ただ、そこにいるだけで 2
その頃。
光源のひとつすらない真っ暗な空間で、彼は、じっと膝を抱えていた。
消え去ることのない一つの疑問が、執拗な拷問人の手のように、彼の心に爪を食い込ませてくる。
(……俺は……)
『素晴らしい! ディア、君は実にフラットだね』
『あなたは、怒りなど持たない……持つはずがないわね。
あなたに、心なんてないんだもの』
『憎いから殺すんじゃないよね、君って。
どうでもいいから、殺すんだよね。
誰も彼も、君には、どうでもいいんだ……』
(そうだ。俺は……)
暗闇の中で、手を開く。
視覚にはとらえられない、けれど全ての爪の先に至るまで完璧に制御できる、己の右手。
幾度も血に塗れてなお、深い水の底に棲む生き物のように白い。
それは、忘れるからだ。
何人殺しても、記憶には残らない。
痕跡すら、留めることはない――
だが。
(俺は……どうした……?)
アニータ・ファインベルド。
彼女を見ていると――心が、波立つ。
その面影が、脳裏に焼き付いて離れない――
『あなたに、心なんてないんだもの』
そうだ。
こんなことは、あるはずがない。
あってはならない。
自分は《格子の館》の子供。
この世に何らかの意味を持って存在する人間は《主》と《自己》と《標的》のみ――
それ以外には、何もない。
同胞すら、ただそこにいるというだけのもの。
この学院に遣わされて、出会い、共に過ごし、言葉を交わしてきた幾人もの人々も、ただ、そこにいるというだけのもの――
ただ、そこにいるだけで、心がざわめく。
赤い髪の少女。
(……俺は……!)
白い手が枯木のように曲がり、鋭い爪が手のひらの皮を破った。
――と、その時。
がこんがこんがこん! がっこんっ!!
遠慮会釈のない騒音が、彼の意識の殻を破った。
しばしの沈黙の後、ディアは右手を後ろへ引っ込め、左手で床を探った。
鈍い音と共に、跳ね上げ式の戸を固定していた閂が外れる。
それと同時に、またもや『がこん!』と音が響いて、戸が跳ね上がってきた。
床に開いた四角い穴から、光が射し込んでくる――
いや、光だけではなかった。
「……差し入れだそうだ。ちなみに監督からだ」
聞き慣れた、不機嫌そうな声。
下をのぞくと、やはりと言うか、バノット教官が仏頂面でこちらを見上げている。
彼は、柄を上にして構えていたモップを適当に放り捨て――跳ね上げ戸を乱打したものの正体は、あの先端だったに違いない――、足元に置いていた盆の上から、何やら大きなグラスを取って、差し上げてきた。
グラスの中身は、怪しい液体だった。
色は濁った茶色。
どろりとした質感で、あまつさえ、何とも形容しがたい謎の臭気を漂わせている。
(なるほど)
それを受け取りながら、ディアは納得した。
(芝居が完遂できなかった場合には、これで自決しろと……)
「毒ではないらしいぞ」
教え子の考えを読み取ったように、バノットは言った。
「《月夜の夢》座秘伝のレシピに基づいて調合された、特製ドリンク剤だそうだ。
稽古が追い込みに入ると、役者たちに必ずこれがふるまわれるのだとか言っていたな。
わざわざ食堂の厨房を借りて作ったらしい。
料理長が、大鍋ひとつどうしてくれる、と殴り込んできた」
いったい鍋がどうなったのかは知らないが、それで「毒ではない」と言われても、説得力に欠けることおびただしい。
ディアが黙っているうちに、バノットは、ひょいと机から床に飛び降りた。
教室の床に。
――つまり、ここは、いつも彼らが学んでいる教室であり、ディアは、その天井裏に(勝手に)作った小部屋に潜んでいたのだった。
「そういうわけで、俺は、これから他の奴らにもこれを配ってくる。
グラスは食堂のものだ。飲み終えたら、適当に自分で返却しろ」
慣れない手付きで盆を持ち上げ、がちゃがちゃとグラスを鳴らしながら、大股に歩き去ってゆくバノット。
出入り口の扉を足で開けながら、鋭い一瞥をこちらへ投げて、
「血の臭いがするぞ。右手は、手当てしておけ。
ベルセルクが剣を握れなくては、話にならん」
それだけ言うと、扉をくぐり、再び足で閉めて姿を消した。
「問題ない……」
ディアは呟いた。
指の隙間から血の滴る拳も、彼を悩ませることはない。
肉体の苦痛など、遠い昔に克服した。
それと同時に、余計な感情は全て、削ぎ落としたはずだった――
(俺は、どうしたのだ?)
