第九話 海峡の向こうの帳簿 改訂版
第九話 海峡の向こうの帳簿
海峡を隔てた向こう側にも、借金に苦しむ国があった。
イギリスである。
フランスだけが、戦争と王室の維持費に苦しんでいたわけではない。
十八世紀のヨーロッパでは、国王たちは領土を争い、植民地を奪い合い、同盟を結んでは破り、戦争のたびに莫大な金を必要とした。
兵士には給料を払わなければならない。
銃や大砲を買わなければならない。
艦隊を建造し、船を修理し、遠くの戦場に食料を届けなければならない。
勝利したとしても、戦争に費やした金が、そのまま国庫に戻ってくるわけではなかった。
むしろ勝利のあとには、次の戦争に備えるための費用が待っていた。
フランスもイギリスも、その終わりの見えない競争から逃れることができなかった。
だが、両国には大きな違いがあった。
それは、誰が国の金を集め、誰がその使い道を決め、誰が借金の返済を約束するのかという問題だった。
*
一六八八年、イギリスでは名誉革命が起きた。
ジェームズ二世が王位を追われ、ウィリアム三世とメアリー二世が即位する。その過程で議会の権限は強まり、国王が自由に税を課し、財政を動かすことには、以前よりも厳しい制約が加えられていった。
一六八九年の権利章典は、王権に対する議会の優位を確かなものにする重要な節目となった。
もちろん、それですべての問題が解決したわけではない。
イギリスにも政治的な対立があった。貧しい人々もいた。重い税負担に苦しむ者もいた。政治への参加が認められていたのは、社会全体から見れば限られた人々だった。
それでも、国家の財政を議会の承認と結びつける仕組みは、少しずつ形を整えていった。
政府が借金をする。
議会が税収を認める。
その税収を返済の裏付けとする。
そして、政府は約束どおりに返済を続ける。
この循環が信頼を生み、信頼が新たな借金を可能にする。
一六九四年にはイングランド銀行が設立された。政府の資金調達を支える金融制度も発展し、国債を通じて、国家の借金を投資家に引き受けてもらう仕組みが育っていった。
借金そのものが、ただちに国家の破綻を意味するわけではない。
問題は、借りた金をどう返すのか。返済のための収入をどこから得るのか。そして、その約束を人々が信じられるのかということだった。
イギリスは、戦争のために借金を重ねながら、その返済を支える制度を整えていったのである。
*
一方、フランスはどうだったのだろう。
フランスにも、優れた財政官僚がいた。改革を試みた大臣たちもいた。国を立て直すための提案が、まったく存在しなかったわけではない。
しかし、フランス王政の財政には、根深い問題があった。
税負担が社会の各層に公平に配分されていなかったのである。
聖職者や貴族が持つ特権は、課税のあり方を複雑にしていた。地域によって制度も異なり、徴税の仕組みには不均衡があった。
国が金を必要としても、誰から、どのように集めるのかを変えることは簡単ではなかった。
改革案が出される。
特権を持つ者たちが反発する。
王は譲歩するか、対立を深めるかを迫られる。
財政の問題は、いつしか王権と特権階級の政治的な問題になっていた。
そこへ、戦争による借金が重なる。
フランスは、イギリスに打撃を与えるという外交・軍事上の目的から、アメリカ独立戦争を支援した。
敵国に勝つための金が、やがて自国の政治を揺るがす原因のひとつになる。
歴史とは、ときに皮肉な帳簿をつけるものだった。
一七八〇年代後半、フランス王政の財政危機は、もはや帳簿の数字を並べ替えるだけでは解決できないところまで来ていた。
一七八八年、国家支出の大きな部分が、過去の借金に伴う負担に吸い込まれていた。
集計の方法によって数字は異なる。利息だけを数えるのか、元本返済なども含めるのかによっても、割合は変わる。
だが、国が自由に使える金を圧迫するほど、債務の負担が重くなっていたことは確かだった。
