第8話 灰咳
カヤが灰咳の名を初めてガマの口から聞いたのは、夏の終わりの往診の帰りだった。
パン屋の窯竜が仔を産んで、分け火の立ち会いを頼まれた。親竜が仔竜の口に、小さな火の玉をそっと吹き込む。仔竜が咳き込み、それからきゅうと鳴いて、喉の奥がほんのり熱を持つ。窯裏の路地じゅうが見に来て、拍手が起きた。
帰り道、ガマは珍しく上機嫌で、それから、ふと言った。
「分け火はな、いいもんだ。だが、あれが一番危ない瞬間でもある」
「危ない?」
「火株は口から口へ移る。いい株も、悪いものもだ」ガマの声から、機嫌が抜けていった。「二十年前の灰咳は、分け火と、火の貸し借りで広がった」
「火の貸し借り」
「竜の火が事故で消えかけたとき、隣の竜から株を借りて足す。下町じゃ普通にやる。醤油の貸し借りと同じ感覚でな」
「継ぎ火は、あんなに危ないのに?」
「消えかけの嚢は、空き家も同然だ。入るだけなら、焼き合いは起きん」ガマは歩きながら、遠くを見た。
「灰咳ってのは、火株に取り憑く病だ。取り憑かれた株は、火の素を作る代わりに灰を作る。竜は灰を咳き、火は細り、消える。火が消えた竜は、ふた月で死ぬ。消えた嚢は灰で塞がって、貸し火も根付かん」
「治療は」
「ない。当時はな」ガマは言った。「師会がやったのは、治療じゃなく、始末だ。罹った竜と、同じ竜舎の竜を、まとめて処分した。広げないためには、それしかないと言われた」
「先生が落とされたのは、そのときですか」
「知っとるなら訊くな」
「聞いたのは、落とされたことだけです。なんでかは、誰も教えてくれませんでした」
ガマはしばらく黙って歩いた。
「処分名簿から、十七頭抜いた。症状の出とらん竜まで、房が同じというだけで載っとった。診もせずにだ」彼は言った。「俺は診た。診て、罹っとらんと判断した竜を抜いた。十七頭のうち十一頭は生き延びて、六頭は──俺の見立て違いで、罹っとった。その六頭から、二つの竜舎に広がった」
カヤは、足を止めた。
「広げたんですか。先生が」
「…そうだ」ガマは止まらずに歩き続けた。「十一頭救って、二竜舎ぶん広げた。差し引きでどうなるかは、誰にも計算できん。師会は俺の等級を落とし、窯裏の連中は俺を拾った」
カヤは、小走りに追いついた。
「もう一度、同じことが起きたら」カヤは訊いた。「先生は、また抜きますか」
「抜かん」ガマは即答した。それから、少しだけ間を置いて、言い直した。「抜かんで済むように、今度は、罹っとるかどうかを正しく分ける。二十年、そのことばかり考えとった」
「分けられるんですか」
「灰咳の粉はな、脂状で、火にくべると緑がかった炎が立つ。罹って三日目から、咳が出るより先に、竜の吐く息が甘くなる」ガマは自分のこめかみを叩いた。「全部、ここに書いてある。二十年ぶんな。──使う日が来んのが、一番いいんだが」
その七日後、使う日が来た。




