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第一話 覚悟

 今日も、同じ道だった。

 踏み固められた土の上を、荷馬車が軋みながら進んでいく。車輪が砂利を噛む音は、昔と何も変わらない。馬の蹄のリズムも、風が草を揺らす音も、何もかもが全部同じだ。


 違うのは、ひとつだけ。

 フランは、荷馬車の後ろに寝転ぶことはなかった。

 手のひらに伝わる手網の重みが、やけに現実的だった。

 視界の先には、まっすぐな道が続いている。どこまで行っても変わらない、見慣れた景色。


 昔は、これがつまらなかった。

 フランは小さく息を吐く。


「……まぁ、こんなもんか」


 誰に言うでもなく呟く。

 ほんの少しだけ視線を横にやるが、そこにいるはずだった人の姿は、もうない。


 風が吹いて、荷台の幌がぱたぱたと鳴った。古い布には、まだ穴が残っている。

 あの頃と同じ場所だ。

「……結局、変えてねぇのかよ」

 苦笑ともつかない息が漏れた。

 金が溜まったら大きい町で替える、そう言っていたのは、もう何年前の話だったか。


 指先で手綱を軽く引く。

 馬が小さく鼻を鳴らして、歩調を整えた。


* * *


 村が見えてきた。

 背の低い木の向こうに、ぽつぽつと屋根が並んでいる。煙が細く上がっていて、いつも通りの時間が流れているのが分かった。

 見慣れた村だ。

 何度も来ているし、名前だって覚えている顔なじみも多い。


「さて……仕事の時間だ」


 フランは小さく呟いて、手綱を引いた。

 馬が歩調を落とし、荷馬車がゆっくりと村へ入っていく。

 土の匂いが少しだけ濃くなって、人の気配も混ざってくる。子どもの声や、遠くで何かを叩く音が耳に届いた。

 適当な場所に荷馬車を止めて、フランは軽く伸びをした。体の節々が、少しだけ重い。

「うりぁーーー、ふぁ。よし」


 荷台に回り込んで、布をめくった。

 弓矢をいくつか取り出して、見やすい位置に並べる。矢羽の向きを整えて、紐のほつれを軽く直す。

 もう手馴れたもんだ。

 しばらくすると、ちらほら村の人が集まってきた。

「お、フランじゃねぇか」

「今回は早かったな」

 顔見知りの村人たちに、軽く手を振って答える。

「今日は天気も良いし、狩り日和だろ?買うなら今のうちだぞ」

 フランが手元の弓矢を買うように促すと、村人は「ほんと、たっくましい奴だなぁ」と言いつつ、数本買い上げて行った。

 金を袋に入れて、次の客に目を向ける。

 値切り交渉をされ、首を横に振っていると、ふいに力強い声が飛んできた。


「フラン!!」


 反射的に声のした方へ視線を向けると、見慣れた顔が走ってきていた。

「カルロ?」

 息を切らしているし、髪も乱れていて、様子が明らかにおかしい。

 フランは眉をひそめた。

「どうしたんだよ。そんなに慌てて」

「……っフラン!!」

 カルロはフランの前で立ち止まると、息を整えながら、肩を掴んできた。

「ポーションを、売ってくれっ!!」

 フランはその一言でなんとなく、状況を察した。

「怪我人か?」

「……あぁ」

 カルロは歯を食いしばるように頷いた。

 その目は焦りで揺らいでいる。

 フランは、カルロの視線を逃れるようにして、幌馬車を見る。

 もちろんポーションも積んである。

 頭の中で、ざっと数を思い返す。


 下級が、十五本。

 中級が、十本。

 上級は、ない。


 前の町で仕入れられなかったのを、そのままにしている。

 

