第21話 拠点
翌朝、改めて扉を開けた瞬間、止まった。
床は歪んでいる。踏むたびに沈む感触がある。壁は染みだらけで、角の漆喰が塊ごと落ちている。天井の一角が抜けていて、そこから光が差し込んでいる───というより、漏れている。空気が重く、湿っていて、埃なのか黴なのか、もう判別できない匂いがした。昨日も見たはずなのに、朝の光の中で改めて見ると、なかなか堪える。
「・・・無理」
横でエマが言った。二回目だ。
「だろうな」
否定はしない。だが───ここからだ。
エマが即座に動いた。窓に手をかけ、固いのを力任せに押すと、ぎし、と音がして開く。冷えた外気が流れ込んできた。
「まず空気よ」
「その前に───」
「掃除!」
被せられた。
「・・・はいはい」
埃を払い始めると、盛大に舞い上がった。
「ちょっと!余計に舞ってる!」
「仕方ないだろ」
「外でやって!」
追い出された。
壊れた椅子を持って外へ出る。座面が割れていて、脚も一本ぐらついている。手に取ってしばらく眺める。釘を抜いて、板を外して、使える部分を分ける。捨てるより先に、何が残せるかを見る癖がついている。
「ちょっと待って」
後ろから声。振り返ると、エマが立っていた。
「それ、捨てるんじゃないの?」
「使う」
「使うの?」
板を軽く叩く。
「まだ生きてる」
「・・・そういう問題?」
理解できていない顔だ。まあ、普通はそうか。
しばらく作業が続いた。埃にまみれ、汗も出る。とにかく効率が悪い。そして──腹が減る。
「・・・なあ」
「何?」
「ちょっと休憩にしない?」
「こっちはちょうどキリのいいところまで行ったし、そうね」
「こっちはもうちょい・・・」
「頑張れー」
「・・・飯、買ってきてくれない?この分解だけやってしまいたい」
エマが呆れた顔をする。
「ったく、自分で行きなさいよ」
「今いいとこなんだよ」
「どこがよ」
「気分的にだ」
少しの沈黙。
「お願いしますー」
エマがため息をついた。
「・・・分かったわよ。何がいい?」
「なんでもいい」
「一番困る答えね」
ぶつぶつ言いながら外へ出ていく。扉が閉まる。静かになった。
「・・・はぁ」
床に座って、手を見る。埃まみれだ。
「効率悪すぎるだろ・・・」
ぼそりと呟く。
「これ、ナノマシンで何とかなんねぇのかよ」
『可能です』
頭の中に声。思わず立ち上がった。
「出来るのかよ!?」
『肯定します』
「最初から言ってくれ!」
『指示がありませんでした』
「言えよそういうの!」
『了解。以後、提案頻度を上げます』
「今すぐやれ」
『了解』
薄く、淡い光のヴェールが広がる。
次の瞬間、空気が変わった。
埃が浮いたまま──消えた。舞わない。落ちない。ただ、消えた。床から色が戻ってくる。灰色の膜が剥がれるように消えて、木の茶色が浮き上がる。染みが薄くなり、木目が現れた。壁の染みが消え、崩れた漆喰が音もなく埋まっていく。隙間が塞がる。
そして天井の抜けた一角。縁が整い、枠が生まれ──嵌まる。光が、筋から面になった。
『採光改善』
「やりすぎだろ」
『簡易補修です。後にガラスか強化アクリルを嵌め込むことを推奨します』
「簡易の基準がおかしい」
床を踏む。沈まない。軋まない。さっきまでの頼りなさが、どこかへ消えている。
「・・・チートかよ」
『効率化です』
「同じだ」
扉が開き、エマが戻ってきた。いい匂いのする袋を持っている。
「買ってきたわよ───」
そこで止まった。完全に止まる。視線がゆっくり動く。床、壁、天井、光。そして俺。三秒。ゆっくり口が開いた。
「・・・なんということでしょう」
低く、静かに。何かが始まった。
「つい先ほどまで、染みと埃に覆われ、足を踏み入れることすら躊躇われたこの空間が───まるで別の場所のように、生まれ変わっています」
「やめろ」
「木目も忘れていた古い床板には、かつての輝きが戻り、差し込む光がその一筋一筋を丁寧に照らし出しています」
「それ以上はマズい!」
「崩れかけていた天井には新たな採光が生まれ、この空間に初めて、"居場所"としての息吹が宿りました」
完全に何かが乗り移っている。こちらを見ていない。見えていない。最後に、ようやくこちらへ向く。
「匠の手によって───」
「戻ってこい、エマ!!」
一瞬の間。
「・・・何をしたの?」
素に戻った。
「そ、掃除・・・かな」
「そういうレベルじゃないでしょ!?」
「ちょっと効率的にやった」
「絶対違う」
エマがもう一度、部屋を見回す。光。空気。床。そして、少しだけ表情が緩んだ。
「納得はできないけど・・・まぁ、いいじゃない」
「だろ?」
「だろ、じゃない」
即座に戻る。だが、否定はしない。
「・・・あ」
「何?」
「離れ」
外を指す。エマが一瞬固まった。
「やめましょう」
「なんでだよ」
「嫌な予感しかしないわ」
「大丈夫だ」
根拠はない。あるとすれば──頭の中の声が既に静かすぎる、という点だ。
家を出て、数歩で離れの入口にたどり着く。歪んだ扉は昨日のままだ。
「・・・開けなさいよ」
「俺がかよ」
仕方なくノブに手をかける。
『内部の清掃は終わっています』
(・・・だろうな)
開ける。きぃ、と軋んだ音。中へ入る。
止まる。
「・・・は?」
エマも止まった。
埃はない。床は見える。それどころか、かすかに反射して輝いて見える。中央には簡易な作業台があり、工具が整然と並んでいる。資材置き場まで出来ていた。昨日まで腐りかけた板とカビの匂いしかなかった空間が、完全に「使える場所」になっている。
(おい)
『やっておきました』
(やりすぎだろ)
『効率的にやっただけです』
(お前なぁ・・・)
エマが一歩入る。床を踏み、壁を見て、天井を見て、振り返る。目が合う。三秒。
「・・・なんということでしょう」
また始まった。
「昨日までは腐りかけた板とカビの匂いしかなかったこの離れが───匠の手によって、一流の職人も羨む工房へと、完全なる変貌を遂げています」
「誰が匠だ」
「朽ち果てた木の棚はすべて取り払われ、新たに置かれた作業台が、使われるのを今か今かと待ち構えています。無駄のない動線、研ぎ澄まされた空間設計──」
「やめろって」
ようやく止まる。こちらを見る。
「・・・何をしたの?」
「だから掃除だって」
「絶対違う」
即答だった。
だが──もう一度、離れを見る。さっきまでの「無理」は消えていた。代わりにあるのは、期待だ。昨日この扉の前に立った時とは、明らかに違う目をしている。
「・・・いいじゃない」
さっきよりも、はっきりした声だった。
「だろ」
「納得はしてない。だから何をしたのかは、今は聞かないでおくわ」
母屋に戻り、買ってきた飯を広げた。床に座っても軋まない。窓から風が抜ける。さっきとは別世界だ。
エマが買ってきた固いサンドイッチのようなものを食いながら、次のことを考える。
「明日は何をするかな」
エマがこちらを見た。
「・・・掃除だけで一週間はかかると思っていたのだけれど」
「ま、早く終わったってことで」
「納得はしてないわ」
即答だった。でも、その顔はどこか楽しそうだった。
なら迷いはない。ここはもう俺たちの拠点だ。
好きなように作るだけだ。




