第九話
「朗報、朗報だぜえ、リーヴェちゃん!」
どこかでファルコの浮かれたような声がする。
僕は横たわったままそれを聞いてる。
頭はぼんやりしてペンを持つ手に力が入らない。仕事をしないとって思うのに、身体が動かせなくなっちゃった。クスリを打たれすぎたせいかな? それともファルコの暴行のせい?
ファルコの黒い靴が僕の目の前で止まり、彼がしゃがみこむ。
「うわ。くっせえな、何日風呂に入っていないんだよ。囚人じゃねえんだから、きちんとお風呂に入りまちょうねー?」
髪をわしづかみにした彼が引っ張るので引き攣れたような痛みが走る。こんなにぼんやりしてるのに痛みは感じるなんて、最悪だ。何も感じないでいられたら、もっと楽になれるのに。
ぱっとやつが手を離して、ごちんと額が床にぶつかる。いってえな、もうどこもかしこも痛い。床で身体をちぢこめる僕をファルコは鼻で哂って、面前でチラシをひらひらさせる。
「お前のソロ・コンサートが決まったぜえ。よかったなア。イタリアではお前は過去の人だけど、こいつで一発当てりゃあもーっと仕事が舞い込むだろうなア」
「こん、さー、と…?」
ぼんやりとした視界にカラフルな紙面が見える。時間と場所と共に、大々的に、僕の顔写真が載っている。こんなのいつ作ったんだろ。それに、コンサートだって? それってぼくが、この部屋から出られるって、こと? …
「心配しなくても、こいつはお前の替え玉がちゃーんと務めてくれるからなア。お前が喝采を浴びてりゃセデュイールも喜ぶだろう。お前はここで裏方に徹すりゃいい。表舞台に立つリーヴェちゃんは、二人もいらないからなア」
「か、え…?」
「セデュイールの奴は気づくかな? 気づかねえだろうなア。なにしろボスのお抱えの、凄腕の医師の仕業だからなア。替え玉の奴はセデュイールと縒りを戻しちまうかもしれねえな。あいつに口説かれたから抵抗するのは一苦労だろ…リーヴェちゃんは指を咥えて見ているしかねえな、かわいそうに、こんなボロ雑巾みてえになって…」
最後の方は堪えきれないとでもいうように噴き出しながらの言葉だけど、何を言っているのかはサッパリわからない。脳みそが委縮しちゃってる感じだ。言葉は音として耳に入るけど、断片的な情報しか頭に入らない…。セデュと縒りを戻すって誰が? いったい誰の話をしているんだ?
「リーヴェちゃんも、そうだなア、そのお綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして、誰かわからねえくらいに変えちまったら、外に出してもらえるんじゃねえか? 火で炙って、引き裂いて、縫い付けて…醜く爛れた顔で、セデュイールの前に出てみろよ、ゴミみたいに門前払いされて終わりだろうけどな!」
「そと、でられる…?」
ぱっと面前に光が射したように感じて僕はファルコのズボンの裾を掴む。ぎりぎりと力を籠めると少し身体が浮く。そのまま僕はやつに縋りついて、懇願していた。
「いいよ、かお、かえて…そとにだして、くれるなら、ぐちゃぐちゃにして…おね、がい、…」
セデュならきっと、僕の顔が変わっても気づいてくれる。僕だってわかってくれる。
抱いてくれることはもうないだろうけど、僕を愛してくれることは、もうないだろうけど、僕の創る音楽は、愛し続けてくれるはずだ。
それなら全然いい。ここでゴミみたいに使い潰されて死んでいくより、全然いい。
セデュのもとに帰れるなら、なんだっていい――
「薄気味の悪ぃヤツだな、離しやがれ!」
振り払われた僕はまた床にぐたりと横たわり、ファルコにしたたか腹を蹴られる。何度も何度も。げほげほと咳込んで、胃液を吐いたあたりで僕は意識を失った。
