第一話
「アンフェリータが世話になったそうだな」
僕の前に腰かけた男はそう言って葉巻を吹かした。真昼のモンパルナスのオープンカフェでのことだ。
テーブルに屈みこんで譜面を起こしていた僕は顔を上げ男を見る。見たことのない顔だ。がっしりとした肩、太い二の腕、身長のわりに短い脚。サングラスにトレンチコートのいでたちは刑事みたいにも見える。椅子にふんぞり返ってこちらを睥睨する様は、資産家に特有の優越感みたいなものがにじみ出てる。
僕はペンを置いて彼に向き直る。近くにアンフェリータの姿はない。彼女にはいろいろ思うところもあって、なるべくなら顔を合わせたくないと思っていた僕はちょっとだけほっとする。
男はそんな僕にはかまわずに内ポケットから紙片を取り出しテーブルに放る。写真の束だ。すべてに僕が映っている。群衆の前でパイプオルガンを弾く僕、四角い布を切りだしたような筒状の服を着てチャーリーと森の中を歩く僕、カティアと共に壇上にいる僕…すべてイギリスで遭遇した、異様なコロニーに囚われていた際の僕の姿だ。
「…アンフェリータの知り合い? 親父さんとか? お世話してあげた覚えはないんだけど…」
「ここに映っているのはお前だろう。ルーシュミネ・リーヴェ、作曲家兼ピアニスト、映画俳優セデュイール・レヴォネの囲われ者。こいつはあのコロニーが壊滅する直前に撮られたものだ。その意味が分かるな?」
「僕はあの集団とは何のかかわりもない…僕を強請ろうったって無駄だよ。僕はなんにも知らないんだから…」
「そんなケチな真似はしないさ。まあレヴォネの財は確かに魅力的だが…」
どうやら刑事というわけではないようだ。だったらあのコロニーの関係者? アンフェリータの白々しい笑顔が頭に浮かぶ。男たちに痛めつけられてきたと語る彼女の所属していたコロニー、白痴のように指導者に従う人々、麻薬と媚薬を僕に盛って、言いなりにさせようとしていたあいつら。きりきりと頭が痛む。思い出したくもない、最悪の記憶だ。
「だったらなに? 僕に何の用があるのさ。あのコロニーは摘発されてもう跡形もないんだろう…」
「まあ、詳しい話は車の中でしようか。同行してくれるね?」
僕が唯々諾々と従うとでも思ってるのか、男はふんぞり返ったままで宣う。猛烈に嫌な予感がする。刑事じゃない、コロニーの関係者なら、僕を逆恨みしている可能性もある。あそこの崩壊に手を貸した咎で、僕を捕らえて拷問にでもかける気かな? 面前の男はそういう、いくらでも残酷なことができてしまうような雰囲気がある。今まで幾人も、そうやって甚振り尽くしてきたような酷薄な雰囲気だ。ああ嫌だ。今すぐここから逃げ出したい。
店内を見回していると、男の背後に掛けていた軽装の若者たちが立ちあがるのに気づく。ジーンズやスーツ姿の柄の悪い男たちはトレンチコートの男の仲間なのか、こちらをにやにや見ながら近づいてくる。3…4…5人もいる。拘束されたら逃げるのは難しそうだ。僕は腰を浮かせて、息を詰めて――くるりと、逆方向に向かって駆けだした。
雑踏の中に紛れてしまえば男たちはそれ以上追ってこないはず、たぶん。まさかこんな真昼の街中でドンパチやる気はないだろうし、警察に見咎められたら困るのはあっちだ。バタバタと足音が追いかけてくる。僕は体力も筋力も足りないから持久戦になったら確実に詰む。その前にどこかに隠れるか、誰かに助けを求めるか、警察に駆け込むかしないと…。死に物狂いで駆ける僕を通行人が振り返って見る。蚤の市を掻き分け走ると、僕の後方で台がガシャンと崩れた音がして、店主らしきおばちゃんの罵声が飛ぶ。男たちはわき目もふらずに駆けてくるらしい。犬を連れたおじいちゃんにぶつかりそうになって飛び退いて、キャンキャン吠えられながら足を縺れさせる。角を曲がったところで前からくる男たちに包囲されて、僕はあっという間に取り押さえられ、叫ぶ間もなく車に連れ込まれていた。
「離せよ、なんなんだよ、人さらい! 極悪人!」
わあわあ喚きたてる僕の口にタオルを突っ込み、暴れる僕の手を捕らえた男が何かを注射する。ぴかぴかに磨かれたランボルギーニのレザーシートに押さえつけられ、むせ返るような煙草の匂いの中で、僕は意識を失う。男たちの罵る声が、頭蓋の中で反響する。…
それから何時間経ったのだろう。1時間? 2時間? それとももっと長い間?
目覚めた僕が目にしたのは見たことのない天井だ。身体が揺れている。薬のせいだろうか、嫌な浮遊感があって、落ち着かない。
僕はむくりと身を起こす。清潔なベッドに寝かされていたようだ。周囲に人の気配はない。部屋の中には重厚なチェストにクローゼット、猫脚のテーブルと瀟洒な椅子があって、きちんと片付いていて、壁際には花なんか生けてあって、ホテルの部屋みたいに見える。ぱちぱちと瞬いた僕はとりあえずベッドから降りる。ちょっど怠いけど、他に身体に違和感はない。気絶している間に何か突っ込まれたり出されたりもしなかったみたい。ひとまずそれにほっとして、窓辺に寄ってカーテンを開けて――
目の前に広がる大海原に、僕は愕然とした。