 フランは舌打ちしそうになるのを、かろうじて堪えた。

 怪我人の程度にもよるが、カルロの顔色を見るに下級だけでどうにかなるとは思えない。

 中級を使えば、ある程度は持ち直すかもしれないが……。


「医者か治癒士は?」

「呼べねぇんだよ!!」

 カルロの声が、少し荒くなった。

「今すぐ必要なんだ。頼む、フラン……!」

 掴まれた肩に、ぐっと力がこもる。

 

 フランは一瞬だけ、目を伏せた。

 そもそも使ったところで、数が足りる保証はどこにもない。医者や治癒士がいない状況でどこまでできるか……。

 ポーションはあくまで補助的なもので、応急処置にはなるが、万能じゃない。

 下手に使えば、かえって悪化することだってある。

 この件は、旅商人が踏み込むところではない。

 フランは売るだけで、それ以上は専門外だ。

 必要かどうかを判断するのは、買う側の仕事。そして、買う側が医者や治癒士だ。

 それにポーションの補充は、簡単じゃない。

 次にいつ仕入れられるかも分からないんだ。

 旅商人は、持っているものがすべて。それを切り崩すのは、命綱を削るのと同じだ。

 

 医者も治癒士もいない……。上級ポーションもない……。

 状況は最悪。

 

 大きな町に行けば、金払いのいい医者や治癒士はいる。ここで売るより確実に良い値で取引できる。

 こんな村で助けられるかも分からない怪我人に使うより、よっぽど合理的だ。

 

 ……それでも。


 フランは小さく息を吐いた。

 視線を戻すと、カルロは今にも何か言い出しそうな顔でこちらを見ている。


「……分かった。案内してくれ」

 カルロの肩から手を外して、フランは幌馬車の後ろに回った。

 荷台の中からポーションの入った木箱を引き寄せる。瓶同士が触れて、小さく音を立てた。


 全部を持っていく余裕はない。

 下級と中級。

 それぞれ数本ずつ腰のポーチに移して、残りは荷台に戻す。

 手を止めて、ほんの一瞬だけ箱の中を見下ろした。


 ……減ったな。


 そんな当たり前の感想が、妙に引っかかった。


 ……ほんとうに、僕は馬鹿だ。


「行くぞ」

「ああ、こっちだ!」

 カルロはそのまま駆け出す。

 フランもその後を追った。

 こんなに走るのは、久しぶりだった。

 踏み固められた土が、足の裏で鳴る。家と家の間を抜けて、人の視線を横目に通り過ぎる。

「こっちだ、急げ!」

 カルロの背中は、いつもよりずっと小さく見えた。

 焦りと、不安と、何かに追い立てられているような速さ。

 フランは一度だけ、後ろを振り返る。

 荷馬車は、元の場所に置いたままだ。少しだけ気になったが、すぐに視線を戻した。

 今は、それどころじゃない。

 

 しばらく走ると、一軒の家の前でカルロが足を止めて、乱暴に扉を開けた。


「母さん!連れてきた!」


 中から、慌ただしい気配が漏れ出てきた。

 フランも一歩遅れて中に入る。


 家の中は、外とはまるで別の空気だった。

 湿ったような重さがまとわりつく。息を吸うたびに、どこか鉄のような匂いが混じっている気がした。

「フラン。あんた、来てくれたのかい……?」

 奥からカルロの母――ミラおばさんの声が聞こえた。

 

 部屋の中央には簡素な寝台の上に、一人の少女が横たわっている。

 見覚えのない顔だった。

 この村の人間じゃない。少なくとも、フランの記憶にはない。

 長くて黒い髪が、布の上に広がっている。


 この辺りではあまり見かけない色だと、ぼんやり思った。

 けれど、目を引いたのはそこじゃなかった。

 腹のあたりに当てられた布が、赤く滲んでいる。

 じわりと広がったそれは、もう乾きかけている部分と、まだ新しい部分が混ざっていて、生々しかった。


 フランが一歩踏み出すと、床板がわずかに軋む。

 近づくほどに、血の匂いがはっきりしてくる。

 

