は胸部。
青白い閃光が走り、ゴーレムの胸の中心へ直撃した。
内部で何かが弾ける。
巨体の動きが止まった。
一瞬。
それで十分だった。
「今だ!」
「ああ!」
地面を蹴る。
胸部の装甲には、今の雷撃でわずかな亀裂が入っていた。そこへ刃を滑り込ませる。力任せに斬るのではなく、隙間を探して、内部の核へ届く角度を通す。
手応え。
硬いものを貫いた感触と同時に、ゴーレムの全身から魔力の流れが抜けていった。
巨体が傾く。
数歩分、地面が揺れた。
そして、アイアンゴーレムは重い音を立てて崩れ落ちた。
土煙が上がり、坑道前に静寂が戻る。
「・・・終わりね」
「ああ」
息は乱れていなかった。
戦った直後なのに、体の奥にまだ余裕がある。無理をした感じがない。俺だけではなく、エマも同じようだった。
杖を下ろしたエマが、倒れたゴーレムを見つめたまま、小さく呟く。
「本当に違うわね。コンディションがいいと、ここまで変わるなんて」
「な」
視線が合う。
その瞬間、俺は言葉を忘れかけた。
エマの瞳が、まだ淡く金に光っていたのだ。普段の深い翡翠色の奥に、溶けた金のような光が揺れている。さっきの雷撃の余韻なのか、魔力がまだ残っているのか。理由は分からない。
ただ、きれいだった。
「やっぱきれいだよな、その目」
「なっ!?」
口に出してから、少し遅れて自分が何を言ったのか理解する。
エマが固まった。
それから、ほんの少し視線を逸らす。
「・・・アキラも」
「ん?」
「その青く輝く目、素敵よ」
エマの耳が先まで赤くなっていた。
照れている。
その事実に少しだけ思考が持っていかれかけたが、次の瞬間、別の言葉が頭に引っかかった。
「え!? 俺の目って光ってるの!?」
「・・・気づいてなかったの?」
「いや初耳なんだが!?」
「戦っている時、ときどき淡く青く光っているわ。特に、さっきみたいに集中している時」
「マジか・・・」
俺は思わず目元を押さえた。
いや、押さえたところで確認できるわけではないのだが。
『高負荷演算時、視神経系および周辺ナノマシンの同期発光が発生している可能性があります』
(おい。そういう大事なことは先に言え)
『視覚機能に支障はありません』
(そういう問題じゃないんだよ)
エマがくすっと笑う。
張り詰めていた空気が、そこでようやく緩んだ。
「・・・で、これどうする?」
俺は倒れたゴーレムの残骸を見下ろした。
討伐は終わった。問題はここからだ。
アイアンゴーレムは、倒した後も鉄の塊である。全部持って帰れればそれなりの金になるだろうが、当然そんな都合のいい話はない。
「全部は無理ね」
「だよなぁ」
「厚みがある部位は優先。破損していない装甲も高く売れるわ。あとはコア周辺の部品ね」
「了解」
近くに放置されていた鉱山用の台車を引っ張ってくる。車輪は少し軋んだが、動かないほどではない。廃坑周辺に残っていた道具が使えるのは助かった。
エマが部位を選び、俺が外して積む。
単純作業のはずなのに、これがなかなか面白い。ゴーレムの内部構造は完全な機械ではない。魔力の通り道らしき管、関節を補助する鉱石質の部品、コア周辺の奇妙な刻印。科学の目で見ても、分からない部分が多い。
『頭部および胸部中央構造の回収を推奨します』
(お前が研究したいだけだろ)
『否定はしません』
(そこは否定しろよ)
『虚偽報告は非推奨です』
(真面目か)
「どうしたの? また変な顔をして」
「いや、頭と胸は持って帰りたいなって」
「そんなに価値があるの?」
「売値もあるだろうけど、構造が複雑そうだからな。研究に使えそうだ」
「・・・あなた、そういう時だけ妙に目が真剣になるのよね」
「そういう時だけって何だよ」
「そのままの意味よ」
エマは呆れたように言いながらも、胸部周辺の部品を優先して台車へ載せるよう指示してくれた。
だが、問題は容量だ。
台車に積める量には限界がある。頭部、胸部、状態のいい装甲を入れた時点で、ほとんど余裕はなくなった。
「・・・全部は乗らないな」
「当然ね。アイアンゴーレム一体をそのまま持って帰れるなら、採掘より運搬業の方が儲かるわ」
「それはそう」
そこで、ふと思う。
こういう時、ファンタジーなら定番の便利スキルがある。
あの四人も使ってた奴だ。
「エマはインベントリって使えないのか?」
「・・・は?」
「荷物を別空間に入れておくやつ」
「言い方が軽いわね」
エマが呆れた顔をした。
どうやら存在はするらしい。ただし、表情を見る限り、俺が思っているほど気軽なものではなさそうだ。
「あれは、ごく一部の人だけが持って生まれる適正よ」
「そんなレベルか?」
「ええ。トランスレイスの中でも、さらに限られるわ。数千人に一人のトランスレイスの中で、さらに数千人に一人いるかどうか、というところね」
「・・・そうか」
思わず黙る。
アルヴァインたちは全員使えたよな?