フランスが必要としていたのは、単なる節約ではなかった。
国の収入と支出を見直し、税を集める仕組みを改め、誰がどの程度の負担を引き受けるのかを決め直す必要があった。
しかし、それは、長く特権を享受してきた人々に、自分たちの立場を変えるよう求めることでもあった。
改革は、帳簿の上では正しくても、政治の上では難しかった。
*
そして、ヴェルサイユには宮殿があった。
いや、ヴェルサイユだけではない。
パリにはパリの王宮があり、フォンテーヌブローには王家の歴史を刻んだ宮殿があった。コンピエーニュなどにも、王家が滞在するための城館があった。
王宮は、王が住むためだけの建物ではなかった。
王権を見せる場所であり、外交の舞台であり、宮廷の人々が身分と序列を確認する場所でもあった。
広大な庭園。
整えられた並木道。
水を噴き上げる噴水。
磨かれた床。
壁を飾る絵画。
銀器や食器。
儀式のための衣装。
そして、そこに働く無数の人々。
王宮は、完成した日に仕事を終える建物ではなかった。
屋根を直さなければならない。庭を刈らなければならない。暖炉に薪をくべ、家具を修繕し、召使いたちに給金を払わなければならない。
王が移動すれば、宮廷も移動する。
人が動く。馬車が動く。食料が動く。警備が動く。
その背後では、金が動いていた。
もちろん、宮殿のすべての費用が無駄だったわけではない。そこでは政治が行われ、外国の使節が迎えられ、国家の意思決定がなされた。
問題は、その仕組みを維持する費用が、財政の苦しい時代にも簡単には消えてくれなかったことだった。
王の威信を保つための費用は、王の威信が揺らいだときでさえ、請求書を送り続けた。
*
マリー・アントワネットは、浪費を批判されていた。
ドレス。宝石。賭博。宮廷での交際。
王妃の暮らしには、当時の多くの人々が手にすることのできない品々があった。彼女の支出には、批判されても仕方のない部分があっただろう。
しかし、彼女のドレス代を減らせば、フランスの財政危機が解決したのだろうか。
王宮の維持費がなくなるわけではない。
過去の戦争で積み上げた借金も消えない。
特権階級への課税改革が、王妃の節約だけで実現するわけでもない。
そもそも、国家財政の数字を決める権限は、王妃の手にあったのだろうか。
王妃が財政政策のすべてを決めていたわけではない。
彼女は王室の一員であり、政治的な影響力を持つこともあった。しかし、国家の収入と支出を管理する制度そのものを、ひとりで動かせる立場ではなかった。
それでも、人々の目には、王妃の華やかな暮らしが映った。
複雑な税制は目に見えない。
国債の利息も、遠くの戦場で消費された火薬も、宮殿の修繕費も、日常の暮らしのなかでは見えにくい。
けれど、王妃のドレスは見えた。
宝石は見えた。
豪華な儀式は見えた。
見えるものは、説明しやすい。
説明しやすいものは、怒りの矛先になりやすい。
そうして、国家の問題は、ひとりの女性の名前と結びついていった。
*
一七八六年六月二日。
ひとりの青年が、王妃竜騎兵連隊に入隊した。
名を、アレクサンドル・デュマという。
後世に『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』を書く作家の父であり、フランス革命戦争で将軍となる男だった。
だが、このときの彼は、まだ将軍ではない。
父はフランス人貴族、アレクサンドル・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー。母は、サン=ドマングで奴隷にされていたアフリカ系の女性、マリー=セセット・デュマだった。
青年は貴族の血を引いていた。
しかし、父との関係は良好とは言いがたかった。
アレクサンドルが軍隊に入ると告げたとき、父は自分の貴族姓を軍の下級兵士として使われることを望まなかったという。
ならば、別の名を使えばよい。
