笑顔を、君に 2
「ぐ・ぬ・っおおおおおおおおおおおおおぉ~あ!!!」
人の声というよりはもはや怪物の遠吠えのような絶叫が、体技館に響き渡る――
「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だっごふぅっ!?
ぐはっ! がぁ……」
「わぁああああっ!? 監督! しっかりして~っ!」
軽い革の鎧に身を包み、燃えるような赤毛を解き流して一つに束ねた少女が、慌てるあまり妙な踊りをおどりながら、床に倒れて痙攣する監督に駆け寄った。
傍らに膝をつき、振り返って、叫ぶ。
「エルナ! 急いで! 治癒呪文をお願い――」
「い・や……」
叫んだアニータの腕を、がっし、と掴んできたのは、当の監督だった。
ゾンビじみた動きでゆっくりと身を起こしつつ、ひび割れた声を腹の底から絞り出してくる。
「だ・い・じょ・う・ぶ・だ……」
「いやそんな……半死半生どころか、今にも死にそうな声で言われても……」
困り果てて呻くアニータにすがってよろよろと立ち上がりながら、ベルチェは、側に突っ立っている男のほうに指を向けた。
「かっ、彼が……彼がちゃんと演技できさえすれば……
すぐに良くなる……っ、がふっ! ごぼっ! ぐほっ!」
「あああっ! 監督、死なないで!」
またもや床に突っ伏し、しばし、ハンカチで口元を押さえてひくひくしていたベルチェは、やがて、そろりとハンカチを離して呟いた。
「……血?」
「嫌ぁ~っ!? 誰かあぁぁぁぁ!」
パニックに陥り、頭を抱えてアニータが絶叫する――
「こっ……こりゃあ、何つーか……」
「くくく……処置なし、って感じよねぇ……」
思わずそんな感想を漏らした級友たちの視線の先にいるのは、しかし、ベルチェとアニータではなかった。
襟足でひとつに束ねた、長い黒髪。
血に汚れた、漆黒の鎧。
手にするのは、ハンドガードが竜の翼を模した、黒い刃の魔剣。
誰にも見覚えのないその顔は、端整ではあるけれども、まるで命を持たぬ人形のそれのように表情がない――
どこか爬虫類を思わせる無感動さでひとつ瞬きをし、男は、ぼそりと言った。
「失敗、か」
「いやもう失敗っていうか……
成功とか失敗とかいう次元の問題じゃないような気がする……」
なおもひくひくしている監督を、音もなく近付いてきたエルナに預け、アニータは深い溜め息をついた。
今、彼女たちが稽古をしていたのは、芝居のラスト・シーン。
ついに感情を取り戻したベルセルクが、ルティアに向かって微笑みかける場面なのだが……
ディアが、笑わないのである。
黒髪のかつらをつけてベルセルクの衣装をまとい、顔に《虹色蜥蜴》の呪文をかけられたディアは、まさしく伝説に語り伝えられる建国帝の風格を存分に醸していたが、いかんせん、表情がぴくりとも動かない。
これこそ、一同が恐れていたことだった。
ここまでのシーンでは、徹底した無表情さが有利に働いたが――
最後に、最高の微笑みを見せることができなければ、それまでの芝居がいくら良かろうが、全てブチ壊しになってしまうのだ。
無論、何とか彼を笑わせようと、アニータもできる限りの努力はした。
「ディア! 1たす1はっ!?」
「2。」
「ああああ~、駄目だぁ……えーとえーと……はっ!
『おい八っつぁん、聞いたかい? 隣の空き地に、囲いができたってねぇ!』
『へえ、そりゃあ、カッコイイねえ』
なーんちゃって。あははははは!」
「…………」
「………………」
捨て身のギャグ(?)作戦も、何ら効を奏さなかった。
しまいに、
「あーもう! 何でもいいからっ! とにかく笑ってっ!
……そうだ、あたしの真似してみて! 行くよ、さん、はい!
