第八話
アナンタラ・パラッツォの、やつの隣の部屋を取って数週間後、マチウから涙声の連絡が来た。
「ムッシュ・リーヴェは、活動拠点を完全にイタリアに移されるそうで…来月にはソロコンサートを控えているそうです…シチリア島カターニャの、ベッリーニ劇場で、一日限りの公演のようですが…」
俺とセデュイールは顔を見合わせる。ルーシュミネさんのソロコンサート。一旦舞台を退いてから頑なに立ってこなかったあの人の晴れ舞台。日本では舞台に上がったらしいが、俺は仕事のせいで、そいつを見ていねえ。現世で見られるなら、ぜひ目に焼き付けたい。
変わっちまったルーシュミネさんを連れ戻す計画は進行中だが、それはそれとして俺はあの人の活躍に前のめりにならざるを得ない。そいつはセデュイールも一緒のはずだ。
…実物のルーシュミネさんに会えて緊張が緩んだのか、腑抜けた願望が顔を出して止まらねえ。今はそれどころじゃねえってのに。
「わかってるな、セデュイール、コンサートより本人確保が先だぜ」
「ああ、当然だ。…お前こそ、わかっているだろうな…」
「あたりめえだろ」
「…」
「…」
「…ならいい」
「…おう」
明らかにソワソワしながら言い交す俺らだ。まったく、どうしようもねえな。
ホテルのハウスメイドを懐柔し得た情報によると、彼がひとりで滞在していることに間違いはないらしい。ただし、彼と肩を組んでいた開襟シャツの男が毎日のように現れ夕方になると彼をどこかに連れて行く。戻りは深夜に及ぶことがほとんどで、毎晩のように違う女性を連れ込んで早朝になると彼女たちを追い出している。
まるで12年前のルーの行動をそのまま再現しているかのようだ。
バロットは今日は別件で不在、武器を入手するための交渉に昔の同僚を訪ねると言っていた。
私はホテル近くの花屋で花束を誂えてもらい、それを手に彼を訪ねる。
午睡の時間、ホテルの隣の部屋に滞在している彼はたいてい一人で部屋に籠っている。チャイムを鳴らすと案の定、不審そうな顔をした彼が扉を開けた。ツンときつい香水の香りと、酒と煙草の匂いが廊下に漂い出る。
「ソロコンサートが決まったそうだな、おめでとう」
「…君は何かな。僕につきまとって嫌がらせしてるのかな。別れ話をしたのはもう何週間も前の話だと思うんだけど?」
「別れたとしても花に罪はないだろう。受け取ってほしい」
「…まあ、いいけど…」
扉に凭れ掛かった彼は深紅のバラの花束を受け取り、むず痒そうに身じろぐ。相変わらず目元はサングラスで隠したままだ。
じっと見つめる私を見上げ何度も口を開いては閉じて、廊下をきょろきょろと見回す。
「…今、一人だから、ちょっと入れよ。祝杯くらいは、あげさせてやる」
彼はそう言って私を部屋に招き入れた。
彼の滞在しているスウィートルームは私たちの部屋とほとんど同じ形状だ。部屋の奥にキングサイズのベッド、傍らにチェスト、オーク材のテーブルに肘掛け椅子。カーテンは引かれ、真昼だというのに薄暗い間接照明だけが灯されている。
肘掛け椅子に私を掛けさせた彼はグラスをふたつ用意し、栓の既に開いているシャンパンをそこに注ぎ入れる。彼は昼から酒を飲んでいたらしい。…もしくは、朝からだろうか。
「君も諦めの悪い男だよなア、いつまでも僕のまわりをウロチョロしてさ、気まぐれのおこぼれでも頂戴しようってのかい」
「お前がくれるものなら、喜んで受け取ろう」
「あんまりしつこいと、ボディガードに言いつけて出禁にしてもらうぞ。ホテルは勿論、コンサートも出禁だ! どうだい、ショックかい?」
「それは困るな。…ルーの音楽は私の生き甲斐だ」
「重っ…やっぱりちょっと異常だよ君。恋人に逃げられて平然と顔見せに来るのもそうだけど!」
「お前は今の生活に満足しているのか」
「…なに?」
「満たされているのか」
