第18話 Dランクの仕事
朝の冒険者ギルドは、思ったよりも早く動き出していた。
掲示板の前には、すでに何人もの冒険者が集まっている。革鎧の男が依頼票を睨み、弓を背負った女が隣の仲間と小声で相談し、眠そうな顔の若い冒険者が受付へ向かっていく。
依頼は早い者勝ち。
良いものから消えていく。
当たり前といえば当たり前だが、こうして見ると、冒険者もなかなか忙しい職業だ。
「討伐依頼じゃないのも結構あるんだな」
「そうね。採取、護衛、運搬補助、調査、警戒。ランクが上がるほど危険なものも増えるけれど、地味な仕事はずっとあるわ」
「地味な仕事、大事だよな」
「ええ。地味な仕事を雑にする冒険者は、長く続かないわ」
エマはさらりと言った。
その声には、妙な実感がある。
俺は掲示板に貼られた依頼票を眺める。
魔物討伐。
荷運び補助。
街道沿いの警戒。
薬草採取。
森浅部の素材回収。
冒険者という言葉から想像するほど、毎日が大冒険というわけではないらしい。むしろ、こういう細かい依頼を積み重ねて信用を得ていく仕事なのだろう。
『全依頼確認完了。移動範囲が重なる依頼があります。北の森浅部における薬草採取、香木片採取、低級魔物の確認、および素材回収。経路効率は良好です』
(なるほど。移動一回で複数こなせるなら悪くないな)
依頼票を順に確認する。
一つ目。
北の森浅部で、ミルナ草の採取。
止血薬の材料になる薬草らしい。
二つ目。
グラナの実の採取。
薬師ギルドからの依頼で、胃薬や保存薬の材料になると書かれている。
三つ目。
カルド香木の小枝と樹皮の採取。
防虫材、保存箱の香り付け、薬棚の湿気除けに使うらしい。
四つ目。
森浅部で小型魔物の気配が増えているため、見つけ次第駆除、または痕跡報告。
なるほど。
普通、採取だけならEランク向けだが、魔物の気配が増えているためDランク依頼になっているのか。
「エマ、これはどうだ?」
俺が依頼票を指すと、エマが横から覗き込んだ。
「北の森ね。距離は近いけれど、街道から少し外れるわ。採取だけなら簡単だけど、森の中で魔物に遭う可能性はある」
「じゃあ、これにしよう。ついでに、範囲が重なる依頼はまとめて受ける」
「ついでに?」
「同じ場所に行くなら、まとめた方が効率いいだろ」
エマが少しだけ目を細めた。
「・・・あなた、本当にそういうところは妙に商人みたいね」
「稼ぐために働くんだから、効率は大事だ」
「否定はしないわ」
エマは小さく息を吐いたが、反対はしなかった。
依頼票を何枚かまとめて剥がし、受付へ向かう。
いつものカウンターには受付嬢のミーアがいた。
「おはようございます、アキラさん。エマちゃんも」
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は・・・北の森ですね。複合採取依頼ですか」
「ああ。範囲が重なってるみたいだから、まとめて受けたい」
ミーアは依頼票を確認し、すぐに頷いた。
「問題ありません。ただし、森浅部の警戒依頼も含めるなら、魔物と遭遇した場合は無理をしないでください。討伐できれば追加報酬、無理なら痕跡報告だけでも評価されます」
「魔物の種類は?」
「最近報告があるのはフォレストリザードですね。小型ですが、噛まれると軽い毒があります。群れで出ることもあるので注意してください」
「わかった」
「それと、採取物は状態が大事です。ミルナ草は根を傷つけないように。グラナの実は割らずに。カルド香木は若木を切り倒さず、指定された太さの枝と樹皮だけを採ってください」
ただ採ればいいわけではないらしい。
そりゃそうか。
薬草も木も、次にまた生えてこなければ意味がない。
「採り尽くすな、ってことだな」
「はい。森はギルドと街にとって資源ですから」
ミーアはにこりと笑う。
こういうところ、冒険者ギルドは思ったより堅実だ。
「荷車は使いますか?」
「使う」
「では、北門横のギルド荷置き場に一台用意しておきますね」
隣でエマが、また少しだけ俺を見た。
「最初から荷車なのね」
「採取物を持って帰るんだろ」
「ええ」
「なら必要だ」
