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016 ラクシャ

 影の怪物に遭遇したのは不運だったが、自分ならば倒せると女剣士は思った。

 相手は狼型の一匹だけ。腕に自信はあった。

 薄暗い森のなか、魔剣を構えて迎え撃つ。


「――っ」


 そう、手にしているのは魔剣だ。

 斬撃は飛びかかってきた狼の体躯を傷つける。

 浅い。

 けれど、確かな手応え。女剣士は向き直って次に備えた。

 影の怪物は普通の武器では倒せない。それは常識で、覆せない現実だ。だから普通ならば逃げの一手。こんな森の奥深く、誰も踏み入らないような場所であっても、もしかしたら逃げきれるかもしれないという微かな希望を抱いて走るしかない。


「普通なら――、ね!」


 自身への鼓舞を込めて、もう一撃。やはり浅い。

 が、すれ違いざまに右足の先に魔円を展開。空間を蹴って追撃する。

 加速した突きは狙い違わず影狼へと吸い込まれ――、敵は四散した。


「――……ふはっ」


 緊張から解放され、女剣士は肩で息をする。


「はは……、やるじゃん私。よくやった」


 へたり込みそうになった直後、気づいた。声も出なかった。

 茂みの先、赤い瞳が揺れている。一対だけじゃない。

 もっともっと多くの――、影狼。


「う、ぁ……」


 逃げよう。

 それだけ考えて走り出して、絶望を拭いながら駆け続ける。

 残った理性は無駄だと繰り返す。助かる状況が想像できない。誰かに助けを求めても意味がない。こんな場所に誰かがいるはずがないのだから。

 実入りがいいからと燐子の濃い森を選んだのが間違いだった。影の怪物に襲われるなんて運の悪い奴だけに降りかかる事故だと思っていた。

 それに、自信もあった。

 背後に迫る影狼を振り返り、思わず笑いが零れた。

 逃げきれるはずがない。

 長年鍛錬した動作はこんな状況でも淀みなく行えた。

 直後に散るのは影狼。反転して振り抜いた一撃が敵を両断していた。


「はは、悪あがき。悪あがきだ。馬鹿みたい」


 影狼たちは警戒して距離を維持していたが、足を止めた女剣士を取り囲むようにも動いていた。

「終わりだ終わり。あーあ、もう少し生きたかったなぁ」

 戯言を吐きながら、渦巻く恐怖を飲み込んで。

 影狼たちが飛びかかってくる。

 あと二、三匹は道連れにできるだろうか。女剣士はそう考えて、構え――、

 直後に降り注いだ黒雷に目を見開いた。


「――――!」


 それはすべての影狼を焼き消し四散させる。

 自ら動く、という選択も取れなかった。女剣士の周囲に黒雷が落ちていたからだ。ただ呆然と成り行きを見届ける。いつ自分に落ちてくるか分からない恐怖もあったが、それよりも異常な状況に対する驚愕が勝った。


「なに、が……」


 呟きは黒い塊が落ちてきたことで途切れた。

 けれど、不審に思う。落ちたと割りには音が小さい。まるで飛び降りたかのような。

 黒い塊が動く。起き上がる。

 それは人の形をしていた。少し手足が長いが確かに人型の。顔は無い。よく見れば仮面をつけている。背には金属の翼。まるで黒衣の悪魔にも見えて――、


「あ、しまったな。偽装し忘れてた」


 それを言葉が発したときも、あまりに普通の声音に別の誰かがいるのかと疑った。


「まあ、いいか。いまさらだ」

「ふへ?」


 あまりと言えばあまりの声を出したと女剣士自身も思った。


「とりあえず、無事で良かった」

「…………――っ」


 助かったのだと理解して力が抜ける。

 なにかを考えるよりも先に、足は崩れ、その場に座り込んでいた。





「まさかラクシャに助けられるとはね」


 森を進みながら女剣士は隣を歩く影人形に言った。


「ラクシャなんてお伽噺かと思ってた」

「気がつかないだけで、街にも普通にいるぞ」

「――!?」


 なにかの冗談かと思いはするが、そもそもこの影人形自体が冗談のような存在だ。女剣士はどう飲み込んでいいのか分からず、言葉を流せない。


「そ、それは本当?」

「ああ。一般の方々の隣で飯食ってたりする」

「……ぇぇぇええ」

「刻影紋を使ってるなら、たぶん気づいたときもあるはずだぞ。普段は意識できていないだけで。よーく思い出してみ?」


 刻影紋と聞いて左手を眺め、言われたまま思い出してみた。


「う、うわあ……」


 女剣士は呻く。確かに日常生活で違和感を覚えた出来事が多々あった。仮装でもしているんじゃないかという妙な連中が街を歩いている光景。世界中の魔具を集めてようやく行えそうな魔法の祭典。共闘した者の起した奇跡のような出来事。