「…何が言いたいんだ? 君と離れて僕が寂しくないかってこと? 寂しくって死んじゃいそーうとでも言うと思った? たいしたナルシストだね、まあ俳優なんて皆そんなもんか…」
グラスを呷った彼はそれを空にして、新たに手酌で酒を注ぎ入れる。泡立つ琥珀色の液体が満たされ、それにまた彼は口をつける。
どこか追い詰められた獣のような風情だ。痛々しくさえ感じる。私は彼をじっと見つめて、その真意を探る。サングラスの奥の瞳を覗き込む。彼はうろうろと視線を彷徨わせ私を見ようとしない。自分の部屋なのに、どこか落ち着かなげな様子だ。
「…お前に、見限られる理由がわからなくてな。イタリアに住みたいなら家を買おう、お前の望みどおり…」
「はあ!? こっちが嫌だって言ってるのに!? 僕は君から自由になりたいんだよ、縛られるのはゴメンなんだ!」
「お前は好きなように生きればいい、何も束縛はしない」
「君の存在が僕の人生には邪魔なんだよっ! なんでわからねえのかなア、君はバカなの? これだけ言ってもわからない? 僕は自由に生きて、ピアノを弾いて、有名になりたいんだ! 君に愛玩されるだけじゃなくって、皆にチヤホヤされたいんだよ!」
「毎晩違う女性を連れ込んで関係を持って? 日中は部屋に閉じこもって、自由を満喫しているというわけか」
「君、僕を監視してるのか? ここまでくるともう犯罪だな。警察に捕まえてもらおう。君の異常さを糺すにはもうそれしかない!」
「警察でもなんでも、好きに呼べばいい。私は構わない」
彼は唇を噛んで、肘掛け椅子に立て膝をする。汚れた靴のまま座面を踏んで、こちらを睨みつける。
「君、喧嘩を売りに来たのか?」
「とんでもない。祝いに来たのだ、お前の晴れ舞台のために」
「ふん、未練タラタラの年中発情男がよ。どうせ頭の中はセックスのことで一杯なんだろ、けどもう君にはこのカラダは抱かせてあげませーん。ざまあみろ。場末の男娼窟で新しい奴隷でも漁ってきな!」
「私はお前しか要らない」
「クソがよ、そんな目で見るなよ、この色ボケ野郎…」
「私のお前への気持ちは変わらないよ、永遠に」
「……、……」
口を開閉させるだけになった彼は黙り込む。酔いのせいか、頬がひどく赤く染まっていく。やけくそのように杯を呷り、また酒を注ぐ彼に「もうその辺にしたらどうだ」と声を掛けると、「僕の好きにさせろ」と不貞腐れたように呟く。
「君は一杯も飲んでやがらねえな、せっかくの祝杯をよ。僕の祝いに来たんだろ? 飲みやがれ、酔って醜態を晒せよ、僕の前でさあ」
「……酔うと、私は自分が制御できなくなる」
「へええ? どうなっちゃうんだい?」
「お前を組み敷いて、思うがままに扱ってしまう…お前が泣いても喚いても、聞き入れられなくなる。…今も、必死に抑えているのだ、」
ごくりと彼が唾を呑みこむ。グラスをテーブルに置いて、身を乗り出す気配がある。
「…僕に欲情、してる? やりたくなっちゃった?」
「…酒を飲まずとも、私はお前に酔わされているよ。いつでも…」
「いつでも。いつでもときたか!」
キャハハハと高い声で笑った彼は肘掛け椅子から飛び降りて、迷いのない足取りで私のもとに来る。座面に膝をついて、上から私を見おろす。
「君がそんなにしたいなら、咥えろよ、僕のアレを。跪いてブザマに僕の精液を啜れ。上手にできたら、抱いてやるよ」
彼の細い腰を抱き寄せ薄い腹に頬を寄せる私を哂う声がする。口で彼のジッパーを引き下げると下着をつけていない彼のものがまろび出る。腰に引っかかったジーンズを引き摺り下ろして放り棄て、床に膝をついて呼気を吹きかけると彼のものは半勃ちになる。
発熱しているように彼の身体はひどく熱い。ぽたりと汗が垂れ落ちて、見上げた先のサングラス越しの目は私を凝視している。
「…ベッドに行こう、ちゃんとお前に、尽くさせてくれ」
引き攣ったような顔で頷く彼を抱き上げ性急にベッドへと運ぶ。乱暴に放り投げられた彼は笑いながら足を開き、私はその太腿に口づけた。




