第五話
男物のシャツとスラックスが届けられたのはその翌日だ。ぶつぶつ言うファルコを従えて入ってきた四角い顔の無骨な男は、ベッドの上に着替えを置いて、ぱらぱらと黒い手帳を開く。
「お前に仕事が入った。F社のCM曲3曲、商品とコンセプトはこちらの書面に記載されているからよく読むように。締め切りは1週間後だ。アメリカのロックミュージシャン『R&B』の新曲2曲、歌詞は出来上がっているからこれに音を付けろ、締め切りは2週間後。それから半年後に公開する予定の映画の劇版、こいつは作曲家が途中で飛んだらしい。残りの楽曲を仕上げろ。締め切りは4週間後。それから――」
「待って待って、ちょっと待って! は!? なんだいそのスケジュール!? 音楽がオンセンみたいに続々湧いてくるとでも思ってるの!?」
「お前は天才なんだろう。できないのか?」
「天才じゃない! 凡才です! マジで無理! 絶対、中途半端なことになっちゃう!」
「ボスが受けた仕事だ、ブッチするなんて許さないぜえ? 時間が足りないって言うなら、寝なければいいだけだ。こっちにはクスリの用意もあるからなア?」
小柄な四角い顔の男の後ろからファルコが顔を出して舌なめずりする。クスリって言うと、イギリスで打たれたあいつだろうか、それとも覚醒剤? いずれにしろぞっとしない。僕は重いため息を吐く。奴隷である僕に拒否権はない。やるしかないんだ。こいつらに囚われた時点で、僕の運命は定まってしまっていたんだから。
無駄口を叩く間も惜しいと僕は五線譜を広げ、びっしりと字の埋まった書面に目を通す。黙々とそいつを読み込む僕を四角い顔の男はじっと見て、それから一人合点したように頷いて出て行った。
「締め切りを破ったら、どうなるかわかってるよなア? お前はまだボスの拷問部屋を知らなかっただろう、愉しみだなア?」
「煩い黙って。仕事中だよ」
延々と絡んできそうなファルコに一喝するとやつはすごすごと退散する。仕事を続ける限り、作曲できる限り、僕の利用価値はあるんだ。命を削っても、何が何でも、仕事をしなけりゃ、活路は開けない。一瞬ぞくりと寒気が襲って、僕は顔を上げる。
窓辺にとまった海鳥が温度のない目で僕をじっと見て、バサバサと飛び立っていった。
「パリから来た音楽家? 知らないねえ、それより今度の映画で俺と共演しないか、監督に掛け合ってやるからさあ。タイトルは――」
「聞いたことないわね、社長に聞いてみてあげましょうか? 今晩私とデートしてくれたらいくらでも」
「うちの社長が音楽家なんか引き抜くかな? 名前は? …それってあれだろ、10代で薬物中毒で逮捕された…逮捕はされてなかったっけ?」
「ふーん、その子があなたの恋人ってわけ。逃げられちゃって慌てて探し回ってるってことね? よくある話。骨を折ってあげてもいいわよ、異国の地で行方不明者の探索なんて、ひとりきりじゃ心細いでしょう? 夜10時にまた来て、ゆっくり相談しましょ、上の部屋で待ってるから…」
ロビーのソファに掛けたセデュイールはぐったりと肩を落として額を抑えている。駅やホテルをうろうろして教えられたイタリア語を喋って、それでも何の成果もなかった俺はやつの隣に腰かける。
「目撃情報はナシだ。そっちは」
「…確実なものは何も得られなかった。ルーを連れ去ったのは大手の芸能事務所ではないということだろうな…」
「ご新規ってことか? じゃあ役所に最近登記された事業があるか、あたってみるか。俺あイタリア語は片言しか喋れねえから、お前頼むぞ」
「…ああ、わかっている。…」
「役所じゃさすがにカラダの要求はされねえだろうから、安心しろよ」
「そういうことでは…」
