第98話 対岸の返答
ナミの生存は、思わぬ形で対岸に伝わった。
捕虜交換の交渉の席で、王国側の軍使が、条件の末尾に一行、付け加えたのだ。〈貴軍の軍竜一頭を保護、治療中。名はナミと仮称〉。軍使は深い考えなく、事務的に伝えた。
ガルデの陣で、その一行を二度読んだ者がいた。
イェルダである。
老従軍竜医は、幕僚の席で手を挙げた。
「その竜、鑑札の番号は」
照会の返事は三日後に来た。番号は、イェルダの帳面にあった。名はヴェルク。九歳。西の山村の、元は炭運びの竜。徴用は三年前。渡河戦の朝、彼女が「翼膜の古傷、長距離飛行は不適」と所見を書き、無視された竜だった。
「生きていたのか」
イェルダは、その夜、幕僚に進言した。負傷竜の相互返還を、捕虜交換の枠組みに加えるべきだ、と。軍は渋った。竜は兵器であり、兵器の返還は利敵だ、と。
「では言い方を変えましょう」老竜医は言った。「壊れた兵器の修理を、敵にやらせるのです。餌代も薬代も向こう持ちで。──これなら利敵ではなく、節約です」
幕僚たちは笑い、笑ったついでに、承認した。
こうして、戦争のただ中に、奇妙な取り決めが一つ生まれた。〈両軍は、保護した敵軍竜を治療の後、次回交換時に返還できる〉。
小さな、竜一頭ぶんの穴が、戦争に開いた。
穴を開けたのは、砲でも槍でもなく、三十年ぶんの帳面と、老眼鏡の奥の目だった。イェルダはその晩、帳面の隅に短く書いた。〈ヴェルク、生存。対岸の縫合、良好〉。三十年で一番いい行だったと、後に彼女は語っている。




