デモン・トライアングル!
高価な機械仕掛けの時計のように、極めて正確なリズムで、かつかつと床を打つ音が響く……
それは、他には誰もいない廊下を歩く自分自身の足音で、アマンダ・フェルモーリンは、この音を聞くのが好きだった。
自分の正しさ、迷いのなさを、乱れのないこの音が証明してくれているようで。
彼女は『外見が性格を映し出す』という言葉の見本のような少女だった。
肩に触れないよう、きっちりと切り揃えた金髪。
幾分か色の薄い青色の目は冷ややかに見られがちだが、年相応のやわらかな感受性をのぞかせている。
――彼女自身は、それを認めたがらなかったが。
細い、頑なそうな眉が、顔全体の印象を厳しいものにしていた。
アマンダは、図書館から、自分の教室へと戻る帰りだった。
借りたばかりの資料を胸の前に抱え、濃い墨で染め上げたばかりのような、しわ一つない漆黒のローブをまとっている。
初等部に所属する子供たちは、皆この服装をしていた。
黒。
決して濁ることのない、純粋な色――
(そうよ……迷ってはだめ。心を乱してはいけない……)
そう、ここでは――
帝国魔術学院《暁の槍》の初等部、帝国のために戦う魔術師の卵を養成する機関では、何もかもが、規則正しい。
目の前に続くのは、真っ直ぐな板張りの廊下。
左手の壁には、いくつもの扉が間隔をおいて並んでいる。
右手の壁には窓。
――その外には、一片の雲もない青い空が広がっていたが、彼女は、そちらには極力目を向けなかった。
外で季節が移り変わり、空が気紛れに表情を変えようとも、この建物の中にいる限り、決して心を動かされることはない。
(……そうよ、心を動かされることはない……)
今日という日を迎えてから何度も繰り返したこの言葉は、しかし、思ったような効果を彼女の精神にもたらしてはくれなかった。
あとわずかで訪れる春の気配をはらみながら、いまだ、大気は冬の冷たさを残している。
地平線の向こうからこちらをうかがっているような『春』に、彼女は抑えがたい焦りと苛立ちを募らせていた。
あと、一月半と少し――
それだけあれば、緑が芽吹き、花が開くだろう。
この学院に、春が訪れるのだ。
その時、エグザミネイションが行なわれる。
彼女たちの人生を決める試験が。
(……こんな、大事な時期に、冗談じゃないわ!)
とうとうアマンダは、感情を制御しようとする試みを放棄した。
意識して等間隔に保っていた歩調が乱れて、廊下の真ん中に立ち止まる。
担任のリン・テミス教官に、高等部からの慰問があると聞かされた時には、一瞬、期待をした。
過去にエグザミネイションを突破した先輩たちのアドバイスを聞くことができる、相談会のようなものだと思ったのだ。
それなのに。
「一日中、お祭り騒ぎで遊び呆けるだなんて!」
小さく声に出して毒づく。
エグザミネイションの実施を聞かされた一年前から、彼女たちは、ひたすら試験に備える毎日を送っていた。
何しろ、このチャンスを逃せば、次がいつあるか分からないのだ。
周囲の全員がライバルであるこの環境で、誰もが、少しでも他に差をつけようと、寸暇を惜しんで訓練や勉強にいそしむ。
それが既に習性のようになって、『遊ぶ』などということは、まったく考えられない状況だった。
――そこへもってきて、この『慰問』の話である。
まだ受験のレベルに達していない見習い生たちは、この計画を手放しで歓迎したようだ。
この初等部は、普段、とにかく徹底的に娯楽というものに欠けている。
しかし、当の受験者たちはといえば、戸惑い半分の反応を示す者がほとんどだった。
……では、あとの半分は? と聞かれれば、それが期待であったことは、否定できないのだが。
「ストレス解消? 余計なお世話よ……
ストレスさえも、自分の中で制御できるようでなきゃ、一人前の魔術師とは言えないんだもの。
これで潰れるほど、弱いなら、エグザミネイションに挑む資格はないんだわ……」
アマンダは、まるで多くの部下たちの前に立った若い士官のように、昂然と顔をあげてひとりごちた。
――だが、その内心は、多くの部下たちを率いながらも、どこか自分を信じ切れない若い士官のように、重く沈んでいた。
(あたしを恨んでる子たち、けっこういるんでしょうね……)
今日は、春待月の第15日。
高等部からの慰問が行なわれる――はずだった、日だ。
10日ほど前、アマンダは、考えを同じくする仲間たちをまとめ、リン教官を通して上層部に談判を行なった。
『試験本番に向けて、せっかく高めてきた集中を、遊び半分のイベントで乱さないでほしい』――
この訴えは、意外なほど簡単に認められた。
もともとこの計画は、初等部代表のローラ・ゴールドベリ教官が、高等部と手を組んで、半ば強引に推し進めたものだったらしい。
初等部の教官たちの中にも、内心、反感を抱いているものが多くいて、彼らが、アマンダたちの主張を強力に推したのだ。
初等部の教官の能力は、どれだけ多くの教え子を高等部に『上げた』かで計られる風潮がある。
自分が担当する組の進学率を上げるため、『ライバルより睡眠時間が長ければ落ちたと思え』的な指導を行なう者も多い。
「…………」
誰もが、疲れている。
あたしだって、そうだ。
息抜きがしたい、何もかも忘れて楽しく遊びたい。
でも――
今、それは、無理なのだ。
(今、頑張って……高等部に上がりさえすれば……)
そう自分に言い聞かせ、アマンダが小さな拳を握った――
それは、その瞬間に起こった出来事だった。
どぉんっ!