四人全員。
あいつら、改めて考えると何だったんだ。いや、最初に会ったパーティだから全く理解していなかったが、かなりおかしい集団だったのではないか。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「変な顔をしていたわよ」
「たぶん思い出し疑問だ」
「何それ」
うまく説明できないので流す。
しかし、そうなると別の手段が欲しい。
「やっぱ欲しいな、マジックバッグ」
「そうね。買うなら、かなり必死でお金を貯めないといけないけれど」
「いくらくらいする?」
「一般家庭の小さな物置くらいの容量で、ミスリル貨二枚くらいかしら」
日本円にして約一億二千万円。
「・・・買えねぇな」
「でしょ?」
即答だった。
ただ、欲しいという気持ちは消えない。
運搬効率はそのまま収入に直結する。討伐でも採取でも、持ち帰れる量が増えれば稼ぎが変わる。今日みたいな相手ならなおさらだ。
(稼がないとな)
台車の持ち手を握り直し、俺は小さく息を吐いた。
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ギルドへ戻ると、受付のミーアが目を見開いた。
「え・・・もう戻られたんですか?」
「戻った」
「まさか、撤退では・・・」
「いや、終わった。討伐証明も持ってきたぞ」
台車からコアを取り出してカウンターに置くと、ミーアの表情が固まった。
周囲にいた冒険者たちの視線も集まる。
ミーアは慌てて確認用の道具を取り出し、コアの状態と依頼書を照合した。
「・・・アイアンゴーレムのコアを確認。間違いありません。本当に、もう終わったんですね」
「だから、そう言ってるだろ」
「アイアンゴーレムですよ?」
「アイアンゴーレムだったな」
「二人で?」
「二人で」
「Dランクパーティが?」
「そっちが依頼を振ったんだろ」
「それはそうですが・・・」
ざわつきが広がった。
「早くないか?」
「朝出たばっかだろ?」
「最近あの二人、何かおかしくないか?」
聞こえているぞ。
まあ、そう思われるのは仕方ない。俺だって逆の立場ならそう思う。
奥の方では、ギルドマスターが腕を組んだままこちらを見ていた。何も言わない。ただ、その沈黙だけで十分だった。
評価が少し変わった。
少なくとも、ただの新顔として見られる段階は抜けつつあるのだろう。
報酬を受け取り、素材の査定分は後で精算ということになった。コアと一部の部位はギルドに引き渡し、頭部と胸部の構造材は研究用として持ち帰る許可をもらう。
ギルドを出たところで、エマが横から俺を見上げた。
「・・・どうだった?」
「楽な割に報酬はいいな」
「ええ」
エマは即答した。
少しだけ笑っている。
昨日までなら、同じ相手と戦ってもここまで余裕はなかったかもしれない。もちろん油断はできない。だが、生活を整え、体を整え、きちんと準備して戦うだけで、結果はここまで変わる。
「これが本来の状態なのかもしれないわね」
「だな」
帰る場所がある。
整った生活がある。
その上で戦う。
冒険者として当たり前のことかもしれないが、今の俺にはそれが妙に大きく感じられた。
(・・・金、必要だな)
マジックバッグの値段が頭をよぎる。
ミスリル貨二枚。
普通に考えれば遠すぎる金額だ。けれど、絶対に届かない数字だとも思えなかった。
折り畳み式の台車を畳んで、俺たちは家へ戻っていく。
その途中、ふと水たまりに映った自分の顔が目に入った。
青灰の瞳。
今はもう光っていない。
けれど、戦っている時には淡く青く輝いていたらしい。
「・・・青い目、か」
小さく呟くと、隣を歩いていたエマがこちらを見た。
「気にしているの?」
「いや。ちょっと驚いただけだ」
「そう」
エマは少しだけ考えてから、前を向いた。
「私は好きよ」
「・・・そりゃどうも」
「素直に受け取りなさい」
「照れるだろ」
「私も照れたわ」
それを言われると、何も返せない。
エマは涼しい顔をして歩いているが、耳の先だけはまだほんの少し赤かった。
俺はそれを見なかったことにして、空に浮かんだ雲を眺めた。