「・・・それだけで済むといいわね」
「どういう意味だ」
「別に」
エマはそれ以上言わなかった。
北門を出て、街道を進む。
朝の空気はまだ少し冷たく、遠くに見える農地の上には薄い靄が残っていた。荷車の車輪が土を噛む音を聞きながら歩いていると、街の喧騒が少しずつ背後に遠ざかっていく。
ヴェルクハーフェンは大きな街だ。
港、運河、商会、工房、屋台、宿、冒険者ギルド。何でもあるように見えるが、一歩外へ出れば畑があり、林があり、森がある。
都市は都市だけで生きているわけではない。
食料も、薬草も、木材も、獣の肉も、外から入ってくる。
そう考えると、今日の依頼は地味だが、街の生活にかなり近い仕事なのかもしれない。
「森に入る前に確認しておきましょう」
エマが歩きながら言った。
「ミルナ草は湿った場所に多いわ。根元が白く、葉の裏に細かい毛がある。似た草もあるから、葉裏を見て確認して」
「ああ」
「グラナの実は灰色の硬い殻をしているわ。薬の材料だから、割らずに袋へ。割れると価値が落ちる」
「了解」
「カルド香木は木そのものを切らない。枝と樹皮だけ。若木を傷めすぎると、次から採れなくなるわ」
「資源管理だな」
「そういうことね」
エマは淡々と説明してくれる。
こういう時のエマは頼りになる。
魔法使いというより、森に詳しい案内人のようだ。
『周辺植生スキャンを開始。依頼対象と思われる植物反応を複数確認』
(早いな)
『ミルナ草候補、右前方四十メートル。グラナの実候補、左前方七十五メートル。カルド香木候補、奥の斜面に三本』
俺は思わず口元を緩めた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「・・・そう」
森に入ると、空気が変わった。
木々の葉が日差しをやわらかく遮り、湿った土と落ち葉の匂いが濃くなる。鳥の鳴き声が遠くから響き、足元では小さな虫が跳ねた。
森の奥ほどではないのだろうが、それでも街道とはまるで違う。
視界は狭く、音は多い。
匂いも混ざる。
普通なら、ここで目当ての薬草を探すのはかなり骨が折れそうだ。
『右前方、倒木の陰。ミルナ草です』
(はいはい)
俺は倒木の方へ向かい、草をかき分けた。
根元が白い。
葉の裏に細かい毛。
エマの説明通りだ。
「これか?」
振り返ると、エマが少し驚いた顔をした。
「・・・ええ。ミルナ草ね」
「根を傷つけないように、だったな」
ナイフで周囲の土を少しずつ崩し、根ごと丁寧に抜く。泥を落としすぎると傷みそうなので、軽く払うだけにして布で包んだ。
エマは隣にしゃがみ、採取した草を確認する。
「きれいね。初めてにしては上手いわ」
「昔、食材を扱う仕事をしてたからな。雑に扱うと駄目になるものは、なんとなく分かる」
「そういうもの?」
「たぶん」
まあ、嘘ではない。
『左奥、同種反応三株』
(了解)
俺は立ち上がり、すぐに次の場所へ向かった。
「アキラ?」
「こっちにもありそうだ」
草を分ける。
あった。
同じミルナ草が三株。
「・・・本当にあったわね」
「目が慣れてきた」
「森に入って、まだそんなに経っていないけれど」
「慣れるのが早いんだ」
「・・・そう」
エマの返事が少しだけ遅れた。
『秘匿行動に不自然さが発生しています』
(分かってるよ)
『説明候補を提示しますか』
(やめろ。余計に怪しくなる)
『了解』
AIが真面目に引っ込む。
この相棒、便利なのだが、ときどき便利すぎて困る。
ミルナ草を必要量の半分ほど集めたところで、次はグラナの実に向かった。
グラナの木は、背の低い灌木だった。
枝先に、灰色の丸い実がついている。見た目は乾いた木の実で、うまそうには見えない。手に取っても、ほとんど匂いはしなかった。
「これが薬の材料か」
「ええ。胃薬や保存薬に使うわ。ただ、殻が硬いから割らないようにして」
「食べるものではない?」
「普通は食べないわね。苦いし、薬臭いと言われているわ」
『内部種子に揮発性芳香成分を確認。外殻は香気を遮断しています。乾燥、加熱、粉砕によって香気が増す可能性があります』
(お?)
