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帝国魔術学院! ―バーサス・エグザミネイション―  作者: キュノスーラ
第五章 ただ、そこにいるだけで
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ただ、そこにいるだけで 2

 その頃。

 光源のひとつすらない真っ暗な空間で、彼は、じっと膝を抱えていた。

 消え去ることのない一つの疑問が、執拗な拷問人の手のように、彼の心に爪を食い込ませてくる。


(……俺は……)



『素晴らしい! ディア、君は実にフラットだね』


『あなたは、怒りなど持たない……持つはずがないわね。

 あなたに、心なんてないんだもの』


『憎いから殺すんじゃないよね、君って。

 どうでもいいから、殺すんだよね。

 誰も彼も、君には、どうでもいいんだ……』



(そうだ。俺は……)



 暗闇の中で、手を開く。

 視覚にはとらえられない、けれど全ての爪の先に至るまで完璧に制御できる、己の右手。

 幾度も血に塗れてなお、深い水の底に棲む生き物のように白い。


 それは、忘れるからだ。

 何人殺しても、記憶には残らない。

 痕跡すら、留めることはない――


 だが。



(俺は……どうした……?)



 アニータ・ファインベルド。


 彼女を見ていると――心が、波立つ。

 その面影が、脳裏に焼き付いて離れない――



『あなたに、心なんてないんだもの』



 そうだ。

 こんなことは、あるはずがない。


 あってはならない。


 自分は《格子の館》の子供。

 この世に何らかの意味を持って存在する人間は《主》と《自己》と《標的》のみ――


 それ以外には、何もない。

 同胞すら、ただそこにいるというだけのもの。

 この学院に遣わされて、出会い、共に過ごし、言葉を交わしてきた幾人もの人々も、ただ、そこにいるというだけのもの――



 ただ、そこにいるだけで、心がざわめく。


 赤い髪の少女。



(……俺は……!)



 白い手が枯木のように曲がり、鋭い爪が手のひらの皮を破った。

 ――と、その時。


 がこんがこんがこん! がっこんっ!!


 遠慮会釈のない騒音が、彼の意識の殻を破った。


 しばしの沈黙の後、ディアは右手を後ろへ引っ込め、左手で床を探った。

 鈍い音と共に、跳ね上げ式の戸を固定していた閂が外れる。

 それと同時に、またもや『がこん!』と音が響いて、戸が跳ね上がってきた。


 床に開いた四角い穴から、光が射し込んでくる――

 いや、光だけではなかった。


「……差し入れだそうだ。ちなみに監督からだ」


 聞き慣れた、不機嫌そうな声。

 下をのぞくと、やはりと言うか、バノット教官が仏頂面でこちらを見上げている。

 彼は、柄を上にして構えていたモップを適当に放り捨て――跳ね上げ戸を乱打したものの正体は、あの先端だったに違いない――、足元に置いていた盆の上から、何やら大きなグラスを取って、差し上げてきた。


 グラスの中身は、怪しい液体だった。

 色は濁った茶色。

 どろりとした質感で、あまつさえ、何とも形容しがたい謎の臭気を漂わせている。


(なるほど)


 それを受け取りながら、ディアは納得した。


(芝居が完遂できなかった場合には、これで自決しろと……)


「毒ではないらしいぞ」


 教え子の考えを読み取ったように、バノットは言った。


「《月夜の夢》座秘伝のレシピに基づいて調合された、特製ドリンク剤だそうだ。

 稽古が追い込みに入ると、役者たちに必ずこれがふるまわれるのだとか言っていたな。

 わざわざ食堂の厨房を借りて作ったらしい。

 料理長が、大鍋ひとつどうしてくれる、と殴り込んできた」


 いったい鍋がどうなったのかは知らないが、それで「毒ではない」と言われても、説得力に欠けることおびただしい。


 ディアが黙っているうちに、バノットは、ひょいと机から床に飛び降りた。

 教室の床に。

 ――つまり、ここは、いつも彼らが学んでいる教室であり、ディアは、その天井裏に(勝手に)作った小部屋に潜んでいたのだった。


「そういうわけで、俺は、これから他の奴らにもこれを配ってくる。

 グラスは食堂のものだ。飲み終えたら、適当に自分で返却しろ」


 慣れない手付きで盆を持ち上げ、がちゃがちゃとグラスを鳴らしながら、大股に歩き去ってゆくバノット。

 出入り口の扉を足で開けながら、鋭い一瞥をこちらへ投げて、


「血の臭いがするぞ。右手は、手当てしておけ。

 ベルセルクが剣を握れなくては、話にならん」


 それだけ言うと、扉をくぐり、再び足で閉めて姿を消した。


「問題ない……」


 ディアは呟いた。

 指の隙間から血の滴る拳も、彼を悩ませることはない。

 肉体の苦痛など、遠い昔に克服した。


 それと同時に、余計な感情は全て、削ぎ落としたはずだった――


(俺は、どうしたのだ?)