「――!?」
どんっ! どどどんっ! ぽんぽんぽんっ!
窓の外から最初にとどろいた轟音は、石造りの建物をかすかに震動させた。
それに続いて、もっと軽い……少量の火薬の爆発のような音。
「――何だぁっ!?」
「え、何、何っ? 何かあったの?」
今の今まで、その向こうに誰もいないかのように静まり返っていたたくさんの扉が、ばたばたと慌ただしく開き、何人もの生徒たちが駆け出してきた。
中には、教官の姿も混じっている。
今の音は……攻撃魔術の演習だろうか?
いや、違う。
それなら、こんな音ではない――
反射的に窓の外に目をやったアマンダは、
「なっ……!?」
思わず、ぱかっと口を開けて、その場に立ち尽くした。
『祝・第一回慰問!
高等部のおにーさんやおねーさんたちと、一日、楽しく遊んじゃおう!!』
『バザー/何でもあります/例・大魔王のベッド/気軽に見にきてね!』
『食え、魂のポップコーン!!!』
『サトクリフ☆サーカス 幻惑の妙技!(見に来ないと呪っちゃいますよ)』
あれや、これや。
巨大な風船に吊るされた、長大な垂れ幕が、初等部の本館の屋根よりも高く、抜けるように青い空に幾本も揺れていた。
あまつさえ、その間で、ぽんぽんと音を立てながら、ピンクや黄色の煙玉が景気よく破裂している――
「なっ、何だねこれはあああああっ!?」
呆然とするアマンダの側にどたばたと駆けつけた教官のひとりが、目を剥いて絶叫すると同時――
じゃんじゃかじゃーん! じゃじゃじゃ、じゃああ~ん!!
《……お、えー、あ? ん?》
謎の音楽と、謎の声とが、辺りに響き渡った。
声は、若い男のものである。
どうやら、拡声の呪文を使っているらしい。
音楽だけは調子よく続くなか、一瞬、妙な沈黙が漂ったが、
《え、何、もう入ってんの? げっ。
……あ~、ええと、初等部の諸君! 我々は、高等部の者だぁ!
今日一日、初等部の敷地は、我々が占拠した!
おとなしくあきらめて、我々と共に、ぱぱぁ~っ、と、遊んじゃいなさいっ!
楽しいイベントが目白押し!
全部行かないと、後が怖いぞ!!
さあ、今すぐ、表にレッツゴウだあ~っ!!!》
言うだけ言って、声は途切れ、音楽だけが、相変わらず陽気に鳴り響く……
「な、な、な……っ」
アマンダの側にいた青白い顔の教官は、あまりの事態に、わなわなと両腕を震わせていたが――
「慰問って……あれ、中止になったんじゃなかったのぉ?」
「なんか、あるみたいだけど……
え? これって、参加してもいいわけ? 今から?」
「なに、今、ここに高等部の人が来てるのっ? 行きたーい!」
「ちょっと行ってみよっか!」
生徒たちのざわめきが妙な方向に流れはじめた途端、教官は、はっ! と自分を取り戻し、
「ええい、馬鹿者! 騒ぐな! 慰問はないっ!
あれは、何かの手違いだ! すぐにやめさせる!」
と、周囲の生徒たちに向かって声を張り上げた。
「ええーっ……?」
「でも……」
「『ええ』も『でも』もないっ!
今がどんな時期か、お前ら分かっとるのか!?
