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≪第八部≫ウンディーネは未明に微睡む ーマフィア編ー  作者: 咲佐きさ


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第十話

 内腿にキスをしてそこを舐めると押し殺したような声が上方であがる。手で彼のあれを慰めながら身を起こし、彼の横に手を突いて組み敷く。外されたサングラスはベッドサイドに置かれ、間接照明に淡い色の瞳が揺らいでいる。どこか期待するような瞳は見覚えのあるものだ。欲に頭が支配されている人間特有の色だ。私は彼のあれから手を離し濡れた掌で彼の頬を汚して、なぞるように手を這わせ――

 彼の細い首を、ぎゅうと締め付けた。

「…、…」

 彼の唇が茫然と開き空気を求めて喘ぐ。私は彼に跨ったままそれを見下ろしている。苛立ちが掌の力を強くして、彼は捕らえられた虫のように手足を藻掻かせる。

「お前は誰だ? ルーはどこにいる」

 その耳元に吹き込むと、彼は目を剥いて信じられないものを見るように私を見つめる。

 外したネクタイで暴れる彼を拘束し、枕を顔に押しつけると籠った声が叫ぶ。

「僕はなにもしらない、被害者なんだ、助けて、助けてくれえ」

「何も知らないのか。では生かしておく必要もないな」

「やめ、ひとごろし、いやだ、僕は死ぬのはいやだ!」

 枕に力を籠めると下敷きにした身体が震える。抵抗が弱まってきたタイミングで枕を外してやると、汗と涙に塗れた顔が大きく呼吸する。厚く塗られたファンデーションが崩れて枕に付着している。再度枕を押し付けようと掴み上げる私に怯えたように彼は縮こまり、顔の前に拘束された手を掲げ隠すようにして、涙声を出す。

「さらわれたんだ、有無を言わせず、顔を変えられて…僕は被害者だ、やつらのいいように人形にされてるだけなんだ…」

「やつらとは、ブラスファミリーのことか?」

 何度も頷いた彼はようやっと手をどかし、恐怖に染まった瞳で懇願するように私を見る。

「コンサートだ、あれに出るために僕は選ばれたんだ、やつらに…僕はただのピアニストだったのに…人を傷つけたこともない、虫も殺せない人間だったのに…」

「それで、ルーのふりをして、遊蕩に耽っていたというわけか」

「いいだろ、そんなの、人生狂わされたんだ、ちょっとくらいいい思いしたっていいだろ…結局顔だ。顔がよけりゃあ女も寄ってくるし、成功も向こうからやってくる。お前たちみたいな人間にはわからねえだろうなア、スキルも、ガッツも、やる気もあるのに、顔が悪けりゃ相手にされない、審査員も見た目で評価を変える。僕がコンクールに落ち続けていたのも全部見た目のせいさ。しがない場末のバーでしか仕事がなかったのも全部この顔のせい…僕の実力は本物なのに、僕は天才なのに…」

「…お前の身柄は拘束させてもらう。顔もまた変えてもらおう。何か要望はあるか?」

「あっじゃあ…映画俳優みてえな顔がいいな、今度は…へへ、あんたみてえな、色男がいい…」

「…検討しよう」

 パスポートを持たせ、拘束したままの彼をバルコニーに連れ出す。隣のバルコニーまでの間隔は1メートルもない。やつを先に飛ばせ後から柵を飛び越え、テラスから窓ガラスを叩けばいつの間に帰っていたのか、室内のバロットが駆け寄る。

「無茶しやがるな、セデュイール…武器も持たずに乗り込んだのかい」

「彼がひとりの時間を狙って行った。武器ならこの身ひとつあれば十分だ」

「自信満々なのは結構だが、無謀すぎる。今後はやめてくれよ」

 バロットはちらりと拘束された彼を見遣り、目を逸らそうとして、もう一度まじまじと彼を覗き込む。

「…え? ルーシュミネさん? いつから青い目になったんで?」

「別人だよ。やつらに顔を変えられたそうだ」

「へええ…? 声までそっくりで、ずいぶん精巧な…え、お前いつから気づいてたんだ?」

「最初から違和感はあった。確信したのは部屋に行ってからだ。黒子の数と場所が違っていた」

「黒子っつーとあれか…脱がせたのか、こいつを…」

「ああ」

「色仕掛けされたんだな、あんた…」

「色仕掛け、されました…」

「無駄口を叩いているヒマはないぞ、ひとまずパリに戻る。バロットはトランクにこいつを入れろ。宿を引き払う」

 受話器を取り上げ、パリ行きの旅券確保に動く私を胡乱気に見て、バロットは長いため息を吐いて肩を竦めた。

 