「……ひどいな」


 思わず、そんな言葉が漏れる。

 カルロは、苦虫を噛み締めたような表情で、少女を見ている。


「さっきカルロが担いで帰ってきたんだ。このままだと……もたないよ」


 ミラおばさんの声は落ち着いているようでいて、わずかに震えていた。

 フランは頷きながら、ポーチに手をかける。


 下級ポーションを一本取り出して、布の上からゆっくりとかけた。

 じんわりと液体が染み込んでいく。

 けれど、傷が閉じる気配も、滲みが止まる様子もない。


 フランは一瞬だけ、手を止めた。


 分かっていたことだ。それでも、実際に目の当たりにすると、わずかに呼吸が詰まる。


 この人はもう……。


 その考えを振り払うようにフランはもう一本、中級ポーションを取り出した。

 栓を抜き、迷いなく傷口へと流し込んだ。

 さっきよりもはっきりと、肉が寄っていく。

 それでも浅く表面だけで、内側の傷までは届いていない。


 フランは息を押し殺したまま、傷の様子を見つめる。

 じわじわと滲み出てくる血が、完全には止まらない。

 ポーチの中で、瓶が触れ合う音がやけに大きく聞こえた。残りは、あとわずかだ。ここに持ってきた分では、明らかに足りない。

 

 フランは歯を噛み締めた。

「……カルロ」

「なんだ!」

「荷台から残りのポーションを全部取ってきてくれ」


 言葉にすると、それがどれだけ重いことか、嫌でも分かる。

 カルロの目が見開かれた。


「全部って……お前、それ――」

「いいから」

「でも……」

「いいから早く行け!!……時間がない」

 カルロは何か言いかけて、結局飲み込んだ。

「……分かった!」

 

 カルロの足音が遠ざかっていくと、部屋の中に残ったのは、重苦しい静けさだけだった。

 さっきまで乱れていた空気が、逆にぴたりと止まったように感じる。耳に入ってくるのは自分の呼吸と、どこか頼りない心音ばかりだ。

 

 ……馬鹿だ。ほんとうに僕は馬鹿だ。

 

 でも、それでも放って置くなんてできない。

「……死なせるわけには、いかないだろ」

 誰に向けたわけでもない言葉が、ぽつりと落ちた。

 

 腹部の傷は、さきほど中級ポーションを使ったことで多少は閉じている。それでも、深い部分までは届いていないのが見て取れた。わずかに滲み出る血が、それをはっきりと物語っている。


 このままでは時間の問題だ。

 

「……ったく」


 小さく息を吐き出しながら、フランは視線を逸らす。

 こんなのは、商売じゃない。

 利益も、合理性も、どこにもない。ただ持っているものを削って、見返りも分からないまま差し出すだけだ。


 ……父さんなら、どうしただろうか。フランを見たら、こんなのは偽善だと言うのだろうか。


 ふと、そんな考えが頭をよぎる。


 あの人はきっと、フランみたいに迷ったりしない。

 理由なんて言わずに、ただ「売らない」とか「売る」とか、いつもの調子で決めて、それで終わりだ。


 ……父さんは父さん、俺は俺だ。

 

