第十一話
空港のトイレでトランクから彼を解放し、三人分の旅券を持って搭乗口に急ぐ。彼の逃走に気付かれれば追手が掛かる可能性が高い。じりじりした思いで飛行機を待ち、足早にゲートを抜けてタラップに足を掛ける。追手はまだ来ない。彼を真ん中に挟んでバロットと座席に掛け、シートベルトを装着するまで緊張は解けなかった。
「君はこの顔の持ち主の、恋人、なんだよね? 男同士のセックスってどんな感じ? 気持ちいいの?」
隣の彼は機上の人となった途端に気が緩んだのか、べらべらと喋りまくる。ルーの顔をしているので邪険にもできず、曖昧に頷く私をバロットの冷たい目が見ている。
「どんなふうに? 君が抱く方なんだよね? それとも代わりばんこにするの? 君は男に抱かれたことある?」
「…ない」
「へええ、抱く方専門ってことか。役割分担って決まってるものなの? 普通は」
「他所はどうか知らない。自然にそのようになっただけだ…」
「自然にはならないだろー! 作為があるだろ絶対。君は抱かれたいと思ったことない? 負担を僕にばっかり押し付けてたってことじゃないの? 罪悪感とかはないのお? 受け入れるほうって、大変なんだろ、色々とさ…」
「てめえはルーシュミネさんじゃねえけどな」
「ルーが私を抱きたいと望むなら、応えるつもりではいる…」
「へー!」
「そうなんすか!???」
バロットの大声に乗客らが振り返り、隣に掛けた、ルーの顔をした男は腹を抱えて笑っていた。
主のいないダイニングで、僕はピアノを弾く。ほかに気晴らしの方法なんて思いつかない。ここにはカジノもないし。
部屋からずっと付き添ってきたラヴィックは壁に凭れ掛かって腕組みして、真剣な顔で演奏を聴いている。前に聞いたら、コンサートなんて行ったこともないって言っていたから、もしかしたら初めてのピアノかもしれない。世界にはいろんな人がいる。ピアノを聴くような環境にいられない人、今日生きていくのに必死にならざるをえない人、虐げられた人たち…。
僕には彼らの本当の意味での苦しみ痛みはわからないから、ただそれらが少しでも癒えればいいなと思って、弾くだけだ。
演奏の途中で扉が開いて、アンフェリータが顔を出す。彼女ともなんだかんだ、長い付き合いだ。碌な付き合いじゃなかったけど。
アンフェリータは椅子に掛けテーブルに頬杖ついて物思いに耽る。僕の演奏を聴いているのかいないのかわからなかったけど、僕が演奏を終えると夢から覚めたみたいに顔を上げて僕を見た。
「――ファルコも、意気地なしな男ですわね。あなたの顔を、二目と見られないくらいにしてやるなんて息巻いていましたけど」
鼻で哂って足を組む彼女は、今日はオレンジのワンピースを着ている。南国出身みたいな浅黒い肌と黒髪によく似合っている。
「お嬢、あなたがやつをけしかけたのか」
「あらあら、もう新しい男を味方に引き入れましたの。鮮やかな手腕ですこと」
気色ばむラヴィックにアンフェリータはころころ笑って蔑むように僕を見る。
じりじりとした苛立ちがその黒い瞳に燃えている。僕は、彼女に憎まれるほどの身に覚えもないので、困惑するばかりだ。
「どうして君は僕が憎いの? 僕、君に何かした?」
「それを聞いてどうなさるの。自分を慰めるのに使うおつもりなのかしら? 新しい男に慰められる材料にでもなさるの?」
「ラヴィックはそんなんじゃないよ…」
「どうだか。あなたの本性は暴かれていますからね、清廉なふりなどなさらないで」
「僕はたしかにロクデナシだし、君が疑うのも尤もだと思うけど…」
「ほら、そうやってまた口先だけで自分を卑下して。可哀想なご自分を演出なさって。わたくしは加害者のように仕立てあげられるのですわ。あなたの策略で」
「君の境遇は、しんどかったろうなと思うけど。だからって人を陥れてもいい理由には、ならないんじゃないか…」
アンフェリータはぴたりと笑顔をやめて、僕をまじまじと見返す。あの養老院での彼女の告白を僕が覚えているのが意外だったようだ。親に売られ、大人の男に、幼い少女だった頃に凌辱されて、尊厳を圧し折られ、貧困の中で泥水啜って生きてきたという彼女に、青空を見上げることを諦め、犯罪に手を汚すことに躊躇いのなくなってしまった彼女に、僕が伝えられることはなんだろう。
僕は彼女の痛みも苦しみもわからないから、お為ごかしの言葉しかあげられないけど、それでも、何か伝えたい。傷ついた少女が、少しでも前を向いて歩けるような言葉を――
「僕は君に何もしてあげられないけど、…君を助けることもできなかった僕に、こんなことを言う資格があるかわからないけど。罪を犯すってことは、自分を汚すことだよ。自分で自分の地獄への道を、舗装しているみたいなものだ。もうやめなよ、そんなことは…」
「あなたにわたしの何が分かるの」
「……」
「あなたのすべてが嫌い。大嫌いよ。甘ったれで、男に依存して、寄りかかって、被害者ぶって、偽善者ぶって、何もかもぶち壊しておいて、全部捨てて、自分ひとり楽になろうとして。あなたが生きていることが憎い。あなたが目の前にいることが、鳥肌が立つくらい嫌なの。ああ、あのとき、死んでしまえばよかったのに…ゴミ虫のように潰れて、ぐちゃぐちゃになってしまえばよかったのよ。消えろ、死ね、あんたはここから出られないのよ、一生ね! 絶望して、嘆いて、また飛び降りなさいな、断崖につれていってあげる、岩にぶち当たって潰れればいいわ…」
「お嬢!」
珍しく、感情をあらわにするアンフェリータにラヴィックが駆け寄る。僕は呆然と憎しみに燃える彼女の目を見ていた。僕を通して、たぶん、彼女を痛めつけてきた何かに対して、悲痛な叫びをあげる彼女を見ていた。もしかしたら、それは彼女の、母親の姿だったのかもしれない。




