第二話
トレンチコートの男はそれから間もなくやって来た。僕の部屋の鍵は彼が持っているらしく、僕が押しても引いても開かなかった扉を簡単に押し開けて、侵入する。
「お目覚めはいかがかな? リーヴェ」
「さいあくだよ。ここどこ? なんで海の真ん中にいるのさ…」
「まずはパリを離れたくてね。あそこにはいい思い出がない…他所のシマを荒らしまわると後で煩いしな」
「この船は、どこに向かっているの?」
「シチリア島に。君を我々の本拠地にお連れしよう」
「ご招待どうもありがとう。まったく嬉しくないから早く降ろしてほしいんだけど」
「愛しのセデュイールと離れ離れにされて悲嘆に暮れているかと思ったら、案外タフなんだねえ君は。まあ、そのほうがこちらとしても都合がいいが」
僕は威嚇するように歯をギリギリして、男を睨みつける。襲い掛かってきたら嚙み殺してやるぞって気構えで。男の真意がわからない以上、こちらとしては警戒するに越したことはない。他に何もできない。セデュのことを考えるのは、もうちょっと落ち着いてからにしよう。ひとまず自分の立ち位置を、正確に把握してから――
「古城での大饗宴に、コロニーでの麻薬製造は我々の強大な資金源だった。それを二つとも君らに滅茶苦茶にされて、我々は忸怩たる思いだったわけだよ。わかるかな?」
「……」
「君に賠償金を請求したいところだ。だが表立ってはそれはできない。なにしろ非合法の組織だからねえ。レヴォネを恐喝することも考えたが、あの家はいろいろ厄介だからな…」
「……それで、僕をターゲットにしたってわけ」
「まあそういうことだ。アンフェリータやカティアから君のことは聞き及んでいる。君が優秀な音楽家だということも。私は音楽が好きでね、特にブラームスが好きだ。あの重厚な旋律、精緻な音の組み合わせ…実に美しい。芸術を生み出す才能は強大な権力に庇護され、養われるべきだ。そう思わないか?」
「……あなたたちが、僕を庇護し養うって意味?」
「そう思ってくれていい。我々に従うなら、君の所業を水に流そう。君の才能は金の鉱脈だ。我々は君を大切に扱うつもりだよ。仕事の斡旋も、今後は我々に任せてくれたまえ。君は自由に創作をつづけてくれればいい…勿論相応のギャランティは払う。衣食住も保障しよう。どうだい、破格の申し出だとは思わないか?」
ぐっと身を乗り出して告げる男に、僕は首を横に振る。話にならない。僕を拉致しておいて庇護だの保障だの、どの口が言うんだろう。
「思わないね。僕は君たちのために働く気はない。早くパリに帰してくれ」
「それはできないな。一度捕らえたものを戻すことはできない。ここから逃げたいと言うなら、海に放り出すまでだね」
「……ひとでなし」
「まあよく考えることだ。この船は観光客向けの遊覧船でね、シチリアに着くまで時間はたっぷりある。航行中は君を部屋の外に出してもいい…カジノのピアニストが消えてしまったから、その代わりを務めてくれてもいい。報酬も払うよ。弾きたいだろう? ピアノを」
「…そのピアニストも、消したんじゃないの、あなたたちが」
男はにんまりと笑って腹の前で手を組む。悠然としたそのしぐさは、僕を服従させられると確信しているからだ。僕に抵抗の手段がないから。拒絶したところで、彼らにとっては僕を海に放り投げてそれで終わりで、また別のターゲットを探せばいいってなもんなんだろう。
イヤだけど、癪だけど、従うしかない。こんな、ひとりぼっちの大海原で魚の餌になるのは嫌だ。セデュと離れたままで死ぬのは嫌。あいつはきっと僕を探し求めて、また死に物狂いになるだろうから――
「――わかった、考えるよ。報酬の歩合のこととか、あとでよく聞かせてほしい」
男は鷹揚に頷く。サングラス越しの目元にくっきりと皺が寄っている。この男はいくつくらいなんだろう。50より下には見えないけど…。
「理解が早くて助かるよ。ビジネスパートナーとして、これからよろしく」
ぐいと僕の手を掴んで揺すぶる、肉厚の指にはばかでかいルビーの指輪が食い込んでいた。
「セデュイールの囲われ者の次は、ボスに飼われることにしたのかい。へへ、さすが尻軽の淫売だ。自分を養ってくれるなら、相手が誰でもいいんだな」
船室の外廊下には男たちが交代で屯していて、僕が船室を出るとどこまでもついてくる。一度まいてみようとしたこともあるけど、数の暴力ですぐ捕まってしまった。それ以来、見張りは僕の船室に入り込んで椅子を占領して居座っている。今日の見張りは、よりによって、二度と顔を合わせたくない相手だった。
「やあファルコ、久しぶり。君は捕まらなかったの」
「俺たち幹部格には専用の逃げ道があったからな。ボスの愛人のアンフェリータも、カティアも無事さ。あそこはてめえらのせいで無茶苦茶にされたが、また別のコロニーをつくってるところだ…」
「懲りないねえ。君は俳優としては死んだようなものみたいだけど」
「死んじゃあいない! 蘇ってみせるさ、不死鳥のようにな! それでセデュイールのやつを、憎い憎いあいつを、追い落としてやるんだ…俺がこの手で…」
こいつの、セデュへの執着は相変わらずだ。セデュは俳優をしていたこいつのことを、もともとは仕事仲間としか思ってなかったみたいだけど、あのコロニーの一件で鬱陶しい外敵に格下げになったんじゃないかな。まあでも、いずれにしろ、セデュがこいつをマトモに相手にする価値のない男だと思っているのは確実だろうな…。
「セデュは君なんか相手にしてないよ」
「黙れアバズレが! 股の緩い男娼が! セデュイールの色子、プライドのかけらもない淫売!」
「煩いなア、ちょっと黙っててくれよ。君のボスに言いつけるぞ」
「……」
途端にファルコはびくりとなって、きょろきょろあたりを見回す。よっぽどボスが怖いらしい。組織内ではたいした権力も持っていないのだろう。さもありなん、だ。僕がボスならこんな小物、とっくに放り出してる。そう考えるとボスってのは、案外懐が深いのか、よっぽど人手不足なのか、どっちなんだろう…。