 視線の先では、少女の呼吸が浅く上下している。規則性のないその動きが、今にも途切れてしまいそうで、目を逸らすことができなかった。

 偽善かもしれない。

 商人としては間違っているのかもしれない。

 でも、そんなことは後で考えればいい。今ここで考えたところで、答えなんて出ない。それに答えが出たところで、この状況が変わるわけでもなかった。

 フランは腰のポーチから最後の一本のポーションを取り出して、栓を抜いた。

 かすかに薬草の匂いが広がる。その匂いが、妙に現実感を引き戻してきた。

 フランが瓶を傾けようとした、そのときだった。


「待ちな、フラン」


 低く、しかしはっきりとした声が横から差し込む。

 顔を上げると、ミラおばさんがすぐそばまで来ていた。いつの間にか、袖を捲っている。濡らした布を手に持ち、迷いのない手つきで少女の額の汗を拭っていた。

「血が流れすぎてる。このまま流し込んでも、体が持たないよ」

 静かな声だったが、その言葉には妙な重みがあった。

 フランは思わず手を止める。

「でも、他に方法なんて……」

「あるさ」

 ミラはそう言い切って、布を絞りながら少女の呼吸を確かめるように胸元へ視線を落とす。


「全部任せる気でいるんじゃないよ。あんたはポーションを使う。私は血を止める。ルミ、あんたは水を替えな」

「……っ、うん!」


 少し離れた場所で固まっていた、カルロの妹――ルミが、はっとしたように動き出す。桶を抱え直し、慌てた足取りで奥へと走っていった。

 フランは言葉を失った。


 ……自分だけで何とかしようとしていた。周りには頼れる人がいるのに。


 そんな当たり前のことに、今さら気づく。


「……悪い」

「謝ってる暇があるなら手ぇ動かしな」


 ぴしゃりと言われて、フランは苦笑する余裕もなく頷いた。

 ミラは手際よく布を当て、圧迫するように傷口の周囲を押さえていく。その動きは慣れているとは言い難いが、迷いがない分だけ無駄がなかった。

 血の流れが、わずかに鈍る。


「今だよ、フラン」

「あぁ」


 短く返して、フランはポーションを傷へと流し込む。

 さっきよりも、確実に効いている。


 肉の寄り方が深いところまで届いているのが、あきらかに分かった。


 そのとき、外から荒い足音が近づいてきた。


「フラン!!持ってきた!!」


 扉が勢いよく開いて、カルロが息を切らしながら飛び込んできた。両腕には木箱を抱えている。中の瓶がぶつかり合って、ガチャガチャと騒がしい音を立てていた。


 フランは顔を上げる。

「遅い」

「無茶言うな!」

 言い返しながらも、カルロはすぐに箱を床へ下ろした。蓋を開けると、並んだ瓶が光を反射する。


 ……これならまだやれる。大丈夫だ、助けられる。

 

 ミラは圧迫を続けながら、ちらりとフランを見やる。


「手ぇ動かす」

「分かってる」


 言葉を交わす余裕はそれだけだった。

 すぐに次の瓶へと手を伸ばす。カルロも何も言わずに頷き、箱を寝台のそばへと引き寄せた。


 フランは栓を抜き、傷へと流し込む。ミラおばさんが押さえる位置をわずかに調整し、それに合わせるようにポーションが染み込んでいく。

 滲み出ていた血が、少しずつ、ほんの少しずつ引いていく。

 呼吸はまだ浅いままだが、完全に途切れそうだったそれが、かろうじて繋がっている。


 ポーションの栓を抜いて、注いで、抜いて、注いで……。

 それを繰り返しているうちに、部屋の空気がほんのわずかに変わった。


「……っ」

 