青年は、母の姓を選んだ。
デュマ。
その名で、彼は王妃の名を冠した竜騎兵連隊に入隊した。
皮肉な話だった。
宮廷では、血統と身分が人の価値を測る物差しになっていた。
その宮廷の名を冠した連隊に、貴族の父と、奴隷にされた女性の母を持つ青年が入る。
彼は、自分の人生を父の爵位だけで決められたくなかったのかもしれない。
少なくとも、彼が軍隊で名乗ったのは、父の長い貴族姓ではなく、母の姓だった。
入隊から十三日後、父は亡くなった。
青年と父を結んでいた関係は、そこでひとつの区切りを迎えた。
そして、歴史はまだ、彼がどんな男になるのかを知らなかった。
*
デュマは、背が高く、並外れた体格の持ち主だった。
入隊記録に残された身体的特徴は、後世に語られる彼の豪胆な姿を思わせる。
しかし、彼の人生を「怪力の男」という一言だけで説明することはできない。
革命が始まると、彼は軍隊のなかで頭角を現していった。
一七九二年、フランスはオーストリアとの戦争に突入する。
その年、デュマは少人数の偵察隊を率いて敵兵を捕らえた。伝えられる記録では、わずかな騎兵を率いた彼が、十二人の敵兵を捕虜にしたという。
十二人。
数だけ聞けば、戦場の報告書に書かれた数字にすぎない。
だが、想像してみればいい。
敵の兵士がいる。
その相手に、少人数で近づいていく。
こちらの人数が少ないことを悟られれば、逆に包囲されるかもしれない。
それでも、青年は行動した。
無謀と勇気は、紙一重のところにある。
成功した者の行動は勇気と呼ばれ、失敗した者の行動は無謀と呼ばれることがある。
デュマは、その境界線を、何度も歩いていくことになる。
やがて彼は将軍へと昇進し、アルプス方面の軍事行動にも参加する。戦場での功績を重ね、フランス革命軍のなかで重要な指揮官のひとりとなっていった。
後世には、彼の並外れた腕力や大胆さを伝える逸話がいくつも語られる。
そのすべてを、そのまま史実として受け取ることはできない。
しかし、確かな軍歴だけを追っても、彼の人生は十分に劇的だった。
彼は、出自だけで自分の限界を決めなかった。
貴族の父を持ちながら、父の名を使わなかった。
アフリカ系の母を持ち、当時の社会に根強く残る人種的な偏見にさらされながら、軍隊のなかで昇進した。
そして、革命が掲げた平等という理想と、現実の社会に残る差別との間で生きた。
フランス革命は、すべての人を一夜にして平等にしたわけではなかった。
自由と平等を掲げる国であっても、人間の偏見は簡単には消えない。
デュマの生涯は、その矛盾を体現していた。
*
やがて彼の息子は、父の人生を語り継ぐことになる。
アレクサンドル・デュマ。
父と同じ名を持つその息子は、のちに世界中で読まれる小説を書く。
『三銃士』。
『モンテ・クリスト伯』。
裏切り、復讐、友情、名誉、そして、奪われた人生を取り戻そうとする人間たち。
彼の物語には、運命に翻弄されながらも、そこから立ち上がろうとする人物が登場する。
父の人生が、その創作にどのような形で影響したのかを、単純に断定することはできない。
それでも、父が生きた時代と、その父を持つ作家の作品を並べてみれば、ある問いが浮かび上がる。
人間は、生まれた家によって、どこまで運命を決められるのだろう。
名前によって、どこまで評価を決められるのだろう。
そして、他人が語る物語によって、どこまで人生を奪われてしまうのだろう。
*
同じ時代、マリー・アントワネットの名前もまた、ひとりの女性の手を離れつつあった。
王妃には、浪費と呼ばれても仕方のない行動があった。
だが、彼女は、問題の首飾りを注文していなかった。
彼女が拒んだ宝石は、別の人々の思惑に巻き込まれ、やがて王妃の名を利用する詐欺事件の中心へと運ばれていく。
デュマ青年は、母の姓を自分の名として選んだ。
マリー・アントワネットは、自分の名を利用する者たちを止めることができなかった。
