ただ、そこにいるだけで
徹底的に白を基調とした、その部屋で――
「……くくく……そうですか……」
真っ白なシーツの上に、ぼろぼろになった脚本をぱたりと置き、まるで周囲に合わせたような白ずくめの娘は不気味な含み笑いを漏らした。
「あのマックスと、あのディアがねえ。……くくくくく。
練習場が、そんな面白いことになっていたなんて。
私も、ぜひ、居合わせたかったわ……」
「馬鹿者。お前は、まだここを離れてはいかん」
「くく。分かってますよ……」
言ったエルナは、その直後、自らの言葉を裏付けるように軽く咳き込んだ。
爪をきれいな紅色に染めた真っ白な手で、真っ白な喉をさすりながら、苦笑じみた調子で呟く。
「やっぱり、私は、本と相性が悪かったのね……」
「あんな埃とカビの巣窟に入り込んだら、俺でも倒れるわ。馬鹿者」
「くくく。そう、何度も馬鹿者呼ばわりしないでください、先生……」
いかにも医務室のものらしい、極めつきにシンプルなベッド。
その上で、エルナはクッションにあてた背中を軽く伸ばし、かたわらでむっつりとした顔を見せているバノット教官に微笑みかけた。
側の壁には、
『お見舞いの方へ
病人が眠っています
騒げば命はない』
という、命を救う気なのか奪う気なのか判断しづらい文面の貼り紙が掲げられているため、二人とも、極限までひそめた小声で話している。
「私が怒られたら、ミーシャが気にするんですよ……?
だから、怒らないでください……」
「怒っとらん」
子どもが見たら一発で泣き出すこと請け合いの顔で、バノット。
「無茶をするなと言っているだけだ。
ミーシャだけではなく、皆、心配しているぞ。
本番までに、もしも治らないようなら、俺が特別に、お前の代理をつとめてやる。
どうせ裏方だからな。焦らず、ゆっくりと養生しろ」
「くくくくくっ……」
いつもの、口癖のような含み笑いではなく、本気の笑いだった。
いささか怪訝そうな顔をしたバノットに、エルナは、おかしそうに告げた。
「たかが裏方と、侮ってはいけないわ……
先生、ろくに脚本も読んでいないのでしょ……?
私は、ここで毎日、ベルチェ監督と打ち合わせをしてるのよ……」
エルナの仕事は、簡単な幻術でベルチェの演出をサポートすること、戦いの場面で、攻撃魔術を使って効果を出すこと、重い大道具の重量を魔術で支え、道具方の装置の移動を助けること――など、実に多岐に渡っていた。
いわば『縁の下の何でも係』といったところだ。
どのタイミングでどの術を用いるかは、ベルチェ監督との打ち合わせで詳細にわたり決定済みであり、それらの全てが、今、彼女が手を触れている脚本に書き込まれている。
彼女はベッドの上で、これを、もう何十回も読み返していた。
「この『役』がつとまる人間は……もう、私しかいないわ」
そろり、と親指を立ててくるエルナに、今度は、バノットが苦笑する。
少なくとも、それと分かるほどに、表情を緩めた。
「お前たち全員……相当に、本気だな?」
「ええ……まあ、最初は、遊び半分だったんですけど。
何というのか……ハマってしまって。
くくく。きっと、ベルチェ監督の熱が感染ったのね……」
「――ディアにもか?」
教官の言葉に、エルナは、しばし薄く笑みを浮かべたまま黙っていたが、
「……それだけじゃ、ないでしょうね」
「やはり、お前もそう思うか?」
「くくく。『そう』って……?」
「奴が、あそこまで熱心になっている理由だ」
ベッドわきの椅子の上で、バノットは、がっしりとした肩をすくめた。
「俺も現場に居合わせたわけではないが、マックスと対峙した時のディアは、いつになく感情を昂ぶらせている様子だったらしいぞ。
――まあ、フィル情報なので、いくらか大袈裟かも知れんが。
単に、役を奪われかけた程度で、あいつがそこまで動揺するはずもあるまい?」
エルナは、再度沈黙した。
しかし、今度は笑みを浮かべてはいず、真剣な面持ちで深く考えを巡らせているといった様子だ。
ややあって、彼女は言った。
「マックスと、ディア……どっちが勝つかしら――?」
「というか、どちらが負けても、そいつがひどいことになりそうな気がする」
重々しく、バノット。
「というわけで、俺としては、教え子の肩を持っておこうか」
「……応援、するつもりですか?」
「うむ」
まあ、という形に口を開けたエルナに、バノット教官は、即座に言い足してきた。
「心の中限定でだ」
「――くくく。やっぱり」
* * *
「馬鹿っ!」
狭い部屋に、少女の絶叫がこだまする。
「まだ、分かんないのか、この鈍感男っ!
あたしは……あたしは、ベルちゃんを、絶対失いたくないんだっ!
