第80話 嵐の前
開戦の報せは、春の辻に貼られた。
〈北辺国境において、ガルデ王国軍、川を越えて侵入せり。
我が国はこれを国土への侵犯と認め、北辺全域に戦時を布告す〉
辻の貼り紙の前は、静かだった。誰もが、いつか来ると知っていた報せは、来ても声にならない。
人だかりの後ろで、年寄りが一人、小さく手を合わせた。二十年前の戦を知っている歳の人々は、みな似た顔をしていた。戦の顔ではない。戦のあとの顔だ。あれをもう一度やるのか、という顔だった。
窯裏の路地を、カヤはゆっくり歩いて帰った。
パン屋の窯には火が入り、水売りはゴウタと水を運び、炭屋のクロは炭俵を牽いていた。井戸端では、井戸竜が車輪を回していた。いつも通りの、当たり前の朝だった。
当たり前は、いいものだ。
そして当たり前は、黙っていては守れないことを、カヤはこの数年で学んでいた。
診療所に戻ると、帳場に三人と一頭が揃っていた。ガマが薬研を挽き、ツグミが器具を数え、ハギが竜体図を写し、ゲンが土間の定位置に伏せていた。
「布告、見ました」ハギが顔を上げた。「先生。竜徴令、また出ますよね」
「出る」ガマが言った。「四年前より、大きいのがな」
「診断書の書式、増やしておきます」ツグミが言った。「十六頭ぶんじゃ、足りなくなる」
カヤは、帳場に座り、手控えの新しい頁を開いた。
頁の頭に、日付と、一行を書く。
〈戦時、布告。窯裏の患竜、現在三十一頭。全頭の最新の診療録を、今月中に写しで揃えること。
覚え:嵐の前に、数えておく〉
筆を置いて、カヤは器具棚を見た。ガマの器具と、シラスの手帖と、自分の手控えが、同じ棚に並んでいる。
継がれてきたものは、嵐でも燃えない。
──いや、とカヤは言い直した。継がれてきたものだって、燃えるときは燃える。燃えないのは、継ぎ方を覚えた手のほうだ。手は、焼けても覚えている。だから、何度でも継げる。
燃やさせない、と十九の竜医は思った。




