第9話 所見に及ばず
水売りの荷竜だった。
主訴は「元気がない」。窯裏の診療所の土間で、カヤはいつも通り、目、喉、立ち方の順に診た。
喉に耳を当てたとき、竜の息が、甘かった。
熟れすぎた果物のような、かすかな甘さ。カヤは竜の口の端を拭った。指に、灰色の、脂っぽい粉。
「先生」
ガマは診察の途中で顔だけ上げ、カヤの指先を見て、竜の息を一度嗅ぎ、それだけで全部を了解した。
「この竜、どこの竜舎だ」
「東です」水売りが言った。「東竜舎の百五十六房。……あの、悪い病気ですか」
「隔離する。うちの裏の空き房に、今日から」ガマは言った。「あんたには済まんが、代わりの竜を都合するあてを探せ。それと、東竜舎で、この竜の房の近くで咳をしとる竜がどれだけおるか、思い出せるだけ思い出してくれ」
水売りは、五頭、数えた。
その日の夕方、ガマは二十年ぶりに丘を上った。カヤも同行した。師会本館の防疫局に、所見を届け出るためだ。
応対した防疫官は、ガマの名を聞いた瞬間から、書類しか見なかった。
「灰咳の疑い、と」防疫官は書類をめくった。「根拠は、粉の性状と、息の甘さ。……検査法として認められたものではありませんな」
「二十年前の疫の、臨床所見だ。俺は当事者だ」
「存じています。あなたの『臨床所見』が二十年前に何を広げたかも、記録で存じています」防疫官は書類を揃えて、卓の端に置いた。「東竜舎は検疫官が毎日見ています。報告は、異常なし。一開業医の、しかも──失礼ながら処分歴のある三等の所見をもって、竜市前の隔離検査は、開けません」
「竜市が終わってからでは遅い」ガマは言った。「市には六百頭集まる。分け火の披露もある。火の貸し借りもある。市が、火種の市になるぞ」
「所見に及ばず」防疫官は判を押した。「お引き取りを」
帰りの六十段を、ガマは無言で下りた。
下り切ったところで、カヤは言った。
「どうしますか」
「診療所の裏房で、罹った竜を預かる。窯裏の患者には、火の貸し借りをやめるよう触れて回る。分け火は延期させる」ガマは言った。「俺たちにできるのは、そこまでだ」
「東竜舎の五頭は」
「手が出せん。他人の竜だ」
「竜市は」
ガマは、答えなかった。
カヤはその夜、手控えに書いた。
〈灰咳、窯裏一例目。師会、所見に及ばず。
覚え:書類は病を読まない。事実だけが伝わるとは限らない〉