「ど、どうしておかしいって思わないの……。どう考えてもラクシャかなにかの仕業じゃないかあ……。えぇぇえぇ……」

「俺たちが普段偽装しているのもあるけど、ほとんどは機巧樹の影響だな」

「偽装? 機巧樹の影響って?」

「気になるなら強くなるしかない。教えても、またすぐに忘れる」


 それ以上聞いても、影人形は答えてくれなかった。





「あった」


 森の奥。光を放つ苔が広がっていた。

 濃密な燐子が周囲に蛍のように舞っている。

 女剣士は持てるだけ剥ぎ取り、用意していた袋に詰め込み始めた。


「あなたはどうするの? 袋とか持ってないみたいだけど」


 同行していたのは影人形の目的も光苔だったからだ。


「俺はこれ」


 彼はどこからか取り出した小石を見せてくれた。次第に燐子が吸い込まれていく。光を取り込むほど小石自身に輝きが宿った。


「なにこれ――って聞いても無駄か」

「その通り」


 言って、影人形は小石を苔の上に置く。


「なあ、気持ち悪いのは得意なほうか?」

「突然なに?」


 作業を続けていた背に、影人形が声をかけてきた。


「俺は君の刻影紋を調整できる」

「刻影紋を?」

「少し――、じゃないな。とても気持ち悪くなるが、もっと強くなれる」


 悪魔みたいなことを言うなあ、と女剣士は思った。声の調子は普通の青年だったが、見た目は完全に悪魔的だ。言うことが怪しくなると、さらに不気味さが増す。


「おいしい話には裏があるんじゃない?」

「あったとして、正直に言うと思うか? 強くなるのは本当さ。信じるかは分からないが、別に不利益もない。刻影紋が多かったり強かったりする奴は、この調整を自然にやれているんだよ。どうする?」

「どうしてあなたはそんなことをしてくれるの?」

「気まぐれ。理由を挙げるとすれば、君が気に入ったから」

「調整というのをしてもらえば、ラクシャたちのことを忘れないくらい強くなれるの?」

「それは――、無理かな。調整だから、伸び代を増やす行為に近い。いつかもっと強くなれたとき、思い出すことはあると思うけど」

「そっか。可能性をくれるんだ」

「その通り」


 女剣士は左手を見た。影を刻んだ手の甲を触れなぞる。いまは刻まれた影が発現していない。紋様が浮かぶのは能力を行使したときだけだ。それでも正確に思い出せる。自身が積み上げた力の象徴を忘れるはずがない。


「私はまだ強くなりたい。お願いします」





 影人形の指が左手に触れた。

 ぞわり――、と女剣士は総毛立つ。

 手の甲には刻影紋が浮かび上がっていた。それに影人形の指が触れ、――沈む。


「ひ、ぁ……」


 痛みは微か。それよりも異物感が酷かった。

 体の中身を撫でられるような感覚が左手から全身にまわる。


「ちょ、ぁ、……やめ」


 体のなかを指が這う。かきまわされる。立っていられず、膝をつく。


「き、気持ち悪――」

「吐くと楽だぞ」


 容赦がなかった。眩暈が酷くて開けてられない。こみ上げる吐き気に逆らわず、地面に内容物をぶちまける。

 薄目を開ける。吐き散らしたものが影人形の足に少しかかっていた。


「ご、ごめんなさ……」


 と、気にする余裕も即座になくなった。背筋が寒く、震えが止まらず。えずきも繰り返し、胃液が喉を焼く。時折目を開いてみるが、焦点すら定まらなかった。

 これは『とても気持ち悪い』なんて生易しいものではないと心のなかで叫ぶ。

 体中を這い回るナニカの感覚が消えず、いつの間にか地面に転がっていた。

 左手だけが影人形に握られている。

 そのまま最低最悪の気持ち悪さと戦いながら、気を失った。





「ん……」


 目覚めは快適とは言い難かったが、全身の疲労感は妙に馴染んで心地好かった。

 あやふやな視界は夜空を映している。風が冷たい。


「暴れたら落ちるからな」


 近くに黒い仮面があった。女剣士は黒人形の腕に抱かれているのだと自覚する。まわらない頭で「落ちるってどこに?」と考え、視線を下に向ける。

 月明かりに照らされる森が見えた。


「…………――っ」


 空を飛んでいた。

 冷たい風が頬を打っていた理由を理解した。


「どうせ忘れるんだから寝てろ」

「……ん」


 暴れる気力もない。手も足も動かせそうになかった。

 影人形の腕のなか、気だるさに引っ張られて意識が沈んでいく。

 森の出来事を思い返そうとした。けれど、それらは曖昧になっている。黒いなにかに助けられて、光苔を見つけて、それから――。

 深く刻んだはずのすべてを忘れてしまいそうで、涙が零れた。

 強くなれるのだとして。

 その可能性を忘れても、まだ強くなろうと思えるのだろうか。

 自分を信じられない気がして、不安に苛まれる。

 暗く暗く沈んでいく。


 ――それでも。


 眼下の森や遥か遠くの峰々を限界まで眺めた。闇色と夜空の境界線が世界を形作っている。黒仮面も一応眺めておいた。この黒も忘れてしまいそうな世界のひとつだ。

 必ずいつか今日のことを思い出す。


「強く、なるから……」


 力の入らない手を必死に動かし、指先で影人形の黒衣をつかんだ。


「そっちが忘れてたら……、怒るからね」

「あー……、善処する」

「なにそれ最低」

「よく言われる」

「まあ、いいや……」


 もう声を出すのも難しい。意識が沈みきる寸前だった。

 目を閉じながら最後に言っておくことにする。

 言う間を逃していた言葉。


「あのさ、助けてくれて、――ありがとね」


 聞こえたのかどうか。

 反応が返ってくる前に、意識は途切れ、影人形との出会いは終わりを告げた。

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