【巫女‐朽ちし都の談】
都を支配する沈黙と夜気、死臭と混乱。それらすべてを体現するような少女は、漆黒めいた存在感でうずくまっていた。
街角に紛れる姿は、満身創痍と言っていい。かつて丁寧に結わえていた髪は見る影もなくほつれ、精緻な刺繍を施された服も破けている。動きの邪魔になる装身具だって振り捨ててきたし、肌は傷と血で汚れてしまった。どれほど神事で懇意にしていた神官でも、今の自分を一目見て〝巫女〟だと判断できる者は少ないだろう。
もっとも、そうだと認められようがられまいが、自分に近づくのなら一刀のもとに命を絶つが。
「……」
無言で、胸に抱えた短剣のつややかさを撫ぜる。使うたびに拭ってきたのに、ざらりと乾いた感触がこびりつく。それを伸びた爪で剥がしはじめれば、ふと黒い表面が照り濡れて、自分の顔が大きく映る。振り仰げば、今宵は満月だった。
あれから何度、満月を迎えているのだろう。神殿で殺されかけて、それから〝神〟の脱出のいざこざに撒きこまれてから、どれくらいが経つのだろう。
都は、今や修羅の住処と化していた。〝神〟の軍勢が撤退し、いったんは落ち着きを取り戻したかもしれない。しかし、戦の爪あとを癒す間もなく、新たな敵が現れたのだ。
それは病魔だった。ある意味彼らより厄介な、かたちないものだ。なにせ根絶というものを知らない。おまけに誰も知らない病である。全身に発疹と膿を作りだし、高熱で苦しんだ末、呼吸にも事欠く死へと導く。これは追いだされた〝神〟が残した、再来までの罰なのだろうか。それまであと満月いくつ分ほどだろう。そう思えば、空を見上げるのが怖くなる。
……ああ、でもこの満月は、青くて白くてとてもきれいだ。
と、そこまでが思考を滑って、そのままどこかへ消えていく。最近思考が長く続かない。無感動に視線を戻して、鈍く煌く刃を眺めた。
曲面に歪む少女の顔が、薄く描かれる。痩せこけた頬も明らかで、焦点の怪しい黒瞳が、ナイフの色に溶けている。そこに感情は見受けられず、過去のような怯えすら、もう浮かんではいなかった。
だがそれは少女が恐怖から逃げだせたということを意味しない。むしろその逆だ。己は恐れに絡め取られ、それを封じた箱である。どこまで行こうと不安と共に。それでも振り切りたくて、どこまでも走り続ける。
そう、誰にも傷つけられない世界に、なるまでは。
……あの日、悟ったこと。それは自分自身知ることのない、秘められた本性だった。
怖かった。人身御供が、その遂行が。だがそもそも、なぜ自分は怯えていたのだろう。供犠は本来神聖なものであり、そうだと教育も受けてきたのに、どこで歯車は狂ってしまった?
これは決まっている、母の供犠と罪である殺人を結びつけたことだ。ゆえに供犠を殺人とみなし、自分は儀式を忌んだ。ならば、なぜそのふたつを結びつけた? そして、多くのひとが些細と流していることを、どうして自分は看過できなかった?
そんなこと、これまで考えたこともなかった。しかし、少し痛みを堪えて思いだせば、答えは実にあっけない。そう、母が死んだあの時、自分を襲った恐怖とは、言語化するならどういうものだった?
