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第17話 宿暮らしの限界


 あたたかく、やわらかい世界。


 どこまでが自分で、どこからが外なのか分からない。


 触れているのか、包まれているのかも曖昧だ。


 重さがない。


 落ちているようで、浮いているようで、


 ただ、どこかへゆっくりと流れていく。


 境界がほどけていく。


 輪郭が、にじんでいく。


 何も考えなくていい。


 何も、しなくていい。


 このまま――


 どこまでも――



「アキラ」



 音が、混ざる。


 遠い。


 くぐもっている。


 意味は分かる。


 でも、届かない。


 そのまま、また沈む。


 やわらかい何かに包まれる。


 自分という輪郭がほどけていく。


 全部が曖昧になっていく。



「起きてる?」



 何かが少し近づいた。


 でもまだ、遠い。


 触れられない。


 そのまま、手放す。


 落ちていく。



 ――エマ?




 ドンッ!!




 世界が割れた。



「返事くらいしなさい」


「ッ!!」



 意識が一気に跳ね上がった。


 身体が反射で起き上がる。いや、起き上がろうとした、という方が正しい。半分寝ぼけたまま勢いだけで動いたせいで、足が寝具に引っかかり、危うくベッドから転げ落ちそうになった。



「うわ、待っ、やべっ!」



 まずい。完全に寝坊だ。


 扉の向こうにいるのがエマだと気づいた瞬間、頭の中に残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。慌てて髪を手で押さえようとして、そもそも押さえるべきなのが髪なのか、服なのか、部屋の惨状なのか分からなくなる。



「今起きた! ちょっと待て!」



 返事だけして、急いで扉へ向かう。足元の布団を跨ぎ、床に置いていた袋を避け、半分転びかけながらどうにか扉を開けた。



「・・・遅い」



 廊下には、エマが腕を組んで立っていた。


 いつもの落ち着いた顔ではあるが、視線は明らかに冷たい。しかも、俺の顔を見るなり、その視線がすっと上へ動いた。



「悪い! 完全に寝過ごした!」


「見れば分かるわよ」


「そんなに分かるか?」


「・・・頭、すごいわよ」


「え?」



 手をやる。


 ・・・あー、これはひどいな。


 寝具の性能が良すぎたせいか、いつもより深く眠っていたらしい。髪は完全に寝癖を作っていて、いまさら手で直した程度ではどうにもならない。



「まあ、その・・・色々あって」


「色々、ねぇ・・・」



 エマは呆れたようにため息をついた。


 だが、その視線がふと俺の肩越しに部屋の中へ滑る。俺は少し遅れて、その先にあるものに気づいた。


 ベッドだ。


 捲れ上がった布団は、明らかにこの宿の備品ではない。厚みも違えば、布の質感も違う。何より、ふわりと膨らんだあの形は、昨日までこの部屋にあった硬い寝具とは完全に別物だった。



「・・・それは何?」



 低く、はっきりした声だった。



「見て分からないか。寝具だ」


「そういう意味じゃないわよ」



 エマは俺の返事をほとんど聞き流すように、つかつかと部屋に入ってきた。止める間もない。


 彼女はベッドの前で足を止めると、まず指先でそっと表面に触れた。軽く押す。柔らかく沈む。だが、ただ柔らかいだけではなく、一定のところでしっかり支え返してくる。


 エマの眉が、ほんの少し動いた。



「・・・なにこれ」



 もう一度、今度は少し力を込めて押す。寝具はふわりと沈み、指を離すとゆっくり戻った。その戻り方まで見届けたあと、エマは無言で腰を下ろした。


 身体が沈む。


 だが、沈みきらない。


 柔らかさに包まれながらも、腰と背中はきちんと支えられている。実際、俺も昨夜はそれで完全にやられた。これは寝具というより、罠に近い。快適すぎて、人間の起床意思を破壊するタイプの罠だ。