俺は手の中の実を見る。
外側は無臭。
だが、内側に芳香成分。
乾燥、加熱、粉砕。
それはもう、ほぼスパイスの処理工程ではないだろうか。
「どうしたの?」
「いや、これ、中身は料理に使えるかもしれない」
エマが明らかに怪訝な顔をした。
「それ、薬の材料よ?」
「ああ」
「食べる気?」
「食えるかどうかは試してみないと分からない」
「・・・あなた、薬の材料を見て最初に考えることがそれなの?」
「料理人の性だな」
「性で済ませていいのかしら」
呆れられた。
だが、これは気になる。
異世界のスパイスだ。
現地では薬扱いでも、処理次第で食材になるものはあるはずだ。地球でも、香辛料と薬の境界はかなり曖昧だった。
香り、刺激、防腐、消化促進。
料理と薬は、もともと近いものだ。
俺はグラナの実を一つ、耳元で軽く振った。
中で、小さな種がカラカラと微かに鳴る。
「少し多めに採っていいか?」
「依頼分を超えた分は、状態がよければ買取になるわ。けれど、使うなら自分で持っていてもいいと思う」
「なら、割れないように分けておく」
「本当に食べるのね」
「まだ食べるとは言ってない。試すだけだ」
「同じようなものよ」
エマはそう言いながらも、採取を手伝ってくれた。
次に向かったのは、斜面の上にあるカルド香木だった。
地味な木だ。
幹は細く、葉も目立たない。外から見ただけでは、ただの若木にしか見えない。樹皮に鼻を近づけても、ほとんど香りはなかった。
「これが香木?」
「乾燥させると虫除けになるの。薬棚や保存箱に入れることが多いわ」
「ふーん」
俺は指定された太さの枝を一本だけ切り、断面を見る。
外側は薄い茶色。
中心に近い部分だけ、少し濃い色をしていた。
『芯材部分に芳香成分が集中しています。表皮および辺材はほぼ無臭。削り出し、乾燥、加熱により香気が出る可能性があります』
(これもか)
ナイフで、断面の芯に近い部分をほんの少しだけ削る。
その瞬間、ふわりと香りが立った。
甘い。
だが、甘いだけではない。
奥に少し辛みのような、温かい香りがある。シナモンともクローブとも違うが、肉の臭み消しや煮込みに使えそうな気配がある。
「おお」
「何?」
「エマ、これ、削ると香りが出る」
「削る?」
エマが顔を近づける。
小さく削った芯材を差し出すと、彼女は少しだけ鼻を寄せた。
「・・・本当ね。外側はほとんど匂わないのに」
「芯だけ香るみたいだな」
「でも、料理に使うものではないわよ」
「現時点では、だろ?」
「またそれ?」
「これは肉に合う気がする」
エマは何か言いたそうにしたが、結局黙った。
たぶん、俺の目が本気だったからだと思う。
未知の食材。
未知の香り。
未知の調理法。
これは駄目だ。
ワクワクする。
『アキラの脳内報酬系の活性化を確認』
(いちいち報告しなくていい)
『了解』
俺はカルド香木の枝と樹皮を、依頼分とは別に少量だけ取り分けた。
もちろん、木を傷めすぎない範囲で。
資源は大事だ。
次にまた採れなくなるような採り方は、料理人としても商売人としても駄目だろう。
その後も、採取は順調すぎるほど順調だった。
ミルナ草、グラナの実、カルド香木。
ついでに、レムリーフという葉も見つけた。
これは依頼対象ではない。
ただ、葉を指で揉んだ瞬間、柑橘に似た爽やかな香りがした。
「これは?」
「レムリーフね。獣除けよ。獣があまり好まないから、畑の端に植えるの」
「食べるものでは?」
「ないわ」
「香りはいいぞ」
「・・・また料理?」
「肉に合いそうだ」
「あなたの判断基準、だんだん分かってきたわ」
「いいことだ」
「褒めてはいないわ」
エマはそう言いながらも、レムリーフを数枚摘んでくれた。
その手つきは慣れている。
普通の採取とは少し違う。葉を傷めず、根も荒らさず、必要な分だけをもらうような動きだ。
「植物魔法って、こういう時にも使えるのか?」
俺が尋ねると、エマは一度だけ視線を落とし、指先を葉に触れさせた。
