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【奴隷‐贖罪の談】


 ■■■■という名の持つ意味を実感したのは、母と継父の会話を立ち聞きした時だった。

 実父の死により、遊学は中断された。そこから村に帰ってきて、しばらくすると新しい父親が、それより少し待てば弟ができる。一人っ子だった少女は諸手を挙げてこれを迎えたが、母の美貌には心労の陰が差していた。それは、ともすれば孤立してしまいそうな少女を憂う表情に見えたし、実際当時の少女はそう解釈した。だから満面の笑みを浮かべて、心配いらないと全身で意思表示していたのだ。

 けれど、ある夜厠に立った時、それは見当違いだったのだと知った。

『では、やっぱり後継はあの子に?』

『ええ……男子だし、なにより私たちふたりの子ですもの。筋としては正当よ』

『しかし、■■■■はどうするのだ? 彼女が反対するとは思わないが、不安の種を残しておくのは……』

『……奴隷、に』

『奴隷?』

『奴隷にして、どこか遠くに売ってしまいましょう。見目はいいからすぐ値がつくし、あの子は働き者よ。きっと、それなりに幸せに暮らしてくれるわ』

『そんな、そこまでしなくても。違う部族との婚姻にでもやってしまえばいいだろう。あの美しさならそれこそ引く手数多だ』

『あの子の名前で娶ってくれるところがあるとでも思います? ……それに、怖いのよ』

『怖い?』

『名前よ。あの子は「贖罪」を運命づけられているわ。いつか必ず罪を犯す。その上器量は並外れているし、頭も回る。なにより、嫌になるくらい純粋で……だから、本当にとんでもない罪人になるんじゃないかって、ずっと昔から恐ろしくてたまらないの』

『……』

『やっと家庭を作り直せたのに……もう、壊したくないのに……』

 さめざめとすすり泣きする母親と、静かに逡巡を噛みしめる継父。一対の影を隠れて見つめていた少女は、継父のゆっくりと頷く動きを最後に目にして、その場を走り去っていった。

 罪人。そのたった一語が、くりかえし頭蓋に木霊する。自分はいつか罪人となる? そんなつもりは決してない。誰ものために生きていきたいだけだ。

 母親からだって常々言い聞かされてきた。「くれぐれも、なんの面倒も起こさないでね。悪いことなんてしないでね」と。自分絡みで騒動が起これば、血相を変えて飛んでくるその姿がつらかった。だからその都度笑って、平気だと言ったのだ。

 他にもなるべく笑顔で過ごして、心配なんてかけないようにしていた。泣くことも滅多になかったし、怒ったことは皆無といっていい。とはいえさすがに、ずっと笑っていたわけではなかった。困ったことはあったし、考える時も、真面目な顔だって……

 ……ああそうか、だからか。

 納得した。母は正しい。自分は今ここに罪を犯しているのだ。笑顔を何千と途切れさせ、「罪人」という不安を払拭できなかった。ゆえに彼女たちを悲しませている。ならばそれを清算しなければ。

 〝奴隷〟となり、出ていこう。そして、今度こそ清く正しく生きるのだ。罪人になど、二度とならないように。完璧に、誰かのためだけに生きる存在になるために。

 そうだ、笑顔を知らない「あの子」に、いつか教えてあげるためにも。

 永遠に笑い続けよう。奉仕し慰め許容し続けよう。そうすれば誰も傷つけない。加害者になんて、ずっとなるはずもなくて。

 笑っているのだから――自分も悲しくなどない。

「……あははっ」

 笑声をあげる今だって、喜ばしいからだ。親と弟がやっと自分を手放せるのだから、祝福している。良かったと、心底そう安堵しているのだから。

 涙など流す必要、どこにもない。


 懐かしい夢を見た。

 何も覚えていない。思いださない。けれど、軋む胸腔が囁く。捨てたはずの罪の名を。だからきっと、考えなどしなくていい。

 自分は彼らのひとりのドーニャ。それだけが、今は確かだ。

「――これより、最後の進軍を開始する! 我らの舐めた一年前の苦汁、神罰に喘ぐ奴らに味あわせてやれ‼」

 雄叫びが四方八方から湧き上がる。その数はついに十万を超え、高台から見下ろせば圧巻だ。それを満足げに眺めて、隣に立つ将は勇壮に声を張り上げた。

 この一年、苦難もあれば栄光もあった。国の側につく部族たちを討ち払った一方、何度も危機に陥ったし、あわや将が捕えられそうにもなった。都の再襲撃を試み、手痛く敗退して引き返したことさえある。それでも、また再びここまで、いや、それ以上の段階までのぼりつめたのだ。

