【少女たち‐抱擁の談】
少女は、きっと眠っていた。
今は夢を見ている。ひどく現実じみて、けれどもその感はない。内容はといえば、ただ都を歩いているだけだ。花の都はどうしたことか、荒れ果て朽ちかけている。少女は鈍くふらつく身体で、手のものを強くつかんで彷徨していた。
目的はない。けれどやるべきことはある。この手の物で、触ってくるすべてを殺すのだ。それらは総じて敵であり、殺される前に殺さなければ死んでしまう。それが怖いから。
……怖い。そう、何もかもが朧に濁るなか、恐怖だけが明確だ。だからこの夢は、たぶん悪夢なのだろう。
「……」
遠く、ざわめきが聞こえる。あてどなく行き続けるのに、どこにでもそれはついて回る。なんだかうるさいのと、少しの怯えが喚起されて、あの場所に向かうことにした。
つまり、石蔵だ。あそこに籠ると、どうしてか、どんな恐怖も収まるのだ。冷たいけれど、あたたかい。朦朧とする意識では、そこに辿りつけるかどうかも、着くまでに目的地を覚えているかも怪しい。それでも道はなんとなく知っているし、忘れるならそれでもよかった。
踏みだす一歩は、まるで船を漕いでいるかのように不安定だ。そういえば、右脚が微妙に引きずられている。記憶にはないけれど、どこかで怪我か何かをしたのだろうか。
あの場所……目印は確か、棕櫚の樹だった。探ろうと天を見上げると、暮れなずむ夕の端に、白い満月が穴をうがっている。そうか、今日は満月なのかと、なぜだか妙に心の隅が疼いた。
道しるべの方は、しばらく経ってからやっと視界に入りこむ。ずるずると、怠そうな動作で石蔵まで至ったころには、既に満月は白い光を放っていた。だが、夢だからだろうか、空がなぜだか紅い。きれいな月光は地表まで届かず、赤光と溶けあっていた。
蔵に入ることも失念して、天を仰ぎ続ける。赤い光は、地上から放たれているらしかった。まるで太陽が落ちてきたかのようだ。そして権勢は月に譲られて、ならばこれは月の世界だろう。まるでありえない空想が、この夢では確かなものとしてある。
だから、視線を落とした後に見つけた、数歩の距離にいる彼女についても。脳裏によぎった「ありえない」というひとことは、ただの戯言でしかなかった。
彼女は誰だろう。豊かな黒髪を波打たせる、均整のとれた顔立ちは、これまで見た誰よりも美しい。呆けたように自分を凝視し、時折口を動かしていた。
それは、本来なら敵との遭遇に他ならない。一歩でも自分に近づこうものなら切り裂いて、手早く解体して口に詰めこむ。それが他人が自分を見咎めた時の常だったし、今回もその準備はしておくべきだ。
なのにどうしてだろう、彼女には、そうする必要がないように思われた。恐怖も怯えも不安もない。どちらかといえば、そう、あの蔵の内部のようなぬくもりを覚えた。
不思議だ。なぜ彼女に限って、そんな風になるのだろう。そんな自覚以下の興味で彼女を視界に入れていれば、どうしたことか、彼女はにわかに泣きだした。嗚咽の合間に、久しぶりにはっきり捉えられる声が響いてくる。それはどうも、謝っているようだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
彼女は袖で拭い拭い、涙の流れをとどめようとする。けれど効果はないらしく、いつしか両手は裾を握り、頭は力なくうなだれた。
「でも……あなたに、会いたくって……それはほんとう、で……」
必死ささえ漂う言葉は、なんの抵抗もなく、するすると霞がかった脳内でさえ意味をなす。それを淡く理解した途端、彼女が顔を跳ね上げた。
「ごめんなさい……っ‼」
きらきら光る、涙の飛沫。それに飾られるような、きれいな泣き顔。潤み融解してしまいそうな瞳が、自分の視線とあわさった。
そこに、脳裏に描かれた「あの子」の面影が、なんの不一致もなく重なって――
「――あぁ」
そうして少女は、夢から醒めた。
風景は夢と何も変わらない。都はやはり瓦礫と化して、炎に焼ける空には月がある。自分は石蔵の傍、彼女と数歩隔てて向かいあう。けれど、まるで霧が晴れたかのように、すべての感覚が還ってきた。
空腹。渇き。眠気。そしてなにより、これまで動かせたのが不思議なほどの右脚の鈍痛。くずおれてしまいそうな倦怠感が、一緒くたにこの身を襲う。だがそんなものは意識の埒外に置けるほど大きな感情が、まず最初に、少女の胸腔を満たしていた。
それは恐怖ではない。怖れでも、ましてや悲しみでも。ただひとつ、全身を浸してしまうような、あたたかい安堵だった。
「よかった……」