セデュイールは口ごもり、はあと重いため息を吐いてから立ち上がる。よく眠れていないせいか、目元に疲れが見える。戦場も経験していないこいつだ、いくら体力があるとはいえ、機上から解放された途端に十人以上と会談して相当に疲労が溜まっているのだろう。
「ちょいと休んだ方がいいんじゃねえか、お前まで倒れたらシャレにならねえ」
「ルーのことが心配だ。じっとしてなどいられない」
「そいつは俺も同じだがよ…」
「横になったところで、眠ることなどできないんだ。…移動中に休むよ、それでいいだろう」
コンシェルジュにタクシーを呼ぶよう声をかけ、セデュイールは苦く笑う。
タクシーの後部座席で腕を組み目を閉じるやつの横顔は、俺にはとても、休んでいるようには見えなかった。
死に物狂いで曲をひり出して締め切りに間に合わせたと思ったら次から次へと新しい依頼が舞い込む。一寸だって休む暇はない。まるで馬車馬って感じ。ずっと同じ姿勢だから身体がぎくしゃく痛む。それでなくたって、寝落ちしたのを発見されるたび椅子ごと倒され殴る蹴るの暴行を受けるから、腹のあたりなんてもう痣だらけだ。監視役のファルコは嬉々として僕に暴力をふるう。セデュに執着して、性奴隷にしたいとまで思いつめていた奴だ、セデュに愛されてる僕が憎くてたまらないのだろう。
他の連中はファルコが僕に暴力ふるうのを容認してる。にやにや笑いながら見に来る奴もいるくらいだ。わかってたけど、完全に治安が終わってる。僕を殺したら金ヅルがいなくなるからってんで、致命傷にならない程度の傷ばかりが増えていく。
覚醒剤も何度か打たれたせいで頭はいつもぼんやりしてる。譜面がぐにゃぐにゃに歪んで見えることもある。そうなると吐き気がして仕事どころじゃなくなって、ペンを取り落とすとまた暴行が始まる。頭は常に痛い。寝入る度叩き起こされるので、しばらくきちんと眠れていない。心臓が痛い。寿命が確実に縮まってんなアってのが、感覚でわかる。
僕が死んだらこいつらの収入源が一個なくなるわけだけど、それについてはどう思ってるんだろう。…どうでもいいのかな。僕が死んだら代わりはいくらでもいるらしいし。
僕を猛烈に働かせて、金を稼いで、使い潰して、それで死んだらまた新しい金ヅルを見つける、その繰り返しなのかも。庇護し養うなんて、聞いて呆れる。実態はこれだもんな。こいつらに目を付けられた時点で、僕の命運は尽きてたってことだ。
こいつは僕のこれまでの所業に対する神様の罰なのかもしれないな。これだけ現世で苦しめば死んだあとは天国に行けるのかな。…そんなわけないか。僕の地獄行きはもう確定してることだから、死んだ後もセデュには会えないから、せめて生きてるうちに、ひとめだけでも会いたいなア。
頭がぐるぐるしてる。また埒もないこと考えてる。集中しなきゃ、仕事をしなきゃ、また薬を打たれるのは嫌だ、朝から鼻血が止まらない、使いすぎた脳みその中で異常が起こっているのかも。ぽたぽたスコアに鼻血が落ちて五線譜が滲む。慌てて擦ると余計にしみが広がって、書き込んだ音符も滲んでしまう。ぽたぽた目から雫が落ちる。泣きたくもないのに、頭と体がばらばらになっている感じだ。こうして僕はどんどん分解されて、壊れて、ぐしゃぐしゃになって、そうして元に戻れなくなるのかな。セデュに会えたとしても、もうわからなくなってしまったらどうしよう。それは嫌だな、なんかいも自分で死のうとしたくせに、殺されるって思うとこんなに怖いなんて、どうかしてるな。
ぶるぶる震える手で滲んだ五線譜に音符を書き込もうとして、万年筆の先がぽきりと折れる。インクが滲みだして黒い水たまりができる。それが錆びたような赤色を覆い隠して、泥のように飲み込んでいく。…。