 小さな音が、確かに聞こえた。

 フランの手が止まる。

「今の……」

 ルミが水の入った桶を抱えたまま、息を呑んだ。

 寝台の上で、少女の指先がかすかに動いた。それは本当にわずかな動きだったが、見間違いじゃない。

 次の瞬間、少女のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。


「……ここ……」


 か細い声が、空気を震わせた。

 焦点の定まらない黒い瞳が、天井をさまよい、それからゆっくりとこちらへ向いた。

「……だれ……?」

 掠れた声だった。

 それでも、はっきりと意識が戻っている。

「っ、ぁ……!」

 少女は反射的に体を起こそうとして、顔を歪めた。ミラがすぐに肩へ手を置いて押し留める。

「おい、無理に起きんなって」

「動くんじゃないよ。まだ治りきっちゃいないんだ」

「まだ、動いちゃだめ」

 カルロたち家族の声が重なる。

 その声に、少女はびくりと肩を震わせた。

 しばらくの間、状況を理解しようとするように視線を巡らせていたが、やがて間の抜けた声を漏らした。


「……ふへ?」

 それから、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「……え、ちょっと待って」

 急に声の調子が変わった少女を見て、フランは眉をひそめた。

「ここ、どこ?」

「村だが」

「村……?いや、そうじゃなくて……え、なにこれ、え?」


 少女は自分の手を見て、周りを見て、また天井を見る。その動きがどんどん忙しなくなっていく。


「ちょっと待って待って待って……!」


 歓喜の声を上げた少女は、がばっと起き上がろうとして、また顔を歪める。


「だから動くなって言ってんだろうが!!」

 カルロの怒鳴り声が飛ぶ。

 さっきまで死にかけていたとは思えない様子に、フランたちは開いた口が塞がらない。

 少女はしばらく混乱した様子で辺りを見回していたが、やがて何かに気づいたようにぴたりと動きを止めた。


「……あの」

 おそるおそる、といった様子で口を開く。

「ここって……もしかして異世界……?」


 部屋の中が、一瞬で静まり返った。

 フランは、カルロと顔を見合わせた。

 すぐ近くからはルミが「え?」と小さく声を漏らしたのが聞こえた。


 そしてその沈黙を破ったのは、少女本人だった。


「やっぱり!?そうだよね!?服も違うし建物も違うし、さっきから言葉は通じてるのに景色がおかしいし!」

 一気にまくしたてるように言いながら、目を輝かせる。

「すごい……ほんとにあるんだ、こういうの……!」

 さっきまでの弱々しさが嘘みたいだった。

 フランは言葉を失ったまま、目の前の少女を見下ろした。


 ついさっきまで、息も絶え絶えだったはずだ。顔色だってまだ良いとは言えない。傷も、完全に塞がったわけじゃない。それなのに、当の本人はそんなことはどうでもいいと言わんばかりに、きょろきょろと周囲を見回している。


「ねぇ、ここってどこ?国名とかある?あとさっきの光ってた液体、あれ何?ポーション?だよね?」


 ふと視線が会った途端、目を輝かせてこちらを見てきた。間髪入れずに飛んでくる問いに、フランはわずかに眉を寄せた。


「……質問が多いな」

「だって気になるじゃん!」


 フランは小さく息を吐く。

 呆れに近いそれだったが、同時に、どこか調子を狂わされるような感覚もあった。


 普通なら、もっと戸惑うはずだ。

 自分の置かれている状況を理解できずに、不安になるとか、怖がるとか――そういう反応が先に来るものだと思っていた。

 けれど、この少女にはそれがない。

 あるのは、ただの好奇心だ。


「……さっき、死にかけてた自覚あるか?」

「あるけど、この状況は『オタク』として無視できない」

 真顔で言われて、フランは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 ……何言ってるか分からない。

 