にぃ~」
「……にぃ~」
この瞬間のディアの表情を称して、エルナが『カボチャお化けの断末魔ってあんな感じかもね……』とのコメントを残した。
その顔を目の当たりにして、ベルチェが絶叫の末にぶっ倒れたというわけである。
「うーん……どうすれば……」
「だから、言っただろうが!」
唸るアニータの背後から、怒り狂った声があがった。
銀の髪を灰色に染め、ごてごてと装飾のついたローブを着込んで宰相ラーガス・ベインに扮したマックスである。
びしとディアを指差し、彼は怒鳴った。
「所詮、こいつに、演技なんて無理だったんだよっ!」
「ちょっと! そんな言い方はないでしょっ!?」
聞き捨てならない、とばかりにそちらに向き直り、アニータが怒鳴り返す。
「ディアもディアなりに、一生懸命やってるんだから!
そりゃまあ確かに、あの笑顔は、ちょっぴり破壊的だったけど――
でも、だからって『所詮は無理』なんて言い方はひどすぎるんじゃない!?」
「む……」
マックスが怯んだ隙に、アニータは、ようやく立ち直ってきていたベルチェに向かって言った。
「ねえ、監督……ディアの演技、最初と比べたら、すごく良くなってきてるでしょ?
彼の頑張りは、観客のみんなにも、きっと伝わると思う。
ここまで、きっちり努力してきたんだから……
何も、ディア自身が無理に笑わなくても、そこだけ幻術で笑顔を作るってことで、いいんじゃないの?
本番にはBGMもつくんだし、それで大丈夫だよ!」
「……それは、駄目だ」
「監督!」
「駄目だ……まだ。まだ駄目だ。
まだ、諦めちゃ駄目なんだ……」
ゆらり、と立ち上がって、ベルチェは、静かに首を振った。
「表情は、役者の魂の顕現。
幻ですげ替えても、それは所詮、偽物の笑顔に過ぎない……
それでは、何も伝わらない。
感情を取り戻し、愛するということの意味を取り戻したベルセルクの心を――」
言いながら、ベルチェの視線はゆっくりとアニータを離れ、ディアへと移ってゆく。
「観客に、本当に伝えられるのは、ディア。君だけなんだ」
「…………」
今までになく静かな、そして重々しいベルチェの言葉に、思わずその場の全員が黙って聞き入った。
ディアもまた、無言でベルチェを見返している。
だが、その目は彼を見てはいなかった。
彼の視界の中で、現在の光景は溶けるように消え去り、半ば黒い影に沈んだ灰色の石の壁に変わる。
静寂の向こうから、幾つもの声がよみがえった――
『我らは《格子の館》の子供。
苦しみも悲しみも、喜びも、愛も持たぬ』
『完璧な殺人者たる条件は、誰でも殺せるってことさ。
それはつまり、誰一人愛さないってことなんだよ。
……なーんて、君に言うまでもないよねえ!
そうだろ、完全無欠の殺人人形くん?』
――『あなたに、心なんてないんだもの』――
「……俺、は……」
彼は、何を言おうとしたのか?
その言葉の続きが聞かれることは、ついになかった。
なぜならこの瞬間、
「大変だぁッ!!!」
という叫びと共に――
その声すらかき消す爆発のような音を立てて、一人の男が体技館の扉を蹴り開け、飛び込んできたからである!
「うわ! 何だっ?」
「てめえ……バイアス!?」
マックスが、目を見開いた。
上演時間の最終確認を取りに、学院総長の執務室へと出向いていたはずのバイアス・バッハ。
その彼が、これほどの勢いでこの場に乱入してくるとは――
一体、何事が持ち上がったのか?
「……おい、何事だ!」
「上演時間の件で、どこかの組と揉めたか?」
それまで隅のほうで黙々と作業をしていたダグラスとバノットが、そんな問いを投げかけたが、
「違います! 先生……それどころじゃない。大変なんだ」
バイアスは片手で払い除けるようにして、教官の言葉を一蹴した。
今や、その場の全員が、バイアスを注視している。
集中した視線の中、
「慰問が――」
息を切らし、ばらばらに乱れた髪を撫でつけようともせず、彼は言った。
「慰問が、取り止めになった」