淡い緑の光が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「少しだけね。私は風と雷の方が得意だけれど、エルフには植物と相性のいい魔法もあるの。植物の状態を見たり、採取の負担を軽くしたりするくらいならできるわ」
「便利だな」
「万能ではないわ。枯れたものを簡単に蘇らせるような魔法ではないし、森そのものを操るようなものでもない。少なくとも、私には無理」
「それでも十分すごい」
素直に言うと、エマは少しだけ視線を逸らした。
「・・・そう」
照れたのかもしれない。
分かりにくいが。
そんなことを考えていると、AIの声が響いた。
『前方六十メートル。小型生体反応、三。移動パターンより、フォレストリザードの可能性が高いです』
(来たか)
俺は手を止め、剣に手をかけた。
エマもすぐに気づいたように杖を構える。
「何かいるの?」
「たぶん、フォレストリザード。前方」
「・・・あなた、気づくのが早いわね」
「気配がした」
「そう」
また、その返事だ。
疑問はある。
だが、今は戦闘が先。
草むらが揺れた。
次の瞬間、緑褐色の小型爬虫類が飛び出してくる。体長は一メートルほど。地面を這うように走り、口を開けると細い牙が見えた。
速い。
だが、直線的だ。
「【ウィンドショット】」
エマの短い詠唱。
見えない風が地面をなぞり、フォレストリザードの進路をずらした。先頭の一体が横へ流され、後続とぶつかる。
俺は踏み込む。
一体目の首元へ刃を入れる。
二体目は横へ跳んだところを、胴の下から斬り上げる。
三体目が俺の足へ噛みつこうとした瞬間、エマの指先から細い雷光が走った。
「【パラライズスパーク】」
バチッ、と乾いた音。
フォレストリザードの体が硬直する。
そこへ剣を落とす。
終わりだ。
「毒があると言っていたな」
「牙袋に注意して。皮と小さな魔石は買い取ってもらえるわ」
「了解」
俺は慎重に牙の周辺を避け、素材を傷めないように処理する。
『毒腺位置を表示します』
(助かる)
ナイフを入れる角度を調整し、皮を剥ぐ。小型とはいえ、三体分となるとそれなりの素材になる。
エマはその作業を横で見ながら、少しだけ目を細めていた。
「・・・本当に、初めて?」
「何が?」
「フォレストリザードの処理。毒腺の位置を、迷わず避けているように見えるわ」
「似たような生き物の構造から推測した」
「似たような生き物?」
「爬虫類とか」
「レプチル系の魔物に詳しいの?」
「いや、詳しいわけじゃない」
「そう」
まただ。
エマは納得していない。
だが、それ以上踏み込んではこなかった。
俺は少しだけ罪悪感を覚える。
隠し事をしている。
それは事実だ。
けれど、今ここで全部話すのは違う。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
昼を少し過ぎた頃には、依頼分の採取物はほぼ揃っていた。
荷車には、布で包んだミルナ草、割れないように詰めたグラナの実、束ねたカルド香木の枝と樹皮、フォレストリザードの皮と討伐証明、それから少量のレムリーフが積まれている。
地味だ。
非常に地味だ。
だが、これはこれで達成感がある。
「冒険者って、もっと魔物を倒して宝を手に入れる仕事だと思ってた」
「そういう仕事もあるわ。でも、それだけではないわね」
「実感した」
「どう?」
「悪くない。地味だけど、街の役に立ってる感じがする」
エマは少しだけ柔らかい顔になった。
「そうね。こういう仕事をきちんとこなす人がいるから、薬も、素材も、日々の生活も回るのよ」
「なるほどな」
冒険者は、命を張る何でも屋。
乱暴に言えばそうだ。
だが、その何でも屋がいるから、街の外にある危険な資源が街の中へ入ってくる。
面白い仕組みだ。
俺たちは荷車を引き、街道へ戻る道を進み始めた。
その途中だった。
『左前方、約二百八十メートル。大型生体反応。単独。移動速度低。こちらには気づいていません』
(大型?)
『ギルドで得た情報と照合。アンガーブルの可能性が高いです』
(アンガーブル?)