胸中で繰り返す。
その答えを求めるように、彼は、ベルセルクを演じた。
感情を失った男。
――そうではない。
人らしい心を、魔剣の呪縛に封じられた男……
捨て去ったと思っていた。
だが、あるいは……抑圧し、押し潰したに過ぎなかったのか?
暗殺者としての鉄壁の精神の奥底に、いくつもの感情がうごめき、光を求める植物のように、隙間を探しているのだろうか……?
(違う)
ベルセルクは、魔剣の呪縛を打ち破る。
だが、自分は《格子の館》の子供。
この呪縛から逃れることはできない。
考えることすらもできない。
自分が、《主》とも《標的》とも違う誰かを、特別な人間として認識するなど……
(違う、はずだ)
――最悪なのは、その言葉が、自分でも信じられないことだった。
* * *
「ンぐぶわぼっ!?」
むせ返った拍子に、嚥下し損なった液体が鼻に逆流し、
「ぐっ……ぐぉおおおおお~っ!?」
――沁みた。死ぬほど。
手にしていたグラスを叩き付けるようにテーブルに置き、鼻を押さえてごろごろと床をのたうち回る。
その1分後、
「くそっ! 何が『毒ではない』だ!?
危うく抹殺されるとこだったぜ!」
ダグラス組の委員長マックス・ブレンデンは、ぶつぶつ言いながら、謎の『特製ドリンク剤』を窓の外に捨てていた。
バノット教官の言葉を信じ、うかつにも飲んでしまった自分が呪わしい。
一口含んだ瞬間に、心底後悔させられた。
「ありゃ、何だ……!?
砂糖と泥水と古靴と木の皮を煮込んだみてぇな味しやがって!」
がこん! と荒々しくグラスをテーブルに戻し、古いベッドを軋ませて腰を下ろす。
ここは、彼の自室だった。
「ひとりで幸いだったぜ……」
鼻から謎の液体を出して転げまわる場面など、目撃されたら、委員長の権威が失墜しかねない。
「それにしても! 教官といい、生徒といい、バノット組には、何でああまでムカつく野郎が多いんだっ!?」
無論この時、マックスの脳裏に浮かんでいたのは、ニヤニヤ笑いを浮かべた白い仮面だった。
ついさっき、あの男の死んだふりに騙されたことを思うと、はらわたが煮え繰り返って沸騰しそうだ。
いや、正確に言えば、これほど腹が立つのは、騙されたからではない。
(くそっ、奴め! ファインベルドに俺を攻撃させるとは、陰険な手を使いやがる!)
ディアが倒れた時、誰よりも慌てふためき、そして、誰にも止められないほどの剣幕で、自分に詰め寄ってきた少女。
あの時、翡翠色の目に火花が散っているように見えた。
その火矢のような視線に射抜かれて、逆らうことができなかった。
「くそっ!」
声に出して、どん! とテーブルを叩く。
空のグラスが飛び上がるほどの勢いだった。
「どおぉぉぉぉしてだっ!?
何故に! あんな姑息で根暗で陰険なこそこそ仮面野郎に、あいつは構う!?
そりゃ、俺も人相はいいほうじゃねぇが、あの胡散臭い仮面に比べりゃ、百万倍はマシだぜ!
なのに、俺じゃねぇのか!? 奴なのかっ!?」
――多分、顔の問題ではない。
というより、おそらくアニータにとっては『問題』ですらないのだ。
明朗快活で一本気、極めて爽やかな思考回路の持ち主である彼女にとって、人間関係のどろどろした側面などいった代物は、いまいち考えの外である。
同じ組に所属する友人に肩入れし、ライバルの組に所属する人間に挑みかかるという、それだけの図式でしかないのだろう。
「そういうところに、惚れたんだがなぁ……早まったぜ……」
何しろ、一向に状況が進展しないのだ。
アニータはあの通りの性格なので、遠回しにアプローチしたところで、それが『遠回しなアプローチ』であること自体に気付かれない可能性が大である。
何しろ『ルティアの恋人』としてのベルセルクの役をめぐるマックスとディアの争いを、そのまま『主役』の取り合いとしか受け取らずに、さらりと流すような女なのだ――
「あんたは悪役宰相ってことで、きれいに話がまとまったんじゃ……と来るんだからな。ヘコむぜ。まったく」
一瞬、情けない表情で呟いたマックスだが、次の瞬間には、
「くくく。だが、明日には、いよいよクライマックス・シーンの稽古が始まる……
あの究極のヘボ仮面役者がどこまでやれるか、見物させてもらおうじゃねぇか」
もう立ち直っていた。