 胸中で繰り返す。

 その答えを求めるように、彼は、ベルセルクを演じた。

 感情を失った男。


 ――そうではない。

 人らしい心を、魔剣の呪縛に封じられた男……


 捨て去ったと思っていた。

 だが、あるいは……抑圧し、押し潰したに過ぎなかったのか? 

 暗殺者としての鉄壁の精神の奥底に、いくつもの感情がうごめき、光を求める植物のように、隙間を探しているのだろうか……?


(違う)


 ベルセルクは、魔剣の呪縛を打ち破る。

 だが、自分は《格子の館》の子供。

 この呪縛から逃れることはできない。

 考えることすらもできない。

 自分が、《主》とも《標的》とも違う誰かを、特別な人間として認識するなど……


(違う、はずだ)


 ――最悪なのは、その言葉が、自分でも信じられないことだった。



         *        *        *



「ンぐぶわぼっ!?」


 むせ返った拍子に、嚥下し損なった液体が鼻に逆流し、


「ぐっ……ぐぉおおおおお~っ!?」


 ――沁みた。死ぬほど。

 手にしていたグラスを叩き付けるようにテーブルに置き、鼻を押さえてごろごろと床をのたうち回る。

 その1分後、


「くそっ! 何が『毒ではない』だ!?

 危うく抹殺されるとこだったぜ!」


 ダグラス組の委員長マックス・ブレンデンは、ぶつぶつ言いながら、謎の『特製ドリンク剤』を窓の外に捨てていた。

 バノット教官の言葉を信じ、うかつにも飲んでしまった自分が呪わしい。

 一口含んだ瞬間に、心底後悔させられた。


「ありゃ、何だ……!?

 砂糖と泥水と古靴と木の皮を煮込んだみてぇな味しやがって!」


 がこん! と荒々しくグラスをテーブルに戻し、古いベッドを軋ませて腰を下ろす。

 ここは、彼の自室だった。


「ひとりで幸いだったぜ……」


 鼻から謎の液体を出して転げまわる場面など、目撃されたら、委員長の権威が失墜しかねない。


「それにしても! 教官といい、生徒といい、バノット組には、何でああまでムカつく野郎が多いんだっ!?」


 無論この時、マックスの脳裏に浮かんでいたのは、ニヤニヤ笑いを浮かべた白い仮面だった。

 ついさっき、あの男の死んだふりに騙されたことを思うと、はらわたが煮え繰り返って沸騰しそうだ。

 いや、正確に言えば、これほど腹が立つのは、騙されたからではない。


(くそっ、奴め! ファインベルドに俺を攻撃させるとは、陰険な手を使いやがる!)


 ディアが倒れた時、誰よりも慌てふためき、そして、誰にも止められないほどの剣幕で、自分に詰め寄ってきた少女。


 あの時、翡翠色の目に火花が散っているように見えた。

 その火矢のような視線に射抜かれて、逆らうことができなかった。


「くそっ!」


 声に出して、どん! とテーブルを叩く。

 からのグラスが飛び上がるほどの勢いだった。


「どおぉぉぉぉしてだっ!?

 何故に! あんな姑息で根暗で陰険なこそこそ仮面野郎に、あいつは構う!?

 そりゃ、俺も人相はいいほうじゃねぇが、あの胡散臭い仮面に比べりゃ、百万倍はマシだぜ!

 なのに、俺じゃねぇのか!? 奴なのかっ!?」


 ――多分、顔の問題ではない。

 というより、おそらくアニータにとっては『問題』ですらないのだ。

 明朗快活で一本気、極めて爽やかな思考回路の持ち主である彼女にとって、人間関係のどろどろした側面などいった代物は、いまいち考えの外である。

 同じ組に所属する友人に肩入れし、ライバルの組に所属する人間に挑みかかるという、それだけの図式でしかないのだろう。


「そういうところに、惚れたんだがなぁ……早まったぜ……」


 何しろ、一向に状況が進展しないのだ。

 アニータはあの通りの性格なので、遠回しにアプローチしたところで、それが『遠回しなアプローチ』であること自体に気付かれない可能性が大である。


 何しろ『ルティアの恋人』としてのベルセルクの役をめぐるマックスとディアの争いを、そのまま『主役』の取り合いとしか受け取らずに、さらりと流すような女なのだ――


「あんたは悪役宰相ってことで、きれいに話がまとまったんじゃ……と来るんだからな。ヘコむぜ。まったく」


 一瞬、情けない表情で呟いたマックスだが、次の瞬間には、


「くくく。だが、明日には、いよいよクライマックス・シーンの稽古が始まる……

 あの究極のヘボ仮面役者がどこまでやれるか、見物させてもらおうじゃねぇか」


 もう立ち直っていた。




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