長い間発声していなかった喉は、当然ながらおぼつかない。だがそれでも、彼女に伝えておきたかった。両眼から伝うこのしずくも、負の感情からなどではないのだと、知ってほしかったのだ。
「あなた……ちゃんと、泣けたんだ……」
彼女の瞳から、自分と同じ涙が流れている。その事実に、この上ない安心感が小さなこの身に飽和して。自分の疲労なんて、もう、どうでもよくなってしまった。
危うく思っていたのだ。いつも笑顔の彼女を。羨ましいはずなのに、素直に仰ぎ見ることはできない。その理由は、この石蔵でこそ悟った。
彼女の笑顔は、すべてがひとのためだった。楽しいから笑うのではなく、楽しませるために笑う。悲しいこともすべて笑みに転換して、溜めこみ忘れようとする。「寂しい」とこぼす微笑みが耐えられないと、そう思っていた。そんな利他に対する否定は、自分が自己本位の感性を抱いている、動かぬ証拠でもあったけれど。
それでも、ありのままに悲哀を物語る彼女の涙に、底抜けの嬉しさを感じている。これは、疑いない現実だった。
「あぁ、わたし……」
自然に視界が細まる。そのなかの彼女が、しゃくり上げながらも大きく目を見開く。涙もあいまって、零れ落ちてしまいそうだと、ぼんやり感想を抱いた。
ごめんなさいと、そうも思う。泣くことは本来、悲しいことがあったのを意味する。だからそれを喜ぶなんて、それこそ人非人の行いなのかもしれない。
けれど、ずっと彼女が心配で、それは本物で。そして今、笑顔ではなく涙して、自らの悲しみを曝けだす彼女を見て解消された。それはきっと、本当に……
「ひとのこと……ちゃんと……」
想えたんだ、と。
怯えではなく二重の歓喜で、身が大きく打ち震えた。
「あなた……」
傷だらけの彼女を見つめて、謝罪の言葉を思わず止めてしまう。これはどういうことなのだろう。自分が泣いた、許されないだろうに謝った。すると彼女はただ「よかった」とこぼし、涙を流して。その次には、いくら望んでも得ることなく、そして自分こそが奪ったと、そう思っていた――
「……っ」
きれいな、微笑み。
それが一瞬すべてを白い茫漠に帰して、ふたりの距離も消してしまう。気がつけば、腕のなかには、今にも折れてしまいそうな冷たい身体があった。
彼女が身じろぎする。もれる声は、まるで赤子の応じるかのようだ。ぎゅうと抱きしめれば、骨ばった肢体と豊満な肉体が接しあう。それが余計に、罪悪感を締めつける。そして呟く言葉は、これまでで一番静かなものだった。
「……ごめんなさい」
細い肩にうずめそうなまで顔を近づけ、視野全体が青白い肌に包まれる。そこにもやはり赤黒いものが少なからず飛び散っていて、なんだかもうどうしようもなかった。けれど、その最たるものは、今しがた視界から消し去った彼女の笑顔だ。自分が背負った笑顔などというものを、彼女にさえ及ぼしてしまった。そんなもの、もう誰にも渡ってほしくなどなかったのに。
よりにもよって、彼女が笑う。
きりきりと全身が軋む。何度も繰り返す詫び言にだって、ひとつごとに違う意味を与えることができる。それでも足りず、喘鳴の混じる声調で、遅すぎる懺悔を語った。
「私……、ただ、自分が傷つきたくなくて……。みんなのためって、してた全部が、だけど全部私のためで……っ」
本当に、今さら、遅いのに。後悔したところで、どんな罪も消えはしない。けれど、そうせずにはいられなかった。彼女にだけは、この告解をしたかった。
「私が、ただ、罪人になりたくなかったから……それだけが理由で……!」
自分が救おうとして傷つけたひとびとの象徴こそが、今の彼女で。かつて笑顔を見せてほしいと願った女の子が、こんな姿で。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……っ!」
臓腑の内からせり上がる謝罪を叫び続けて、このまま消え失せてしまえればと思った。
「……あやまらないで」
すぐ傍で連なっていく懺悔が苦しくて、胸の裡を余さず吐きだすその身体に、枝のような腕を回す。いつの間にか、あんなにも縋りついていた、右手のナイフは脱落していた。柔らかいあたたかみだけを抱いて、か細く言葉を重ねる。
「いいよ……。それで、いい。わたしだって、いっしょ、だから……」
ただ、自分のため。すべての行動はその上に打ちたてられ、そこに沿うよう集約する。だから少女は恐れ続けて、彼女は自らを捧げ続けた。ただそれだけの違いである。けれどきっと、悪いことなどではないのだ。
「わたしたち……、おんなじ、なんだよ。自分のためになにかして……でも」
