生まれる命
強い風が耳元で唸っている。ナイフのように鋭く、春子の肌を切って通り過ぎる。
ニックの右手が振り上げられる。さっき見たように、空気の全部がニックの右手に向かっているようだった。強い風に耳が千切れそうに痛い。
耳だけじゃない。皮膚がすべてガリガリと引っかかれるように痛い。頬にピシリと電気が走ったような感触。おそらく切れて血が出ている。春子はじっと立っていた。最期の瞬間まで、ニックを見続けていたい。
こんなときなのに、片腕に風を纏うニックの姿は美しかった。風が黒い髪を乱して、しかし瞳は冷静なままだ。強い風が、ニックの右腕を鋭利な刃に変える。
ごうごう。風が鳴く。集まった空気が衝突しあって唸る。
ニックは手の形が見えないほど右手に風を集めて、掲げる松明のように、あるいは剣のように天高く腕をかざした。瞳は相変わらずなんの感情も映さず、ひたと春子を見据えている。
その一瞬後。
ニックはさっと身を翻した。春子の視界いっぱいに、黒い羽が広がる。ジーンズに包まれた長い足が跳躍する。だれかが吠えた。ニックなのか、風の唸り声なのかわからなかった。
バサリ。翼が風を叩く音がする。くつろいだ様子でテーブルに座っているクインめがけてニックは大きく片腕を振ると、風の剣を振り下ろした。クインが目を見開く。
ズゥン――。
地響きのような音が室内を占める。砂埃が舞う。砂埃の中で、どちらのものかわからない黒い羽が無数に舞う。一瞬が、永遠に感じた。
やがて霧が晴れるように砂埃が拡散する。その向こう側に彼は立っていた。
「――ニック」
春子はつぶやく。つぶやいて手を伸ばす。こちらを振り返らない、後ろ姿。黒い羽がニックを包むように広がっている。わずかに前かがみになって――。
ニックは、そのまま膝から崩れ落ちていった。触れずに終わった自分の両手が空をつかむ。
銅像が倒れるように、ずぅんと硬直したニックの体が倒れていったのを、呆然と見ていた。
「…………え?」
ヒヤッハッハ!
クインが叫び声――いや、笑い声を上げた。鳥の声のように甲高い声が室内に響き渡る。
ニックは倒れたまま、ビクリ、ビクリと細かく痙攣していた。裸の胸に、大きな黒い痣のようなものができている。体中にはしる赤い傷跡よりも大きい。口の端からマグカップ一杯分くらいの赤黒い血を吐いた。カーペットに不吉な黒い染みが広がる。
「ニック」
春子は叫び、その場にがばりと座りこんだ。心臓が誰かに思い切り揺さぶられているようにガンガンと鳴り響く。自分の荒い呼吸にまざって「あぁ」とも「はぁ」ともつかない声が出る。
なんで。どうして。
クインが笑いながら、興奮したように叫ぶ。目が異様にぎらぎらと光っている。口の端が切れて赤くなっている。
「なんて馬鹿なんだろうね! あんなヘタな芝居に俺様が騙されたと、本気で思ったのか」
ヒャッハッハ! 声が超音波のように室内を貫く。
春子は首を浅く横に振り、ニックの腕を両手でつかんだ。
「ニック、ニック」
壊れた機械のように繰り返し名前を呼ぶ。ニックは顔中に苦悶の表情を浮かべている。顔はいまや紙のように真っ白で、額には水滴のような汗がいくつも浮かんでいる。陸にうち捨てられた魚のように、体が不規則に痙攣していた。
胸の黒い痣は、よく見ると皮膚が焼けて黒くなった跡だった。そこからカーペットに向かって幾筋も血が流れ落ちて行く。春子はパニックに陥っていた。
どうしよう。なんでこんなことに。
「いや、起きて! ニック!」
名前を呼び続ける。それしか言葉を知らない生き物のように。あまりの恐怖に、涙も出ない。からだの水分をごっそり奪われたように、体内がどんどん乾いていく。ニックの腕をガクガクと揺さぶる。
「無駄だ、人間。この悪魔はおまえより愚かだった。見ろ、こいつの顔を。実にいい」
クインは笑いながら、ニックの頭を踏みつけた。春子は一瞬、眼裏が真っ赤になった。なにも考えられず、反射的にニックの頭にあるクインの足を殴り飛ばした。クインの口元から笑いが消えた。沼色の目が、ゆっくりと赤く濁っていく。翼が威嚇するようにピンと張られた。
「人間、いい気になるなよ。俺は今すぐにでもおまえの魂を奪うことができるんだぞ」
クインを縁取る空気だけ、淀んで棘だらけになったのが見えた気がした。 ニックの頭にある足が離れた。春子に向かって一歩踏み出す。春子は自分を見下ろすクインを、敢然と見返した。恐怖はなかった。あるのは怒りだけだった。
恐くない。私はこんな男を畏れない。本当の恐怖とはなにか、今、身をもって知ったから。
クインの足を、引きとめる手があった。ニックの白い手だった。
「……めろ」
かすれた声が、赤黒い血と一緒に口からこぼれる。
「かのじょ、近づくな」
「ニック!」
ニックは閉じた目のまま顔の向きだけ春子の方に変えた。
「……はるこさん」
「ニック……どうして……」
それ以上は声にならなかった。体中から消えたとおもっていた水分が、ニックの声と一緒にもどってきた。涙がニックの黒く焼けた跡に吸い込まれていく。
クインが足首をつかむニックの手を、忌々しげに振り払う。
「まだ死んでなかったか。まぁ時間の問題だ」
ニヤリと邪悪な笑みを浮かべる。
「ニック、私なにすればいい。どうしたら治るの」