 エマは座ったまま、しばらく動かなかった。


 表情はいつも通りに見える。だが、肩の力が少し抜けている。指先が布の上を撫で、無意識のようにもう一度押す。


 俺はその様子を見ながら、少しだけ口元を緩めた。



「・・・どうだ?」



 エマはすぐには答えなかった。


 視線を落としたまま、わずかに息を吐く。そして、ようやく口を開いた。



「・・・ずるい」



 小さく零れた声は、かなり拗ねていた。



「欲しいのか?」


「別にそういう意味じゃないわ」



 即答だった。

 だが、立たない。



「そうか」


「そうよ」


「ふーん」


「なにその顔」


「いや別に」



 じっと見ていると、エマはようやく立ち上がった。立ち上がるまでに少しだけ名残惜しそうな間があったのは、本人に言わない方がいいだろう。



「・・・朝食」


「悪い、今行く」


「先に行ってるわ」



 それだけ言って、エマはさっさと部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 ・・・分かりやすいな。


 俺は軽く伸びをした。身体がいつもより軽い。寝坊したのは問題だが、睡眠の質そのものは明らかに上がっている。


 寝具、我ながら素晴らしい出来だ。


 ・・・素晴らしすぎて寝坊したのだが。




 顔を洗い、最低限の身支度を整えてから食堂へ降りると、ユリアちゃんがすぐにこちらを見つけて手を振った。



「お兄ちゃん!」


「おう」


「遅いよー」


「寝坊した」


「えー」



 ユリアちゃんは楽しそうに笑いながら、俺とエマを見比べた。


 エマは先に席についていたが、いつもより少しだけ顔が硬い。怒っているというより、何かを我慢しているような顔だ。たぶん、俺の寝坊ではなく、寝具の件だろう。


 ユリアちゃんはしばらく首を傾げてから、無邪気に言った。



「お兄ちゃんたち、喧嘩したの?」


「してない」

「してないわ」



 ほぼ同時だった。

 少しだけズレたせいで、逆に怪しくなった気がする。



「ほんとに?」


「本当だ」

「本当よ」


「でもなんか変ー」



 エマの肩がぴくりと動いた。



「変じゃないわ」


「怒ってる顔してるよ?」


「怒ってない」


「拗ねてるだけだろ」


「誰が拗ねてるのよ」



 即答だった。

 ユリアちゃんがくすくす笑う。完全に面白がっている顔だ。



「やっぱり喧嘩してるー」


「してないって」

「してないわ」


「たぶん」


「たぶんじゃないわよ」



 エマがぴしゃりと言う。


 ・・・はいはい。



 朝食はいつも通りだった。焼いたパンと温かいスープ、少し塩気の強い肉、それから香草を混ぜた卵料理。


 悪くはない。


 悪くはないのだが、最近は食材を見るたびに、どう調理すればもっと美味くなるかを考えてしまう。


 それができないのが、地味にきつい。


 俺はパンをちぎりながら、部屋に置きっぱなしの荷物を思い出した。


 寝具は改善した。だが、逆にそれで、この宿暮らしの限界が少し見えた気がした。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 それから二週間ほどが過ぎた。


 依頼はいくつもこなした。素材も増えた。街の道も少しずつ覚え、どの店が安く、どの市場に何が並びやすいかも分かってきた。


 生活は回っている。


 少なくとも、表面上は問題ない。



「・・・狭いな」



 部屋を見渡して、思わず呟いた。


 最初は十分だと思っていた部屋も、今ではすっかり手狭になっている。採取した素材を入れた袋、道具、修理待ちの装備、買ってきた食材の一部、試作に使えそうな布や木材。整理はしているつもりだが、ベッドの横にも、机の上にも、床の隅にも、何かしら置かれている。


 寝具を改善したせいでベッド周りの快適さだけは上がったが、そのぶん部屋の狭さが余計に目立つようになった。



『収納限界、間近です』


(見れば分かる)



 頭の中で返しながら、俺は水差しを手に取った。


 顔を洗う程度なら問題ない。だが、身体をしっかり洗うとなると話は別だ。湯はないし、水の量も限られている。宿としては普通なのだろうが、現代日本の記憶が残っている身としては、やはり厳しいものがある。