 フランは額に手を当てて、小さく首を振る。

「……順番おかしいだろ」

「え、そう?」

 本気で分かっていなさそうな顔だった。

 フランはそれ以上何も言わず、いや言えず、視線を逸らす。

 理解しようとするのを、半ば諦めた。


「……お前、名前は?」

 カルロの言葉に、少女はぱっと表情を明るくして、少しだけ胸を張った。


花園 紅衣(はなぞの こころ)。――紅衣って呼んでいいよ」


 ココロ、その名前を聞いてその場にいた誰もが何も言えなかった。


* * *


 幌馬車の荷台に軽い音が響いた。


 木箱を持ち上げていたカルロが、肩の力を抜くようにしてそれを下ろす。中身のない箱は、やけに軽くて、逆に扱いに困るような感覚があった。


「……全部、使い切っちまったな」


 ぽつりとカルロが言う。

 フランは何も答えず、もう一つの箱を荷台の奥へと押しやった。空になった木箱同士がぶつかって、乾いた音が鳴る。

 いつもなら、瓶の触れ合う音がするはずだった。それがないだけで、妙に静かに感じる。


「悪いな」

 カルロが、少し気まずそうに頭をかいた。

「……何が」

「いや、だから……その。ポーション、全部使わせちまってよ」

 言葉を探すように視線を彷徨わせながら、ぽつぽつと続ける。

「金だって、売ってくれなんて言ったけど、用意できる金額じゃねぇし……」

 フランは手を止めて、カルロの方を一瞥した。

「別にいい。最初から期待してねぇよ。気にすんな」

「よくねぇだろ」

 即座に返ってきた声は、思ったよりも強かった。

 カルロは眉を寄せて、荷台の縁に手をかける。

「お前、あれ全部売ればどんだけ金になったと思ってんだよ」

「……そんなことは分かってる」

 短く返して、フランは視線を逸らした。


 ……分かってるし、考えた。全部最初に。


 あんなふうに一気に使うなんて、本来あり得ない。正気の沙汰じゃないって自分でも思う。


「……必要だったんだろ」

 ぽつりと落とした言葉に、カルロは一瞬だけ目を丸くした。

「そりゃあ、そうだけどよ……」

 言い淀んでから、小さく息を吐く。

「……助かった」

 それだけ言って、カルロは視線を外した。


 しばらくの間、二人に沈黙が流れる。

 風が吹いて、幌がぱたぱたと鳴る。遠くで誰かの声がして、それもすぐに消えた。


 フランは荷台に手をついたまま、ぼんやりと空を見上げる。夕方の色が、ゆっくりと沈みかけていた。


「……あいつさ」

 カルロが、ふいに口を開いた。

「起きたとき、変なこと言ってたよな」

 フランは視線を動かさずに答える。

「あぁ、本当に変なやつだったよ」

「やっぱりそーだよなぁ……なんつーか、その」

 言葉を探すように頭をかきながら、カルロは続ける。

「普通もっとなんかあるはずな」

「混乱したり、怖がったり……な」

 フランの並べた言葉に、カルロは「そうそう」と軽く頷いた。


「名前……ココロって言ってたよな」

 フラン自身も一番気になっていたことを、カルロが話題にする。

「…………あぁ」

「絵本と同じ……だよな」

 カルロはしばらく考えるように黙り込んだ。

「……そうだな」

 カルロはしばらく考えるように黙り込んだあと、小さく息を吐いた。

「……でもさ」

「ん?」

「ココロって、あんな感じだったっけか」

 フランはわずかに眉を動かす。

「どんな感じだよ」

「いや、なんつーか……もっとこう、ちゃんとしてるっていうか」

 カルロは言いながら、自分でもうまく言葉にできていないのか、頭をかいた。

「強くて、覚悟決まってて、かっこよくてさ。あんな……目ぇキラキラさせてる感じじゃなかったろ」

 フランは少しだけ考えてから、肩をすくめた。

「……絵本の中の話だ。そのココロだとは限らないだろ?」

「まぁ、そりゃそうなんだけどよ」

 カルロは納得しきれない様子で、荷台の縁を軽く叩く。

「でも同じ名前だぜ?ちょっとぐらい思うだろ、普通」

「そーかよ」


 素っ気なく返しながら、フランは空になった木箱をもう一つ奥へ押し込んだ。

 乾いた音が、やけに軽く響く。

「……ただの偶然だろ」

 ココロなんて名前、珍しいわけじゃない。

 あの絵本だって、もうずっと昔の話だ。子どもでも知っているくらいには有名でも、現実に重ねるようなものじゃない。

 頭の奥に残る違和感を振り払うように、フランは小さく息を吐いた。

「まぁ、どっちでもいいか」

 どうせすぐに次の村に行くのだから。

フランの物語(本編)のスタートです。

ポーションがあった箱はすっからかん……。フランは、かなり、すっごく、とっても、がんばってくれました。


次回は、フラン先生の物価講座です。


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