第94話 岩
バン司令が、突端に向かって歩き出した。
「司令!」
「来るな」司令は、振り返らずに言った。「この竜は、わしが徴用の判を押した。名前はドウマ。南の石切り場の力竜だ。石を曳かせたら、砦一の竜だった」
司令は、暴れる竜の正面に、ゆっくりと回り込んだ。
燃える竜と、兵の列の、間に。
「ドウマ」
岩のような男は、岩のような声で、名を呼んだ。
暴れていた竜が、一瞬、動きを止めた。夜の見回りの足音を、竜たちは覚えている。八十の房を、二十年、歩き続けた足音だった。
「済まんな」司令は言った。「こっちだ」
司令は、突端へ向かって歩いた。竜は、痛みに咆えながら、それでも、その足音を追った。一歩。また一歩。兵の列から、崖の突端へ。
燃える竜が司令に追いついたのは、突端の際だった。
二つの影が、縁で重なり──淵へ、落ちた。
水音は、一つしか聞こえなかった。
崖の上の誰も、しばらく動けなかった。ハギが膝をつき、竜兵たちが順に帽子を取った。カヤは、手控えを胸に抱えたまま、淵の暗い水面を見ていた。診られなかった竜と、それを最後まで背負った人。両方が、水音一つの中に沈んだ。
ドウマの火は、水の中で消えた。バン司令は、三日後、下流の岩場で見つかった。帳面は、胸の内衣に、油紙で包んで仕舞われていた。濡れてはいたが、読めた。
最後の頁の、最後の行は、その日の朝に書かれていた。
〈ドウマ、焦げ強し。今夜が峠。
わしの判で徴用した竜、通算三百十一頭。名はすべて本帳にあり。
あとを頼む〉