「風呂、入りてぇなー・・・」



 思わず本音が漏れた。


 髪も体も、最低限は整えている。だが、最低限でしかない。汗や埃を落としきれない感覚が、じわじわとストレスになる。冒険者として野外に出ている以上、汚れるのは仕方ない。だからこそ、帰ってきたあとにきちんと整えられる場所が欲しかった。


 食事も同じだ。


 市場には面白い材料が揃っている。香辛料もある。魚介も、肉も、野菜も、少し癖はあるが十分に使える。あれをこう処理して、これを煮込んで、香りを立たせればかなり良くなる――そこまでは分かる。


 だが、ここではできない。


 火を自由に使える場所がない。調理器具もない。食材を保管する場所もない。宿の食事に文句があるわけではないが、自分で作れるものが見えているのに作れないというのは、なかなか落ち着かない。



『香辛料の処理改善余地は依然として大きいと判断します』


(やらせろ)


『環境が不足しています』


(知ってる)



 机に手をつく。


 作業する場所も足りない。何かを広げれば食事を置く場所が消える。ベッドを作業台代わりにすれば、今度は寝る場所がなくなる。そもそも、宿の一室で素材加工を始めるのは普通に迷惑だ。



『長期滞在を前提とする場合、現住環境は非効率です』



 アルの声はいつも通り淡々としていた。



『収納、作業空間、熱源、水回り、いずれも不足しています』


「・・・だろうな」


『拠点の確保を推奨します』


「言われなくても、だいぶ分かってきたよ」



 この街はいい。

 かなりいい。


 依頼はある。市場もある。人も物も集まってくる。冒険者としてやっていくにも、何かを作るにも、今まで見てきた場所の中では一番可能性がある。


 だからこそ、宿の部屋では足りない。




 その日の夜、廊下でエマと顔を合わせた。


 食堂から戻ってきたところだったのだろう。エマは手に小さな水差しを持っていたが、その中身はほとんど残っていないようだった。



「・・・まだ起きてたの?」


「そっちこそ」



 エマは軽く髪をかき上げた。


 銀灰色の髪が、廊下の灯りを受けて淡く光る。いつもならきちんと整っている髪だが、今日は少しだけ乱れていた。たぶん、俺と同じで水の量に不満があるのだろう。



「水、なかったわ」


「ああ・・・」


「今日はお客さんが多かったみたいだから、仕方ないけど」



 そう言いながらも、声には少しだけ不満が滲んでいた。


 しばらく、廊下に静かな沈黙が落ちる。


 宿の中はもうだいぶ静かになっている。下の食堂から聞こえていた客の声もほとんど消え、遠くで誰かが扉を閉める音だけがした。


 エマは少し迷うように視線を逸らしてから、口を開いた。



「・・・長くいるなら、少し考えた方がいいかもしれないわね」


「何を?」



 分かっていたが、あえて聞いた。


 エマは水差しを持つ手に少し力を入れて、それからはっきりと言った。



「拠点よ」



 一拍置いて、続ける。



「もっとちゃんとした場所」



 その言葉は、俺がここ数日考えていたこととほとんど同じだった。


 寝るだけなら宿でもいい。短期滞在なら、むしろ気楽で便利だ。だが、この街で本格的に依頼をこなし、素材を集め、何かを作り、料理や生活環境まで改善していくつもりなら、宿の一室では限界がある。


 俺は小さく息を吐いた。



「だな」



 短く返すと、エマがちらりとこちらを見た。



「考えてたの?」


「まあな。収納が限界だ」


「あなたは単純に持ち込みすぎよ」


「正論が痛い」


「宿でする事じゃないわ」


「だから考えないとな」



 エマは少しだけ目を細めた。

 呆れているようにも見えるが、反対しているわけではなさそうだった。



「・・・そうね」



 それだけ言って、エマは自分の部屋へ戻っていった。


 扉が閉まる。


 廊下に一人残った俺は、肩を回した。


 この街はいい。やれることが多い。だからこそ、ちゃんとした足場が必要になる。



「・・・拠点か。ちゃんと考えないとな」



 そう呟いて、自分の部屋へ戻った。



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