だって……」
涙で詰まる声を振り絞るようにして、彼女は叫んだ。
「あたし、ベルちゃんのこと、大好きだからっ!」
「…………きゃ~っ!」
数秒経って、少女の魂の叫びに答えたのは、ぱちぱちという拍手と、いささか間延びした歓声である。
「すごいです~! 迫真のお芝居ですの、アニータさん!
感動ですわ、感動ですわ~っ!」
「そうー?」
照れたように頭をかいて、アニータはえへへと笑った。
つい今しがた、凄絶なまでに真剣な告白シーンを展開していた『ルティア』はどこへ行ったのかと思うほどの変わり身の速さである。
ここは、女子寮《風見鶏館》の、アニータたちの自室だった。
合同練習が終わり、休憩しろと言われたものの、どうにも芝居のことが頭から離れないふたりは、寮に戻って自主錬を続けているのだ。
「それだけのお芝居ができれば、きっと、監督も喜んでくれますわ~」
「うん。そうだといいけど……」
にこにこしているミーシャとは対照的に、アニータの表情は、どうにも浮かない。
「どうしたんです? アニータさん。何だか、元気がないですの」
「いや……まあ、失礼な言い方ではあるんだけど……
このシーン、あたしはいいとして、ディアが、大丈夫かどうか……」
中空を見つめて、思わず考え込むミーシャ。
ややあって、彼女は、半ば首を捻りながらも、励ますように言ってきた。
「う~ん……でも、このシーンは、まだ、大丈夫だと思いますよ~?」
二人が話している『このシーン』とは、反乱軍を率いて王城に突入したベルセルクが、ルティアを人質にとった宰相ラーガスと対峙する場面のことである。
味方が罠によって分断されてしまい、ベルセルクは単身、ラーガスと戦うこととなる。
だが、ラーガスの腕にルティアが捕われているために全力を出し切れず、ほとんど一方的に魔術で攻撃され、満身創痍の有様だ。
ルティア自身もナイフを持っているのだが、うかつに動けばベルセルクが殺されるかもしれないという恐怖のために、その刃を、ラーガスに突き立てることができない。
ベルセルクは、ルティアに向かって『俺のことには構わず、ラーガスを殺せ』と叫ぶ。
だが、それでもなお、ルティアは、動くことができない――
「で、『どうしてやらないんだ』ってベルセルクの言葉に、ルティアがついに、これまで抑えつけてきた自分の気持ちをぶちまける……」
そこまで言って、幾分引きつった苦笑のような表情を浮かべ、アニータは呟いた。
「この状況って……もしも、ほんとのディアなら、何の犠牲もかえりみず、敵を抹殺しにかかってるところだよねぇ……」
「でもでも、お芝居としては『ルティアさんに告白されて、呆然とする』っていうだけのところですもの。
ですから、ディアさんにも、そんなに難しくはないと思いますわ~」
――ひどい言われようである。
ミーシャは、難しい顔で続けた。
「むしろ、問題は、この直後の、ラストシーンだと思うのです~……」
呆然とするベルセルクに、とどめを刺そうとラーガスが杖を振り上げる。
だが、そこへ、血みどろになりながら敵を突破してきた仲間たちが駆けつけた。
ホークが放った矢でラーガスの集中が乱れた隙に、ベルセルクは最後の力を振り絞って魔剣を振るい――
「宿敵であった宰相ラーガス・ベインは滅びました……
けれど、陛下は戦いで深手を負っておられ……
その命をつなぎ止めるため、魔剣は、なおも血を求める」
「魔剣に操られ、ルティアに刃を向けるベルセルク……
そんな彼に……ルティアは黙って、微笑みを浮かべながら目を閉じる……
そして……」
それまで、実際の場面を想像するように両の目をつぶっていたアニータは、不意に、ぱち、と目を開けた。半眼で。
「そして……問題は、次のシーンなんだよねっ!
――ディアに、できる?
まあ、できるとは思う……できるといいな……
できることも、あるかも知れない――
って、絶対、ムリ!? ああああああっ!」
何を想像したものか、いきなり頭を抱えて叫び出すアニータ。
その傍らで、彼女のベッドにちょこんと腰を下ろしていたミーシャも、頬に手を当て、心配げに溜め息をつく。
「至難、という感じですねぇ……
でも、そこが本当の本当に最後のシーンで、一番重要な場面ですから。
ここまできて、できない、なんてことになったら、お芝居自体が成り立たなくなってしまいます~……
ディアさんには、何が何でも、頑張ってもらわなくては~!」
「……そうだよね」
むっくりと起き直り、アニータは、拳を固めて頷いた。
「ほんとに、そうだよ。ここまで来たら、後戻りはできないもん。
……よし! 大丈夫! 絶対に、やれるっ!」
握った拳を突き上げて、彼女は勢いよく気を吐いた。
「ディアも今頃、自主錬の真っ最中だよ。
それで、きっと何か、パワーアップしてるに違いないっ!」