 今や彼らは、都のほとんどを手に入れた。家々を打ち砕き、広場を兵で埋め尽くし、神殿を焼き払った。だが、相手方の指導者――王も、その後継者も死んで、かつてのいち区長が務めているらしいのだが――は一向に和平を受け入れず、会談にもろくに応じない。それでも王国の敗北は決定的で、それは何の解決をもたらすとも思えなかった。

 占領の進度の問題ではない。都の民はもはや限界だった。病が蔓延し、雨季のせいで食料が欠乏している。水も足りない。行進のなか、こちらを無気力に見つめる視線の主は、どれも骨と皮で作られた人形同然だ。遭遇した戦士のひとりなど、武器を取りさえせず、ただ死肉を求めて徘徊していた。

 しかし、この軍勢は勝ちに来たのだ。敵が見るも哀れな苦境に身をよじろうと関係ない。何度にも及ぶ和平の申し出をはねのける態度に、とうとう選択肢はひとつに絞られる。

 将は、敵陣営への総攻撃を決意した。

「突撃――!」

 清冽な音を響かせて、剣を鞘から引き抜く。これまでで最大の歓呼がその応えだ。列を為した大群が、続々と夕焼けに塗られた都のいち地区へと進んでいく。将も、傍らの少女の頭を一度撫で、悠然とそちらへ向かっていった。

 通訳として同行してきた少女だったが、こと戦の場においてその力は無用のものだ。非戦闘員と共に後衛におかれる。他には衛生兵などがいて、指示を待っていた。積極的な交戦がないぶん、混乱は比較的起きづらい。

 ゆえに――そこから抜けだすのは、なかなかに苦労を要した。

「ふう……」

 なんとか周囲の目をごまかして、街の一隅まで走ってこれた。今ごろは自分がいないとばれているだろう。迷惑をかけるだろうし、後ろ髪を引かれる思いはある。しかしそれより、背中を押す衝動の方がよほど強い。それはすべてを振り切って、争う最中へ駆けるに足りた。

 いつしか、周囲には剣戟とタイホウ、数多の悲鳴が混然とあふれている。総攻撃――きっと掃討戦と表現する方が正しいのだろうが――は、つつがなく始まったようだ。このままいけば、数時間後にはここは死の都になる。それまでに為さなければいけない。

 何を、などと決まっている。「あの子」を探すのだ。

 一年前に見た、退廃をまとう彼女の姿が忘れられない。それは夜ごと胸を焦がし、笑う口角にかすかな違和感を与え続けてきた。

 何があったのかは分からない。けれど彼女にのっぴきならない事態が発生したのは確実だったし、何が原因でも結果はこの瞳に刻印されている。彼女はこの都で、ひとを殺すまでに追いつめられているのだ。あんな風な彼女、放っておくことなどできない。

 なら、少女にできることは――

「教えて、あげなくっちゃ」

 笑い方を。遠い昔に交わした指と言葉を、今こそ叶える時だ。

 今を逃せば二度と巡りあうことなどないと、この状況は告げている。

「たしか、あっち」

 誰にも見つからないよう隠れて、きょろきょろとあたりを見回す。ここは都でも一番の商業地区であり、ふたりにとっても馴染み深い場所だった。しかし、年月を重ねたこともさながら、この一年の荒廃と今まさに行われている破壊のために、かつての道筋が思いだせない。ほとんど闇雲に物陰を渡り歩いた。

 そうする間にも、慟哭は響き続けている。攻撃の音は止まらない。崩壊だけが展開されるなか、夜のとばりが降りてきた。

「どこ……?」

 また周囲を見回した。真っ暗だ。彼女がどこかも、自分がどこにいるかも分からない。それでも意志は萎えずに、また足を踏みだした。

 ……不思議と、彼女がいない可能性については考えていなかった。この惨状なのに、彼女の死なんてかけらも念頭にのぼらずに、この一年ずっと、ここにやってくる時だけを待ち続けていた。

 けれど、今更ながらに思う。もしこの一年で彼女が死んでいたなら? そうでなくても、飢えて、あるいは病を得て、もうどうしようもないほど弱っていたなら。そして、もう戻せないところまで、精神が瓦解してしまったなら――その時自分は、どうするのだ?

