第18話 帰郷
以前は十日だった楢峡の村までの道のりを、カヤは九日で歩いた。
峠を越えて村が見えたとき、最初に確かめたのは、竜舎の煙出しだった。細いが、湯気が上がっていた。ミゾレは、まだ火を保っていた。
村に入る前に、カヤは竜舎に寄った。
戸を開けると、ミゾレは寝藁の上で、もう頭を起こしていた。峠を下りてくる足音で、分かっていたのだ。カヤの足音だけは、雪でも風でも、聞き分ける。
「……ただいま」
老竜は、ゆっくりと首を伸ばして、カヤの手のひらに乾いた鼻先を押しつけた。出立の朝と同じ仕草だった。違うのは、カヤのほうだ。あの朝は、何も持っていなかった。今日は懐に免状があり、背中に王家の灰がある。
「免状、取ったよ。夏までって言ったのに、遅くなっちゃったけど」
ミゾレは、まばたきを一つした。遅い、とも、よく来た、とも読める間だった。カヤは寝藁の隣に座り込み、しばらく、ただ喉の音を聞いていた。細い。細いが、まだ燃えている。十五年聞いてきた音の、いちばん細い日の音だった。
村は、カヤの免状を回し読みして、それから、カヤの話を聞いた。
王都の疫のこと。百十二頭のこと。継ぎ火のこと。王家の灰のこと。
そして──ミゾレの株を分ければ、ミゾレの残りの火が短くなること。
「どのくらい、短くなる」村長が訊いた。
「分かりません」カヤは正直に言った。「灰で殖やしてから採れば、削りは浅くて済みます。それでも、ただでは済みません。ミゾレはこの冬を越せても、次の冬か、その次には──」
「治しに帰ってきたんじゃなかったのか」誰かが言った。「王都の竜のために、うちの竜を削りに帰ってきたのか」
囲炉裏が鳴った。
カヤは、その言葉を受け止めた。半分は、その通りだったからだ。
「……あたしは、両方やりに帰ってきました」カヤは言った。「灰でミゾレの株を殖やします。殖えれば、ミゾレの火は今より強くなります。この冬は、確実に越せます。そこから株を分けるかどうかは──」
カヤは、シラスの言葉を、そのまま使った。
「ミゾレに訊きます」
翌朝、カヤは竜舎で処置を始めた。
王家の灰を、熱い湯に溶いて、立ちのぼる湯気をミゾレに吸わせる。焔嚢は気道の脇にある。息と一緒に入った灰が嚢に届くように、吸わせたあとは火を短く吐かせて、喉の奥の気流を回す。手帖の分量を、ミゾレの歳と弱りに合わせて三分の一に薄めた。ここは術ではなく、目だ。
三日目、ミゾレの咳が減った。
五日目、朝の火が、黄色から白に戻った。
七日目、ミゾレは自分から竜舎を出て、村の子どもらの前で、二十年ぶりに空に向かって火を吐いた。青みがかった白い火だった。村中が見に出た。
処置の間、カヤは竜舎に寝泊まりした。
夜、灯りを消すと、昔と同じ音がした。ミゾレの喉で株が燃える、ぼそぼそという音。子どものころ、カヤはこの音を子守唄に育った。眠れない夜は竜舎に忍び込んで、大きな脇腹に背中を預けた。竜の体温は、いつでも布団より温かかった。
「王都はね、竜がいっぱいいるんだよ」
藁の上で、カヤは一日の終わりに、その日あったことをミゾレに話した。井戸竜の車輪の話。パン屋の窯竜の話。ヤブと呼ばれる師匠の話。火の消えかけた竜たちが、あんたのような古い火を待っていること。ミゾレは目を閉じて聞いていた。聞いているのか眠っているのか、昔から分からない。分からないままでいいのも、昔からだった。
十日目の朝、カヤは竜舎で、採取の器具を並べた。
並べただけで、手を止めた。喉から管を入れられるのは、竜にとって楽なことではない。強いるつもりは、なかった。
「ミゾレ」カヤは言った。「王都に、火が消えかけてる竜が、二十六頭いる。あんたの株なら、継げる。継いだら、あんたの火は短くなる」
ミゾレは、寝藁の上で、長いことカヤを見ていた。
それから、ゆっくりと首を伸ばして、並べられた器具の横に、顎を載せた。
喉を、カヤのほうに向けて。
竜は口が利けない。だから、立ち方と、目と、首の向きが、口の代わりだった。
採取は、その日のうちに、休み休み、日暮れまでかけて行った。
管を入れている間、カヤは空いた手で、ずっと首筋を撫でていた。ミゾレは一度も嫌がらなかった。一壺終わるたびに褒めて、額を付けて、餌の糖蜜を多めにやった。百五十二年の株が、少しずつ、三つの壺に移っていった。
最後の晚、カヤは竜舎に泊まった。
子どものときのように、大きな脇腹に背中を預けて、天井の梁を見た。喉の音が、背中越しに伝わってくる。灰で強くなった火の、久しぶりに太い音だった。
「ミゾレ、あんたのおかげであたしは竜医になったんだよ」
返事の代わりに、長い尻尾が、ぱさりとカヤの膝に載った。昔、寒い晚にそうしてくれたのと、同じだった。
「あんたの火、あたしが繋いでいくよ」
竜舎の灯りを消しても、カヤはしばらく、目を閉じなかった。この温かさを、体で覚えておくためだった。