ふたりの人生が直接交わったわけではない。
しかし、同じ時代のフランスで、名前はそれぞれ異なる意味を背負っていた。
ある名前は、出自を示した。
ある名前は、身分を示した。
そして、ある名前は、本人の知らないところで、罪の代名詞になっていった。
*
一七八九年、フランスでは三部会が招集された。
財政危機を解決するための政治的な試みは、やがて王権と国民の代表との衝突へと進んでいく。
その年の七月、パリではバスティーユ牢獄が襲撃された。
それは単に、一つの牢獄が攻撃されたという出来事ではなかった。王権への不信と、政治を変えようとする人々の動きが、目に見える形で噴き出した瞬間だった。
海峡の向こう側、イギリスもまた、フランス革命の影響を受けることになる。
フランスとの戦争が始まると、イギリスの財政にも、さらなる負担がのしかかった。政府は借金を重ね、税を集め、戦争を続けるための資金を確保しようとした。
一七九九年には、小ピット政権が所得税を導入する。
イギリスにも、重い負担があった。
貧しい人々がいた。税に不満を持つ人々がいた。戦争によって生活を脅かされた人々もいた。
ただ、両国は、危機を処理する政治の仕組みに違いを抱えていた。
フランスでは、財政危機が王政の正統性を揺るがし、革命へとつながっていった。
イギリスでは、王政を維持したまま、議会政治の枠組みのなかで戦争と財政の問題に対処していった。
どちらの国にも、犠牲はあった。
どちらの国にも、不平等はあった。
そして、どちらの国にも、制度を変えようとする人々がいた。
歴史の違いは、国民性という一言だけでは説明できない。
積み重ねられた制度。税を集める方法。借金を返す約束。特権をめぐる対立。そして、政治の決定に人々がどれほど関われたのか。
そうした違いが、危機に直面したときの選択肢を変えていった。
*
一九〇一年、ヴェルサイユ。
モバリーとジョーダンは、プチ・トリアノンで経験したという不思議な出来事を、後年になって記録にまとめようとしていた。
彼女たちが見たと語る風景は、どの時代のものだったのか。
なぜ、そこにマリー・アントワネットの影が現れたのか。
そして、人々はなぜ、王妃の名前に、これほど多くの意味を背負わせたのか。
記録を読めば、事実がすべて分かるとは限らない。
記録を書いた人間にも、記憶がある。先入観がある。説明できないものを説明しようとする願いがある。
歴史の帳簿にも、同じことが言えるのかもしれなかった。
数字は、何かを示す。
しかし、数字だけでは、すべてを語れない。
王妃のドレス代は、彼女の浪費を示すかもしれない。
だが、その数字だけで、フランスの財政危機の全貌を説明することはできない。
首飾りの代金は、詐欺事件の規模を示すかもしれない。
だが、その数字だけで、なぜ王妃が事件の責任を負わされることになったのかを説明することはできない。
そして、ひとりの青年が選んだ姓は、彼の人生の一端を示すかもしれない。
だが、その名前だけで、彼がどんな人間だったのかを説明することはできない。
モバリーとジョーダンが本当に過去を見たのかどうかは、今も確かな答えが出ていない。
けれど、彼女たちの記録が問いかけるものは、時間旅行の真偽だけではなかった。
過去を見たつもりで、私たちは何を見落としているのだろう。
ひとりの女性の欠点を見つけたとき、その背後にある制度の欠点まで、見ようとしているだろうか。
ある人物の出自を知ったとき、その出自だけで人生を説明したつもりになっていないだろうか。
そして、ある人物の名前が、ひとつの事件の代名詞になったとき。
私たちは、その人物が本当に何をしたのかを、確かめようとしているだろうか。
首飾りは、もうない。
けれど、首飾りをめぐる嘘は、まだ消えていなかった。
その嘘が長い年月を生き延びた理由を探すためには、宝石の行方だけでなく、人々が信じた物語の行方も、追わなければならなかった。