 首を振って、不吉な想像を追い払う。そんなこと、あってほしくない。大丈夫だ、きっと彼女は生きている。笑顔を教えて引き返せる。そのはずだ。そうでなければ、いけない。

 だって、もしそんなことになっていたのなら。彼女を壊したのは、他でもない……

 嫌な想像が悪寒となり、その背筋を駆け上がる。ぶるりと身を震わせて、思考を晴らそうと、少し空を仰ぎ見た。すると、自由のきかない視覚が、突如遠景にほのかな光を認める。

 月光だろうか……いや違う、あの赤々とした、どことなく真昼を思わせる明るさは。

「燃えてる……」

 間違いない、誰かが火を放ったのだ。

 遠い空に火の粉が躍る。四方八方から戦闘音が伝わってくる。どこに彼女がいて、巻きこまれていてもおかしくない。もしかしたら他の場所に行っている間に手遅れになるかもしれなくて、それでもどこに行くべきかは迷わない。

 炎が照らす一隅に、高く大きな一本の棕櫚の樹が見えたから。

「……っ‼」

 駆ける。ひたすらにその方角へ走りぬく。『白いひと』の情婦たる自分が攻撃の的になるかもということも、仲間に連れ戻されるかもということも、もはや思考から消え失せていた。頭の中を支配するのは、ただひとりの面影だけだ。

 一本だけの棕櫚。冷たい手に握られて、暗く冷たい彼女だけの空間に導かれたあの日が、一番深く記憶へ印されたもので。ゆえに、今の自分も、最初からあそこを目指していたのだ。

 恐怖を語られた。分からなかった。笑顔を語った。分かってもらえなかった。だからこそ、分かりあいたいとふたり願ったあの日の場所へ。

 彼女だけの、石蔵へ。

「はっ、はあっ、はあ……っ」

 炎を背後に、小ぢんまりと佇む蔵の影が見える。あの日と何も変わらない。棕櫚の樹も、きっと自分が成長するだけ育ったのだろう、体感する大きさは同じだ。そうだ、あの日の何もかもがここにある。足りないものなどなにもない。

 ゆえに――

「――ぁ、あ」

 彼女も、そこにいた。

 小さな身体は背が伸びて、けれど病的なまでに痩せ細っている。その肌には、ちらちらと明滅する火の色が反射していた。だがそれよりも、一年前より格段に数を増した傷と赤い汚れの方が目立っている。特に腕などひどいもので、その果てには、何よりも真っ赤な切っ先がかたく握られていた。

 眼にはなんの光もない。どこを見やるでもなく、視線をゆらゆら泳がせていた。瞳のなか、まるで黒曜石の鏡のように、真正面の自分が映る。

 その顔は、ただただ間抜けなくらいに呆然としていた。

 ああ、何をしているのだろう。ここ何年も笑みをやめたことなどなかったのに、どうして、よりにもよってこのタイミングで笑っていない? 今やるべきことはひとつなのに。

 彼女に笑い方を教えるのだ。怖くはないと知らせるのだ。

 そうすれば、彼女だって引き戻せる。

「ひ、久しぶり! あのね、私ね……」

 いつになく固まった表情筋が、ぎちぎちと肉の内で音をたてる。うるさい。それにほら、全然笑えていないではないか。もっとちゃんと、いつものようにやればいい。

 視線の先には、薄く乾いた肢体がある。黒髪は夜に呑まれたようにも思われた。そこへ向けて、口の端をゆっくり上げて、微笑んで。

 ちょっとした仕草のたびに、凝固し黒ずんだ血が粉をふいていた。鱗粉のようだと思いつつ、口を半開きにすれば、普通の笑み。

 彼らのガラス球のよう、透明感がありすぎる大きな瞳を見つめ、大きめに唇を開けたなら、にっこり笑顔だ。あまりやりすぎると品に欠けるから、注意が必要だけれど。

 あの赤黒く膨れ上がった右脚とは真逆に目を細めれば、最高の満面の笑い顔が完成する。きちんと順序を踏まえて、まず自分から。

 ひとからたくさん褒められた自慢の表情だ。彼女にだって、自信を持って教えられる。

 さあ、笑おう。その刃で、何人殺したか知らぬまま。

 笑おう。どれだけ苦しんできたのか、触れないで。

 笑おう。殺めたひとと崩れた心がどれほどか、もう分からずとも。

 笑えばいい。笑って、そうすればすべてが……

「私ね……」

 ……どうなるのだ?

