第87話 対岸の帳面
川向こう、ガルデ側の砦にも、竜医はいた。
イェルダは五十二歳、ガルデの従軍竜医だった。三十年、国境の砦を回って、徴用竜を診てきた。
彼女の帳面には、三十年ぶんの数字がある。徴用された竜。返された竜。返されなかった竜。数字は、どの戦でも同じ形をしていた。戦が始まると徴用が増え、戦が長引くと返されない竜が増え、戦が終わると、誰も数字を見なくなる。
今度の戦で、イェルダが気にしていることが一つあった。
対岸──王国側の砦の竜の、飼いが良いのだ。
物見の報告では、王国の徴用竜は毎日足を湯に浸け、荷の重さは制限され、病竜は後方に下げられる。四年前には、暴走した軍竜を処分せずに治した、という噂さえあった。
「敵に学ぶのは、腰が引けるかい」若い軍医が笑った。
「竜に国境はないよ」イェルダは笑わなかった。「あるのは、川と、橋と、命令だけだ。……良い飼いは、どこの岸のものでも良い飼いだよ」
彼女はその夜、帳面の隅に書いた。
〈対岸に、数える者がいる。たぶん、わたしと同じように〉
書いてから、老竜医は老眼鏡を外して、川の方角の闇を見た。三十年この仕事をしてきて、確かめたいことは一つずつ減り、最後に一つだけ残った。竜を数える人間は、敵と味方に分かれても、同じものを数えているのか。答え合わせの機会は、たぶん戦のあとにしか来ない。来るなら、生きて会うことだ。