俺は足を止めた。
「どうしたの?」
「左の奥に、大きい獣がいる」
エマの表情が変わる。
「どのくらい?」
「たぶん、かなり大きい」
「・・・アンガーブルかもしれないわね。この辺では、たまに森の奥から出てくることがあると聞いたことがあるわ」
「強いのか?」
「低ランクが狩る相手ではないわ」
「肉は?」
「え?」
「肉はうまいのか?」
エマが、ものすごく微妙な顔をした。
「・・・おいしいとは聞くわ。けれど、今そこを確認する?」
「大事だろ」
「危険度の方が大事よ」
「倒せそうなら?」
「あなた、狩る気なの?」
「依頼は終わった。荷車にはまだ少し余裕がある」
「余裕というほどではないと思うけれど」
「積める」
「・・・でしょうね」
エマは小さくため息をついた。
だが、杖は構えている。
止める気はないらしい。
「無理はしないで。アンガーブルは突進力が強いわ。正面から受けると危険よ」
「受けない」
『正面衝突は非推奨。脚部腱、頸部血管、呼吸器系への攻撃が有効です』
(了解)
俺たちは荷車を木陰に置き、森の奥へ静かに入った。
少し進むと、木々の間に大きな影が見えた。
水牛に似ている。
だが、肩の厚みがまるで違う。首は太く、前脚は強靭で、頭部には板のような硬い骨が張り出していた。
あれで突っ込まれたら、普通の人間は簡単に吹き飛ぶ。
アンガーブルは地面の草を食んでいた。
まだ、こちらには気づいていない。
「足を止められるか?」
「一瞬なら。風で体勢を崩すか、植物で脚を絡めるか」
「確実な方で頼む」
「それじゃ、植物の方にするわね。けど、強い拘束ではないわよ」
「一瞬でいい」
エマは頷き、左手を軽く地面へ向けた。
杖の先ではなく、指先に淡い緑の光が宿る。
「【バインドルート】」
低い声。
それは詠唱というより、森に頼むような響きだった。
アンガーブルの足元で、細い根と草がわずかに動く。絡め取るほどではない。ただ、一歩目を鈍らせる程度。
だが、それで十分だ。
俺は走った。
アンガーブルがこちらに気づき、頭を上げる。
地面を蹴る。
だが、その一歩目がわずかに鈍った。
「【ウィンドショット】」
そこへエマの風が重なる。
突進の軸がずれる。
俺は正面に立たない。
斜めに入る。
前脚の動きが。
肩の沈みが。
首の向きが。
見える。
淡い青の補助表示が、視界の端で流れる。
剣を入れる。
前脚の腱。
アンガーブルの巨体が傾く。
暴れる前に、首元へ回る。
硬い皮膚。
厚い筋肉。
刃の角度を変える。
深く入れる。
血が噴き、獣の体が大きく揺れた。
アンガーブルは数歩もがいたあと、地面を抉るように倒れ込む。
森の中に、重い音が響いた。
「・・・本当に狩ったわね」
「狩れたな」
「低ランクが狩る相手ではないと言ったはずだけれど」
「俺たちは二人だ」
「そういう問題かしら」
「それに、エマの魔法が効いた」
そう言うと、エマは少しだけ黙った。
「・・・それは、まあ」
「助かった」
「ええ」
短いやり取りだったが、悪い感じではなかった。
そこからが大変だった。
アンガーブルは重い。
とにかく重い。
全部持って帰るのは無理だ。だが、肉、皮、骨、討伐証明部位、使えそうな部分を選んで処理するだけでも時間がかかる。
血抜き、解体、そして部位ごとに分ける。
戦闘より、こちらの方がずっと重労働だった。
「・・・あなた、やっぱり解体が妙に上手いわ」
「肉を無駄にしたくないからな」
「理由になっているようで、なっていない気がするわ」
「食材に敬意を払ってるんだ」
「食材扱いなのね」
「うまいんだろ?」
「そう聞いているわ」
「なら食材だ」
エマは呆れたように息を吐いた。
だが、どこか楽しそうにも見えた。
俺は取り分けたアンガーブルの肉を布で包みながら、荷車の方へ目を向ける。
グラナの実、カルド香木、レムリーフ。
そして、アンガーブルの肉。
どう考えても、試せと言われている組み合わせだった。
『食材候補としての検証価値は高いと判断します』
(だよな)
『ただし、現地人の摂食実績がない素材が含まれます。毒性確認を推奨』
(そこはちゃんとやる)
当たり前だ。
料理は冒険だが、無謀ではいけない。
薬の材料、虫除けの香木、獣が嫌う草。
それを肉料理に使おうとしているのだから、エマが変な顔をするのも当然だ。
だが、香りは嘘をつかない。
少なくとも、試す価値はある。
荷車へ戻り、素材を積み直す。
すでに採取物とフォレストリザードの素材でそれなりに埋まっていた荷台に、アンガーブルの肉と皮を押し込んでいく。
だいぶ重い。
だが、まだ積める。
「・・・積みすぎじゃない?」
エマが、呆れたように言った。
俺は荷台を見て、取っ手を握り直す。
「積めるなら積む」
「はぁ・・・」
そのため息を背中に聞きながら、俺は荷車を引き始めた。
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