第十三話
控室に通され、ラヴィックは出て行った。ここには僕ひとりだ。鏡台の前に座ってぼんやりと青褪めた顔を眺める。少し痩せたかもしれない。いろいろ無理をしすぎたせいかな。
リハの時間は貰えなかった。ぶっつけ本番ってヤツだ。コンクールなんかで何度も経験してるからそれはいいんだけど、曲目がなあ。僕の意見は一切反映されていないコレは、ボスが考えたのかな。
リストの『スペイン狂詩曲』『ラ・カンパネラ』『鬼火』って、超絶技巧のオンパレードだ。指がめちゃくちゃ疲れるやつだ。もうちょっとこう、緩急ってもんがないのかな。素人はこれだから困るな。演者の気持ちなんて一切考慮してないんだろ。まあ久しぶりの舞台は、とっても楽しみだけど。スポットライトを浴びてピアノを弾くのは、楽しい。喝采を浴びるのは嬉しい。祝福されているみたいで。…
ガチャリと扉が開く。千鳥足で入ってきたのは、ファルコだ。にやにや笑いながら鏡の中の僕を見る彼を、僕は無表情で見返す。
何しに来たんだろう。本番前に、僕を殴ったりはしないだろうけど…。
「キレイだねえ、リーヴェちゃん。ついこの間まで、ゲロまみれでヒンヒン泣いてた子と同じ人間とはおもえねえ」
「嫌味を言いにわざわざ来たの。ご苦労様」
「強がっちゃって。可愛いねえ。ボスに取り入って、舞台に上がれるようになって、よかったねえ。セデュイールのヤツもきっと君を見に来るよ。久しぶりの再会だ。涙々の大団円! 素晴らしいねえ、感動するよ」
「君は何が言いたいの」
「べつにい? 君の立場をわからせてやろうと思ってさ。セデュイールのヤツが君の傍に近づこうもんなら、良い標的になる。ひと思いに殺すのはシャクだから、脚を撃って動けないようにしてやろう。君とは別の場所に監禁して、なぶり殺してやろうかな。ヤツの悲鳴が聞きたいなあ、どんな音楽より極上のエンタメだよ」
「セデュに何かしたら、許さない…」
「お前に何ができるんだよ。囚われの身のお姫様、ボスの囲われ者がよ。お前はただ指を咥えて見ていなよ、愛しのセデュイールが俺たちに捕まる様をな!」
げらげらとファルコは下品に哂う。酒気を帯びた赤い顔で、だらしなくタキシードを着崩し壁に寄りかかって。嫌な声だ、耳障りな声、キンキン頭蓋に響いて頭が痛い、煩い、煩い、煩い…
「何をしてるファルコ、出ろ!」
ガチャリと扉を開けて入ってきたラヴィックがヤツの腕を引いて連れ出す。やっと静かになった控室で僕は耳を塞いだままで、ぐるぐるとまた考える。
どうやら、僕はセデュと会うのも、ダメみたい。
そりゃそうか、そうだよな、僕のまわりには武装した男たちがいて、一時も放してもらえないわけだし。丸腰のセデュが、喧嘩なんか碌にしたこともないお育ちのいいセデュが、むくつけき男たちに制圧されてしまうのなんて簡単だろうし。
奴らはたぶん人前で発砲することも躊躇しないのだろう。そういう世界なんだ。僕は、そういう奴らに捕まっちゃってるんだから。
考えが甘かったなー、でもファルコのやつが指摘してくれてよかったかも。無防備にセデュに近づいて、彼を危険にさらすところだった。危ない危ない。
僕は覚悟を決めたんだ、セデュを守るって決めたんだから、会えなくたってかまわない。舞台の上の僕をセデュに見てもらえるだけで満足だ! さあ、間もなく幕が開く。僕はピアノを弾くんだ。僕は透明になって、音楽を奏でるだけの機械になればいい。何も考えるな、もう考えることはやめにしろ、どうしようもないことに拘ったって、いいことなんてありゃしない。
ラヴィックが出番を告げ、舞台の袖まで僕に付き添う。
暗闇に舞台の光が斜めに射しこんでいる舞台袖で僕は深呼吸して、一歩踏み出す。拍手がどこか遠くでしている。バロック式の、豪奢な金の装飾のある劇場内部、赤い革張りの座席には人の顔がいっぱいだ。セデュの顔を探して視線を彷徨わせたけど、僕はすぐに諦めてしまった。
――ピアノの前に掛けて、呼吸する。手を浮かせて、無限に見えるような白鍵と黒鍵の階段に今から指を遊ばせるんだ。ポンと音が響く。指は考えなくても、自在に動く。調律は完璧だ。僕は雨だれのような音の雫を弾いて、水面を求める人のように、音楽に溺れる。僕の生きる道はもうこれしかないんだ。でも悲観はしない、音楽は僕と君との大切な絆だ。途切れることのない、誰にも汚されない、大切な、大切な――
潮騒のような喝采が聞こえる。どんどんそれが大きくなる。ブラヴォーって叫ぶ男の人の声がする。立ち上がって拍手する観客が見える。スポットライトが暑い。首元まで締めた襟元が苦しい。息が苦しい。ピアノから離れると呼吸がひどく苦しくなる。できることなら永遠に弾いていたかった。立ち上がる僕に、舞台袖から花束を持った女の子が近づく。すらりとした、黒髪ボブカットの女の子だ。女の子は無言で僕に花束を渡す。匂わしい大輪の深紅のバラの花束だ。
僕はそれを受け取って、客席に向かって、茫然としたまま、お辞儀した。
花束を抱えて控室に戻る。バラの甘い香りが個室に満ちて、また胸がぎゅうと苦しくなる。花束にはメッセージカードが添えられていた。震える手で開くと、セデュの文字がある。
『終演後、屋上にて待つ』と、それだけ。
僕はカードを皺が寄るほどきつく握りしめて、どうしようかと迷って、視線を彷徨わせて――どこにも答えが見つからないまま、扉を開けていた。
廊下にはラヴィックが待機している。ぼんやりと青褪めた顔を出した僕を不思議そうに見て、「どうした」と問いかける。
「ちょっと、…お手洗い、行きたいんだけど」
「案内しよう、こっちだ」
メッセージカードを胸ポケットに仕舞って、タキシード姿の僕はラヴィックについて廊下を歩く。階段の手前で男とすれ違う。ラヴィックは手を振って男を追い払って、僕の背を優しく押す。廊下でラヴィックと二人きりになった僕はぴたりと立ち止まって彼を見上げる。どうしようか考えて、あやふやな可能性に賭けてみることに決める。
「外の空気が吸いたいな。ちょっと気分が悪くて…」
「テラスに出るか」
「屋上、行きたいな。…逃げないから、いいでしょう?」
「……」
ラヴィックは無表情のまま僕を見下ろす。少しの間があって、彼はまた僕の背を押した。
「屋上はこっちだ」