こうして、支えてもらうと同時に包んで、抱きあうように。
「ちゃんと、ひとのこと、想える……だから」
彼女がひとびとのために頑張ってきたことも、少女がその悲嘆の発露を喜べたことも。絶対に嘘ではないのだから。
「いっしょだよ、わたしたち。ぜんぶ、ふつう」
少女は自分を受け入れられる。彼女は自身を責めなくていい。
そして今こそ、少女たちは理解しあえるのだ。
「……おしえてくれて、ありがとう」
あなたの涙があってこそ、自分はここまで至ることができた。
自分たちは何も変わらない。自らを中心にして生き、けれどひとのことだって愛することができる。分からないことなど何一つとしてない。だから。
「だいすきだよ、わたしのともだち」
こう囁くにも、なんの臆面だっていらない。
「……っ‼」
耳元で鼓膜を震わせたひとことに、おかしなくらい涙があふれてしまう。彼女の言葉のひとつひとつに灯火があって、それがとてもあたたかだったのに、どうしてだろう。泣きたいほどの悲しみなんてもうない、だから止めたいけれど、止まらないのだ。
それを謝ろうとして、でも、言われたことを思いだしたから。
「……ありがとう」
感謝を述べて、まぶたを肩から離す。すると、ちょうど頬と頬が触れあった。どちらも涙に濡れそぼって、互いのしずくが混ざりあう。燃えるように熱い体温は、切り離すことなどできなかった。
このままずっとふたりでいたい。叶うことなら永遠に。やっと分かりあえたのだ。理解できなかった彼女を知れたのだ。
いつか鼓動が重なって、ひとつになれればいい。そう願った瞬間、すべての感覚が引きはがされた。
「え……?」
目前に突きだされているのは、彼女の手のひら。五指は開かれ、腕もいっぱいに引き延ばされている。
その向こうには、混じりけのない、本物の笑顔があった。
「――――」
呟く。たったのひとことを。けれど声の代わりは、軽く弾ける音だった。
そうだ、ただ一心に祈っていたから、少女は気づけなかった。
炎は勢いを増し、既にこの周囲を取り巻いていた。草と樹を媒介になお広がり続け、石蔵も燻されて、逃げる場所などどこにもない。そうして火勢は、棕櫚の樹にまで行き着いていた。幹は炭化し、とうとう自重に耐え切ることができなくなる。そして燃え上がる一本樹は、先ほどまでふたりのいた場所を、重く重く打ちつけた。
「え……ぁ」
何が起きたのか、今度こそ分からなかった。呆けて見つめる間に、その場所もぱちぱちと火焔が上がる。火の粉が涙の膜を押し切って、じゅうと頬に刻印されて。
そして、何もかもを悟った。
「あ……ああぁあああぁぁあーっ‼」
絶叫する。すべての風景も音も匂いも感覚も千切られて、それでも炎に包まれる棕櫚の樹だけは映ってしまう。その下に何かを探そうとして、見つからなくて、駆け寄ろうとしたところでその動きが制された。
「おいドーニャ、何をしているんだ! 危ない、こっちにくるんだ!」
誰かの声がする。この二年で新たに覚えた言語で、でも分からない。もう何も知らない。ただ彼女のもとに行きたいだけだ。
「あーっ! ああぁーっ!」
痴愚じみた叫びを吐きだして、両手を振り回す。けれど拘束は外れない。むしろその度は増して、腕すら動かせないまでになってしまった。耳元で誰かが怒鳴る。
「いい加減にしろ‼ お前が死んで誰が喜ぶ、誰がお前の代わりになれる! お前を待っている兵が大勢いる、私だってそうだ!」
それでも抜けだそうともがく少女に、彼は一喝する。
「生きろ、ドーニャ・マリーナ‼」
『――いきて――』
その声に、聞こえたはずのない最後の言葉が、重なった。
すとん、と力が抜ける。見上げれば、そこには軍を率いているはずの将がいた。突然抵抗をやめた自分と真正面から視線が合うと、仕方なさげに嘆息した。
「突然いなくなりおって……心配させるな、馬鹿者……」
その目端に一滴の断片が見えたのは、気のせいだろうか。
「ここもすぐ火に呑まれる、その前に行くぞ。自分で走れるか?」
「……はい」
はっきりとした声音と頷きを返すと、将は自分の手を握って走りだす。改めてみれば、彼の装備も焦げついている。この火のなかを、自分を探して回っていたのだろうか。
小さな炎を踏み分け、火傷をいくつも負いながら先へ進む。そうして、焔の壁を潜り抜ける直前、一度だけ振り返った。
棕櫚の樹はもう見えない。あの石蔵も遠く。けれど、脳裏にはいつまでもあの笑顔が焼きついている。
「……ありがとう」
さようなら。
あなたのことが、わたしもだいすきだった。
それから先、もう二度と振り向くことはなかった。




