1話「私を殺してほしい」
「私を殺してほしい」
男は、まるで今日の天気でも尋ねるような顔で言った。
私は手にしていた帳面を閉じた。
「……もう一度お願いします」
「私を殺してほしい」
「聞き間違いじゃなかった」
「ええ」
男は静かに頷いた。
年齢は五十代くらい。仕立てのいい濃紺の上着を着ている。髪には白いものが混じっているが、姿勢はいい。
何度か店に来たことのある客だ。
名前は、アル。
少なくとも、私はそう聞いている。
「アルさん」
「はい」
「ここ、相談屋ですよ」
「知っています」
「殺し屋ではありません」
「それも知っています」
困った。
こういう客は初めてだ。
私は帳面を開き直した。
「では、相談内容を確認しますね」
「はい」
「アルさんは、自分を殺してほしい」
「そうです」
「私に?」
「あなたに」
「……どうして?」
アルは答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
夕暮れの街では、仕事を終えた人たちが家路を急いでいる。
私の店は大通りから少し外れた場所にある。
看板には、小さく『相談承ります』とだけ書いてある。
人の悩みを聞いて、必要なら相手と話す方法を一緒に考える。
それが私の仕事だ。
夫婦喧嘩。
親子喧嘩。
隣人との揉め事。
店を続けるか、畳むか。
恋人に別れを告げるべきか。
そんな相談がほとんどだ。
人を殺す相談なんて、受けたことがない。
「アルさん」
「はい」
「死にたいんですか?」
「いいえ」
即答だった。
「では、なぜ殺してほしいんです?」
「それを、あなたに相談したいんです」
「……順番がおかしくありませんか?」
アルは少しだけ笑った。
「そうかもしれません」
私はため息をついた。
この人は、いつもこうだ。
質問すると、答えそうで答えない。
けれど、嘘をついている感じもしない。
だから余計に困る。
「殺すことはできません」
「そうですか」
「はい」
「分かりました」
あっさり引き下がった。
「分かりました、って……」
「あなたなら、そう言うと思っていました」
「だったら、どうして頼んだんです?」
アルは答えず、椅子から立ち上がった。
「今日は、これで失礼します」
「ちょっと待ってください」
私は思わず呼び止めた。
「アルさん」
「はい」
「本当に、死にたいわけじゃないんですよね?」
アルは振り返った。
さっきまでの穏やかな顔から、少しだけ笑みが消えていた。
「……死にたいわけではありません」
それだけ言って、店を出ていった。
扉が閉まる。
私はしばらく、その背中が消えた方を見ていた。
そして思う。
この人は、いったい何を抱えているのだろう。
――それが、数週間前のことだった。
最初にこの人が店へ来た日のことを、私は今でも覚えている。
昼過ぎ。
客が途切れて、私は帳簿を整理していた。
そこへ、見慣れない男が入ってきた。
「ここは、相談屋で合っていますか?」
「看板にそう書いてあります」
「失礼しました」
男は店内を見回した。
妙にきちんとした動作だった。
椅子に座るときも、背筋が伸びている。
私は少しだけ首を傾げた。
「どうぞ。今日は何の相談ですか?」
男は少し考えてから言った。
「息子のことです」
「息子さん?」
「ええ」
「何か問題でも?」
男は困ったように笑った。
「嫌われているようなのです」
「それは……」
私は言葉を選んだ。
「息子さんに?」
「はい」
「何歳ですか?」
「もう、いい歳です」
「それなら、嫌われているかどうかくらい、本人に聞けばいいんじゃないですか?」
男は目を丸くした。
それから、初めて少しだけ笑った。
「なるほど」
「何か変なことを言いました?」
「いえ」
男は首を振る。
「正しいと思っただけです」
そのときの私は知らなかった。
目の前に座っているこの男が、誰なのか。
そして数週間後。
この男から、
「私を殺してほしい」
と頼まれることになるなんて。




