第十二話
どこかから帰還したボスに呼び出されたのはその数日後だ。ボスの私室にまでついてきてくれたラヴィックは部屋の片隅で壁に凭れて腕を組んでいる。
ボスの私室は二階にあって、重厚なマホガニー材の文机にはアール・デコのキノコ型のランプが載っている。カーテンはベルベット地の濃い緑で、格子のない窓枠の脇に纏められ、全開の窓から潮風が吹き込む。
文机に掛けたボスは葉巻を吹かしながら僕を見て、柔和に笑った。
「私の留守中、アンフェリータやファルコが迷惑をかけたね。君は私の大事なビジネスパートナーだ。彼らには君を丁重に扱うよう、今一度指示を出した」
「…そいつはどうも」
僕はチラチラと、ボスの手元にある紙片を窺う。そいつは僕のコンサートのチラシだ。僕じゃない僕が出演するとかいう話の。
「話はそれで終わり、ですか。僕を外に出してくれたりとかは…」
「それなんだけどねえ」
僕の言葉を遮るようにボスが大声で遮る。ギシリと椅子に寄りかかって、僕を睥睨する。今までにない鋭い眼光に僕は冷や汗が出る。恫喝されたら腰が抜けそうだ。いやいや、こんなことじゃダメだ、ビジネスパートナーって言うんなら、もっと僕の権利をしっかり主張しないと――
「来月のコンサートは、君に出演してもらうことにした」
「へっ?」
「ちょっとした手違いがあってね。だがまあ、1日だけのことだ。構わないだろう? 当日は勿論、護衛を付けるよ。会場も部下に張らせる。港にも部下を配すから、まあないとは思うが、逃げ出そうなんて考えは起こさないことだ」
コンサートに出られる。僕が? じゃあ替え玉とやらはどうなったんだろう。失敗したのかな? 何はともあれ、外に出られる。それだけは間違いがない。飛び上がって喜びたいけどガマンだ。ボスの前では、隙を見せない方がいい。
――セデュも来てくれるかな、僕のコンサートだ、きっと来てくれるんじゃないかな。あいつは僕の音楽の一番のファンだから。会場で一目だけでも彼に会えるなら、今までの苦労も吹っ飛んじゃう。ああ。はやく来月にならないかなア!
「曲はコレだ。必要ないかもしれないが、練習にはダイニングのピアノを使ってくれていい。私も期待しているよ、音楽を愛する者として」
ボスの白々しい言葉も碌に耳に入らないくらい、僕は有頂天になっていた。ウキウキして、1センチくらい浮いちゃいそうだ。楽しみだな、これでやっと音楽と、プラスの感情で向き合える。作曲に追われているときは、自分の才能を恨んだものだけど!
セデュに会えたら、もしも言葉を交わせたら――そしたら、僕を諦めるように言おう。ちゃんと自分の口で、お別れを言いたい。あいつが無茶して、倫理観の欠如したボスの部下たちに撃たれでもしたら最悪だもの。
僕はもう彼らからは逃げられない。一生追い続けられると思う。
――セデュを、巻き込むわけにはいかないんだ。
僕は決意を固める。そんな決意を嘲笑うみたいに、遠くの地平線に浮かぶ船から、ボーと呑気な汽笛が響いた。
扉が開かれる。夕暮れの鋭い日差しが目を射る。オレンジに染まった風景が鮮やかに眼前に現れる。僕の両側はそれぞれ拳銃を携えた男たちで固められ、鉄柵の門まで連行される。がっちりと閉められた門前には黒光りするランボルギーニが何台も控えていて、僕はその一台に押し込められる。ラヴィックともう一人、タバコくさい男が隣に座る。
衣装は既に着替えてある。いつ仕立てたのか、僕の身体に薄気味悪いくらいぴったりフィットする黒のタキシードだ。ボスやアンフェリータはまた別の車で現地入りするらしい。
滑るように車は発進しガラガラと鉄柵の門が開かれる。
久しぶりの外の世界だ。オリーブの並木やレモンの木の向こうにオレンジ色の海が見える。宝石みたいにきらきらと煌めいている。光が遊んでいるみたいだ。気まぐれに、放埓に、自由自在に、――
舗装されていないでこぼこの道を走ってしばらくして、石畳のある町に入る。最後の残照が石畳をなめらかなオレンジに染めている。劇場前の噴水では、ナマズみたいな像から勢いよく吐かれる水がちかちか光を反射する。壮麗なバロック式のベッリーニ劇場の面前で、僕は車から下ろされる。腕をしっかりと掴まれたまま裏口に向かう。劇場の外には既に見張りが幾人か立っている。劇場の中にも。逃亡する気を起こしたらすぐに僕を撃ち殺せるように、かな。こんなに大勢で固めなくなって、逃げやしないのに。
命懸けで頑張ろうったって、僕には力がなさすぎるんだから。