母を喪った寂しさか? 父に対する失望か? 血肉に対する生理的な嫌悪だったろうか? いいや違う。これまで自分が思っていたそれらは、どれも真実ではない。自分は確かに、本能的なまでの一瞬で、こう感じて恐れていたではないか。
――「次にこうなるのは、自分かもしれない」
――「いやだ、怖い。そんなものぜったい認めない。わたしは」
――「わたしだけは、死にたくない」
……なんてことはない、とうに自分は狂いきっていたのだ。
凝り固まった、自己保身の具現こそがこの身である。根暗な気質も臆病さも、すべては自分を守るためだ。誰かに救われるよう従順に。逃げやすいよう内気に。被害を抑えるよう大人しく。人身供犠が怖いのだって、母の死を想起するからではなかった。それを通して連想するのはただひとつ、肉親である「自分」の死でしかない。そうして何もかもが利己を前提として成立し、自分さえも欺いていたのだ。
だが、あの神殿の一件で、その外面もかなぐり捨てた。すべてに気づいてしまった。自分は殺人など厭わない、ただの利己一色に染まった人間なのだ。自分に及ぶ危害の一切が恐ろしく、触れる何もかもは敵でしかない。
私を殺すお前が死ね。何度目かに剣を向けられて浮かんだ文言は、その本質を正しく示している。
「……?」
ふいに、視界が闇のせいのみならず滲みだす。その拍子に、また思索は断線した。
瞬きをして、鏡代わりになったナイフをのぞきこむ。くちづけしそうなほどに近づけて、映りこんだ瞳には、一筋涙が伝っていた。
「あ……」
まただ。そうぼんやり思って、慌てるでも拭うでもなく、ひざに剣を置く。そして、あごの真下に両手で椀を作った。
どうしてだろう。こうした自分の本性を露わにして以後、時折このように涙が流れることがある。
特に悲しいわけではない。恐怖は恒常的にはびこっているが、それが原因でもおそらくない。しかし、それ以外の情動なんてあの日に打ち捨ててきてしまった。本当に理由なく泣いているとしか説明できない。
だが、そんなものどうでもいい。問題は体の水分が抜けてしまうことで、飢餓に陥りかけた都では、文字通り死活に関わる事態だ。だから少しでも涙を回収しようと努めている。
ああ、でも、涙と言えば。
「……あの子、なら」
遠い過去に出会ったきりの、やさしい女の子は。彼女なら、きっと自分と違った道を歩んだだろう。
そうだ、絶対に、違った。「あの子」は自分とは真逆だった、徹底的な利他だった。常に誰かを慮って、誰かのためだけに行動する。それはしばしば危ういほどで、けれどどこまでも輝いていたのだ。
太陽のような、鋭く射抜く光ではない。穏やかに包み抱く、柔らかな光彩。まるで見上げた満月だ。次からは満月の夕になる度に眺めていようか。
考えてみれば、本当によく似ている。輝きはもとより、欠けてしまいそうなところも、どんなに手を広げようと届かないところも。
そうだ、「あの子」が羨ましいのだ。誰かを想えることに、心底憧れて仕方がない。彼女こそが自分の理想像で、同時に、絶対に至れない境地だった。ゆえに、ずっと忘れられなかったし、ずっと寂しい。
彼女と自分はどこまでも違う。共感できない、分かりあえるはずなどない。
自分の不幸は、きっとただひとつだろう。それは良心と良識を、曲がりなりにも身につけていたことだ。自らの本性に従いながら、まだ正しいひとになりたい、と願っている。
滑稽以外の何物でもなかった。自分が死ぬ気なんてさらさらないのだから、こんなのはただの言い訳だ。どこまでも自分勝手で、吐き気さえ湧いてくるほどだった。
それゆえ、少女は絶望する。供犠行為をしていた時と同質の自己嫌悪を、未だ胸に宿している。
なれないものになりたいと、愚かにも腕を伸ばし続けていて。
「ほんとうに……、太陽なんて」
死んでしまえばよかったのに。こんな自分に気がつく前に、もっと自分が嫌いになる前に。
そうすればもしかしたら、次には月の世界になるかもしれない。神話を知っている身からすれば馬鹿馬鹿しい空想だけれど、もしそんなことが実現するならば、きっと彼女のようなひとびとにあふれているだろう。やさしく、あたたかで、うつくしい、そんな楽園だ。
けれど何か足りない気がするのは、少女が他者のことを想えないからだろうか。
「……」
胃袋が収縮し、不規則に眠気が襲う。それらがまたも考えを遮って、今度はまとまらない欲求へと連れていく。
空腹だ。喉が渇いた。眠りたい。安全なところが欲しい。生理的な疼きが頭を揺さぶり、ナイフを取るよう告げてくる。困窮に陥りかけた今の都では、そうしたものは力ずくで奪い取るしかない。それに罪悪感など微塵も抱かない事実に、胸の空虚が渦を巻く。
手のひらの水たまりに映った明月が、降りたつひとしずくに濡れた。