 ちゃぽんと湯に浸かると全身がほどけていくみたいに感じる。ちょっとまだ傷は沁みるけど、やっぱりきもちいい。ふうと力を抜く僕の頭をラヴィックが掻き回す。一回だけのシャンプーじゃ全然泡が立たない。もう何週間も風呂に入ってなかったからだ。ずっと、寝る間も食べる間も惜しんで、作曲してたから。

 裸の腹にはまだファルコに蹴られた青痣が消えない。腕には注射針の痕が無数にある。痛んだ果物みたいに、汚い身体だ。そんな臭くて汚い僕を、ラヴィックは苦にする様子もなく、肩を貸して風呂場まで運んで、今はこうして頭を洗ってくれている。ひどく手慣れた様子だ。

 一度頭を流して再度シャンプーするラヴィックに僕は笑いかける。ありがとうって感謝の気持ちで。

「ずいぶん慣れているね、君は介護の経験でもあるの?」

「…ガキの頃から、弟の世話は俺の役目だったから…」

 四角い顔のラヴィックは無表情で訥々と答える。その掌は丁寧に優しく、僕の頭を撫でる。

「弟さんも幸せだねえ、こんなやさしいお兄ちゃんがいて…」

「どうだかな。もう20年以上も前に逝っちまったからな。空襲にやられて」

「…ごめん、無神経だった」

「……」

 またざぶりと湯を掛けられる。ふるふると首を振って泡を跳ね飛ばすと着衣のラヴィックが呻る声がする。

「あまり暴れるな、俺が拭いてやるから…」

 ふわふわもこもこのバスタオルを優しく押し当てながら彼は言う。やっぱりセデュみたいだ。僕のおにいちゃん、僕を慈しんで、愛してくれる、恋しい恋しい僕のセデュ。

 ああ会いたいなあ、セデュに会いたい。今すぐに!

 今までずっとドン底にいて、何も考えられなかったから、やっと浮上した僕はいろいろ思い出してしまって、寂しさとか、悲しさだとか、そういうものが一挙に襲い掛かってくる。

 俯くと湯の中には垢じみた汚い身体がぼやけている。泣いたってどうにもならない。なんの意味もない。ぱちぱち瞬いているうちに視界はクリアになる。ラヴィックの手は優しく僕を泡立てる。…

「君はどうして、こんなところにいるの」

 気を引きたてるように、僕は彼に尋ねる。会話して、少しでも情報を手に入れて…それで余計なことは、なるべく考えないようにしたかったからだ。

「ここって、マフィアの本拠地、なんだろ。非合法の組織ってことでしょ? 君みたいな…やさしいひとが、いるべき場所じゃない、ように思うんだけど」

「ボスは俺たちに、…住むところも、身寄りもねえ俺たちに仕事をくれた。食うものを、休む場所をくれた。国に見捨てられた俺たちを救ったのはボスだ。だからボスには恩義がある…」

「…ボスを裏切ることはできないってこと、」

「お前も従順にしていれば悪いようにはされない。外には出られねえが…それ以外なら、何不自由なくここで暮らすことができる。欲しいモノならなんでも手に入れてきてやる、お前が望むままに」

「…僕の望みは、…家に帰してもらうことだから、君には叶えられないね」

「……」

 腕まくりした彼の掌が、湯に浸かった僕の腕を擦る。マッサージしているみたいで気持ちがいい。ほうとため息を吐いて顔を上げれば、眉を顰めたラヴィックの渋面が映る。僕を簡単にノックアウトできそうな太い腕と厚い肩、短い首のクマさんみたいなラヴィックは苦虫を噛み潰したようなため息を吐いて僕に前を向かせる。

「ここに慣れることだ。お前はもうどこにも行けねえ」

「絶対にだめなの?」

「替え玉に万一のことがあれば、お前が担ぎ出されるだろうが…」

「また替え玉か…」

 僕と同じ顔をしてるとかいう、僕の身代わり人形。僕の代わりに喝采を浴びて、僕の代わりにセデュに、愛されるかもしれない、僕のライバル。ふるふるとまた首を振って鬱陶しい思考を振り切る僕に、ラヴィックの文句が飛んだ。

 



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