 だって、これを招いたのは、きっと――

「わた……し」

 ただひとり以外には、ありえないのに。

「や……いやああぁああ……っ‼」

 慟哭が聞こえる。とても近くから、心を掻き毟るような息苦しさを伴って。彼女のものではない。それならば、と考えてやっと気づいた。それが、笑うために開いた口唇から漏れていることに。

 止めようとする。こんなの、きっと彼女は困ってしまう。だから唇を閉じようとするのに、声は氾濫して止まらない。そのまま見つめる彼女の瞳では、自分が絶望に染め上げられて自分を見つめていた。

 いや、違う。こんなものは絶望ではない。絶望とは、彼女やこの都で戦って逃げて死んでゆくひとびとをこそ、呼ぶに許された感情だ。自分はむしろ、彼女らをそこに追いやっていたではないか。

 戦利品となり、『白いひと』のなかに加わった。通訳の能力で、言葉と言葉を繋げあった。そうして、逆らう部族を平定し奉じる神を打ち壊し、騙し討ち同然の虐殺にだって加担した。それが、誰も傷つかない世界のためだと、信じていたから。

 けれど、その過程でどれだけ死んだ? その死は、自分の望みのためならば認められるのか? ……いいや、そんなはずないではないか。人身供犠と同じ論理、いや、本人が望んでいないぶん、こちらの方が余程ひどい。なのに自分は、それを気にも留めなかったのだ。

「なん、で……なんで……」

 なぜこれまで気づかなかった? そんな、ひとの悲哀でもってひとの傷つかない世を為すなどと、矛盾しているにもほどがある。そんな都合のいいこと、あるわけないのに。

 ……そうだ、確かにあるはずない。それでも、すべてから目をそらしても、それは魅力的に過ぎたのだ。だって、彼らの言う痛み苦しみの失せた世界なら、ひとが傷つかない未来なら――

 自分が罪人になることなど、二度とないではないか。

「……あ、」

 脳裏に綴られた一文に、思い浮かべた自らがまず驚いた。けれど、それを忘れることも逃すことも、もうできない。理解が及び、そして、自分のすべてを理解した。

 ■■■■。自分の名前、罪人の証。そして、自分が母に忌まれた原因だ。その名を捨てられるような場所こそが、少女の望んでいたものだった。

 罪人にはなりたくない。なってしまえば、あの時母に見捨てられたように、また居場所を失ってしまう。だからずっと誰かのために働き、笑っていたのだ。誰も刺激せず、怒らせないために。

 そしてまた、それは自分が傷つかないためのものでもあった。苦しい時に笑う者などいない。だからどんな痛みを負ったとしても、笑うなら、それはつらくなどないということで。

 因と果が逆転した理屈、自己防衛と自己暗示。これらが絡みあわさって、今の自分はできている。そして行き着く先は、道理の破綻した災いでしかなかった。

 日常を壊され故郷を狂わされ、心を砕かれた目の前の彼女こそ、その証。

「……ちが、う……」

 呟く声は小さく、炎の爆ぜる音に紛れて掠れている。

「本当に……、こんなつもり、じゃ……」

 けれどそれを打ち消すほどに、端々は湿りきっていた。

「……な、さい……ご、め、……っ!」

 このひとことは、村を出てから使ったことがなかった。失敗などしなかったし、言ってしまえば、罪を犯したと認めているようだから。だけれど、今はこれしか声にできない。他になんの言葉もない。

 今の自分は、確かにひとりの罪人だ。ゆえに、ここにおいて、せめてでも償わなければいけない。

 ひと息、ふた息、喘ぐように呼吸する。そこに混じる火焔と血肉の匂いに、自分の責任の重さが改めて感ぜられる。一度だけ、本当の名前が頭のどこかで囁くと。

 そうして、すべてが決壊した。

「……ごめんなさい……っ」

 目頭が焼けるようで、脳髄が浮かされる。視界は悪く、炎も、石蔵も棕櫚も、彼女さえも歪んでしまう。瞬きをすれば、何か熱いものが、眼球が溶けでたようにこぼれ落ちて。後から後から、止まらずに。

 それが、笑い続けようと誓ったあの夜からはじめて流した、少女の涙だった。


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