第133話 海の向こうの手帖
春先、窯裏の診療所に、異国の客が来た。
白髪の老女が、従者も連れず、川向こうの訛りで言った。
「診察は銅三十文と聞いたがね。両替はしてきたよ」
イェルダだった。ガルデの老従軍竜医は、講和の条項──竜の防疫に関する情報交換──を盾に、正式の許可を取って、国境を越えてきたのだった。目的は一つ。逆継ぎ火の伝習である。
伝習は、十日続いた。
カヤは、隠さず全部教えた。灰の餌の分量。焦げの息の三段階。見切りの目の作り方。イェルダは老眼鏡を掛けて、一言も聞き漏らさずに帳面に写し、時々、三十年の経験から鋭い問いを差し込んだ。ガマとイェルダは初日から老竜医同士で意気投合し、夜ごと酒を酌み交わしては、互いの国の藪医者の悪口で笑い合った。
「うちには、軍火を植えられた竜が、まだ三十九頭いる」帰り際、イェルダは言った。「帰ったら、順に抜く。……いつか、あんたの弟子を貸しておくれ。若いのに教わるほうが、うちの若いのには効くから」
「ハギさんが三等に受かったら、考えます」
「例の、峠の少年かい」老女は笑った。「楽しみにしてるよ」
国境の川を、一冊の帳面の写しが渡っていった。
竜の医術に、国境がなくなった最初の春だった。
見送りの朝、ゲンとソラが渡し場まで荷を牽いた。イェルダは別れ際、ソラの喉に手を当てて、長いこと熱を読んでいた。「……いい火だ。敵国の婆が言うのもなんだがね、この仔が生きてるってことが、あんたの国の一番の戦果だよ」
返す言葉より先に、ソラが、きゅう、と鳴いた。