教室に戻れ! 今すぐにっ!」
「――きゃ~っ。そんなのいや~ん!」
突如響いた怪しい声に、廊下にいた全員が、一瞬にして音源に視線を集中させた。
「……う、うおおおおおぉ~っ!?」
振り向いた教官が、思わず裏返りまくった悲鳴をあげて腰を抜かしたのも無理はない。
なんと、彼の背後の窓――
3階の窓の外から、一人の女性が『よいしょっと~』などと言いながら、平然と侵入してきたのである。
しかも、その女性は、翼と光輪までつけた、可愛い天使の仮装に身を包んでいた。
「なっ……ななな、何者だ、お前はっ?」
「えっ?」
職業意識を総動員して問いかけた教官に、女性はきょとんと首を傾げ、ついで、にっこりと笑顔を浮かべた。
「あっ。どうも~こんにちは!
私ね、今日は、バザーの天使なんです~。
皆さんもぜひ、私の組の子たちがやってるバザーを見に来てあげてね!」
――意味不明である。
だが、その意味不明なセリフの中から、アマンダは、ひとつの信じがたい推論を導き出していた。
「も……もしかして、あなたは……
高等部の先生!?」
「えっ? あっ、そうです~。《暁の槍》高等部所属、キャロライン・メリ教官。
でも、今日はバザーの天使なの~! うちの組の子たちが、そうしろって」
これ以上ないほどの注目を浴びながら、にこにこと、キャロル。
「『先生が天使の仮装して窓から入っていったら、きっとみんな注目してくれて、すごい宣伝になりますよ』って言われたから、やってみたんだけど~、ほんとにみんな注目してくれて、嬉しいわ~!」
「こ、こ……これは、一体、どういうことですかなっ!?」
抜けた腰をどうにか元に戻したらしい教官は、当然というか、キャロルの話を聞かず、立ちあがって彼女に食ってかかった。
「慰問は取り止めということで、そちらにも、ちゃんと話が通っているはずだっ!
それなのに、このバカ騒ぎは――」
「あら、まあまあまあ~!」
額に青筋を立てた相手を前に、キャロルは一層笑顔を大きくして、組んだ両手を胸に押し当てる。
「先生もそんなに喜んでくださって、私たち、とっても嬉しいです~!」
『相手の話を聞かない』という点では、彼女のほうが、数段上手であった。
「あの、うちのバザーでは、ほんとに色んな品物を取り揃えてるんです~。
さあ、ぜひ先生も、御一緒にどうぞ~っ!」
「な!? ちょっ……こら!? 離したまえ……!」
がっし、と問答無用で教官の腕をとり、キャロルは、ぱっと片腕を振った。
その瞬間、無数の白い羽とともに、色とりどりの紙吹雪が『ぶわぁっ!』と辺りに舞い散る。
その中で――
「絶対来てね~っ!!」
「ぎゃああああああああああぁ~!?」
バザーの天使は、教官を引っ掴んだまま、再び窓から外へと飛び出していった!
「……っ!?」
その場の全員が、声も上げずに窓辺に駆け寄った。
だが、いくら見渡せど、もはや、二人の姿はどこにもなく――
「…………」
「………………」
「……………………」
ただ、沈黙だけが残った廊下。
数人の生徒が、無言のまま、羽根に混じって足元に散らばった紙切れを拾い上げる。
ただの紙吹雪かと思われたそれには、実は可愛い天使のイラストと共に、字が書いてあった。
《バザー品・全品半額券》。
――これは。
半額券を握り締めた生徒たちが、無言のうちに、視線を交わし合い――
「う……っ、うおおおおおおおおお! オレは!!」
『絶対合格』と染め抜いたハチマキを投げ捨て、一人の少年が絶叫した。
「オレは……今日は、もう、勉強は忘れたああああぁ――っ!」
「そ、そうだね……! あたしも……あたしも、遊んじゃうーっ!
いえーいっ! もう、思いっ切り、ぱ~っと、お買い物しちゃうんだーっ!」
日頃のストレスを全部ぶちまけるかのように、拳を突き上げ、少女も叫ぶ。
初等部の廊下は、10分前までの静寂が嘘だったかのように、蜂の巣を突ついたような大騒ぎに包まれた。
「僕も! 僕も行くよっ!
えーっと僕は、バザーに行って、ポップコーン買って、サーカス見て、えーっと、それから~……!」
「遊ぶぞ遊ぶぞ遊ぶぞおおおおお!」
「財布! 財布、取りに行かなくっちゃ――!!」
「ちょっ……!? 待ちなさいよっ、みんな……!」
我に返ったアマンダの制止は、ずもももももももも……!! という怒涛の如き足音にかき消されてしまった。