目が醒めたとき、僕はベッドに寝かされていた。視界が悪い。とうとう片目が見えなくなっちゃったかな? 動きづらい指で触れると、片目には包帯が巻かれていた。ついでに腕にも頭にも。包帯の巻かれていない箇所の、青痣のいくつも滲む腕にはぶっすりと管が刺してあって、ベッドサイドには点滴がぶらさがってる。また何か薬を盛られてると思って、うまく動かない指でそれを引き抜こうとする僕を、硬い掌が止めた。
「栄養剤だ、心配するな、…」
ぱちぱち瞬くとベッドサイドには図体のデカい、首の短い、四角い顔の男がいた。眉間に深く皺を刻んで僕を見下ろしている。全然似ていないのに、愁いを帯びたような眼が、セデュを思い出させる。…
「ファルコのやつはここには近寄らせないようにした。監視役は俺が変わった。安心して休むといい」
ぼんやり彼を見返して、それからペンがどこにもないことに気付いて、僕は慌てる。
「しごと、まだ、…」
「新しい仕事は入れてねえ。ボスも外出中だ。しばらくここには戻らねえ。…お前は、眠れていなかったのだろう。きちんと睡眠を摂れ。お前を壊したいわけじゃないんだ、俺たちは…」
「……」
なんだか、ひさしぶりに、人間扱いをされたような気がする。
四角い顔の男は小柄だけどクマさんみたいに肩が分厚くて、首も太くて、ぶん殴られたら昏倒じゃすまないような雰囲気なのに、僕を気遣うように言葉をかける。
「欲しいものがあったら言え。なんでもいいから…」
僕は唇を開いて、乾いた声で、胸に引っかかっていたことを尋ねる。彼なら応えてくれそうだと感じたからだ。根拠はないけど。全然、何の保証もないけど。
「かえだま、って、なんのこと…」
ちらりとクマさんみたいな男は目を逸らす。ベッドサイドにはくしゃくしゃになったチラシが置かれている。僕のコンサートのチラシだ。僕の出ない、別の誰かが演るというコンサートの。
「…お前の代わりだ。より効率的に金を稼ぐために…お前を作曲に専念させて、メディア露出は替え玉に任せるんだ…」
「だれ、なの?」
「フランスのピアニストだって言っていたか。場末のバーでピアノを弾いていた奴らしい。詳しくは知らないが。…背格好が似ているヤツの顔を変えて、髪を染めて、あとは化粧でごまかして…本人に仕立て上げるんだ」
「ぼくのかおも、かえたら、そとにでられる? ファルコがいってた…」
「…あいつの言うことは信じるな。どのみち、難しいだろうよ。ボスはお前を手放す気はなさそうだし…替え玉にも万一のことがあるかもしれん」
希望の道がまたひとつ閉ざされて、僕は沈み込む。セデュに連絡を取る手段はないままだ。彼がどこでどうしているのか、僕は知らない。知らされない。もしも彼が替え玉を僕だと思い込んでしまったとしても僕には、どうにもできない。
考えていたら涙が滲んできた。久しぶりに優しくされたせいかな。蝕まれた草花みたいに、へなへなと崩れそうだ。
「…傷が塞がったら、風呂に入れてやる。何か食べたいものはねえか」
クマさんの低い声が僕を慰めるように響く。わんわんと頭の中に反響する。僕が唯一縋れるものはもう彼以外にないのだ。僕はちらりと彼を見上げて、涙が止まらないままで、へたくそに笑って見せた。
「レモネードがのみたいな。おいしいんでしょ、ここの…」
「…ああ、わかった。持ってくる」
端的に話す口調もなんだかセデュに似てる。目を閉じていたら、低く響く声も、気遣わし気な掌も、セデュのものみたいに感じて、僕の寂しさをかりそめに慰める。
「君の名前は、なんていうの」
扉から出ていく直前に彼に尋ねると、クマさんは振り返って僕を見て、ぽつりと名乗った。
「…ラヴィックだ、リーヴェ」