声があせりで甲高くなる。黒い焦げ跡から流れる血は止まらない。春子は着ていたニットを脱ぎ捨てて、胸に強くあてた。ビクリ、とニックの痙攣が一層激しくなる。苦痛に顔をゆがめる。ニットがあっという間に赤く染まる。
「無駄だ、人間。そいつはもう助からない」
おもわずクインを見上げる。瞳の力だけで相手を殺すことができるなら、今春子はクインを倒すことができるだろう。
「ニックになにを、したの」
クインは質問に答えず、ニックを見下ろす。
「最初からそのつもりだったのか」
ニックは浅い息をくり返したまま答えない。クインは道端の猫の死体でも見るような目でニックを見た。
「ニック。やめて、死なないで」
春子はニックに覆いかぶさるようにして叫んだ。
「私の魂をあげるから。あなたは生きて、お願い」
体中がこんなに冷たくなっているのに、まだどこに熱があるというのか、熱い涙が零れ落ちてニックの瞼に落ちた。ニットはすでに半分くらいが血に染まっている。
きゅうきゅうしゃ。救急車を呼ぼう。悪魔を治療できるのかわからなかったけど、なにかにすがりたかった。
携帯電話を求め視線をさまよわせると、ニックがなにかつぶやいた。あわててニックを見る。
「なに?」
歯が血で真っ赤に染まっている。青白い頬を横切るいくつもの赤い液体。その液体に溺れながら、ニックが言葉をほそく紡いだ。
「すみません。嘘をついていて……」
言葉にならず、春子は首を大きく横に振った。ニックの両手を両手でしっかり握る。おねがい、おねがい。
なにに対してかわからないまま、心が叫び続ける。
「あなたを……傷つけたくなかった」
いつかと同じ言葉を言う。
「もう、いいから。しゃべらないで。ね?」
「……よかった」
「え……」
ニックがゆっくりと目を開く。瞼に落ちた春子の涙がこぼれて、泣いているように見えた。
「あなたに会えてよかった。うれしい。こんな気もち……」
春子がつかむ両手が、わずかに動いた。春子はじっとニックを見た。ニックの目が、穏やかな光をはなって春子を見る。血まみれで白い顔をして、それでも幸せそうに笑った。
愛してる。
言葉を終えると同時に、ふたたび目を閉じた。ニックの手が動かなくなった。
もう、痙攣もない。荒い息もない。
……ニック?
黒い羽が、力なくカーペットに広がった。
頭の芯が麻痺している。自分の魂も取られたんじゃないかとおもう。感情が消えた。思考が消えた。目の前のことを受け入れられない。
「死んだな」
クインがゆったりと伸びをしながら言う。
「おもったよりしぶとかったな。ケルベロスに食わせても、それなりに愉しい見物になったと思うと残念だ」
赤い舌が上機嫌に言葉を紡ぐ。春子の耳には届いてない。動かなくなったニックの顔を、ぼうっと見ている。
これはなに。夢? 悪夢の只中にいるの。どうしよう、はやく目を覚まして。はやく――。
次の瞬間、視界が反転していた。クインの岩のような顔が近くにある。沼色の目が赤く充血してギラギラと飢えた光を宿していた。
自分の上にクインの体が乗しかかっている、と気づくのに数秒かかった。度重なる恐怖で思考が鈍っている。
「邪魔者も消えたし、今度は俺が愉しむ番だ」
「な――」
「生きた人間の魂を食べるのは、地獄でも禁止されてる事項の一つなんだよ。もしばれると面倒な目に遭う」
ニットを脱ぎ捨てて、下着だけになった春子の胸をじっと見るクインの目つきは醜悪だった。
「だからといって、目の前のうまそうな獲物を逃すのは惜しい」
茨のよう尖った羽が広がる。押し返そうともがいても、たやすく両腕を抑えられる。
「いや!」
クインがクックと愉しげに笑う。蛇のような赤い舌がぬらりとクインの口腔から這い出て、自分の切れた唇の端を拭う。
「あいつは愚かだ。見ろ。全力で俺に向かったところで、こんなかすり傷しか残せない。なんて弱いんだろうな」
カッと頭に血が上る。怒りで抑えられた両手の拳がブルブルと震える。
彼は弱くない。あんたよりよっぽど強い。そう言い返す間もなく、クインの顔が近づいてくる。
どくん。恐怖で息が詰まる。春子は倒れたまま動かないニックに視線をやった。
ニック。たすけて。ぎゅっと瞳を閉じる。
「やめなさい」
澄んだ声がした。おどろいて目を開ける。自分のすぐ脇に白い足が立っていた。
――え?
そこに立っていた人物を見上げる。
そんな――まさか。
クインが春子の両腕を拘束したまま沼色の目を見開いている。
その人は、無造作にクインを押しやると春子を起き上がらせ、自分の羽織っていた白いコートを春子に着せた。おどろいて声を出せない春子に、そっと微笑んだ。
「もう大丈夫」
「……なんで」
微笑を宿したまま、その人は春子の髪をなでた。
「来るのが遅くなってすみません」
目の奥の澄んだ光が、めがね越しでもまぶしく光る。
「――かずみ、さん?」
拓哉の恋人、和美がそこにいた。
この間と同じ白いロングマフラー。丸いめがね。春子は息を呑む。
そして背中には、真っ白な羽が自ら発光するように光り輝いていた。
「なんで、こんなところに天使がいるんだ」
吠えるようにクインが叫ぶ。
てんし? 言葉が変換されるまでに時差があった。
天使と言った、いま。
コートを脱いだ白いワンピース姿の和美は、悠然とクインに対峙した。
「その言葉、そっくりお返しします。今、この人間になにをしようとしていましたか」
和美の言葉にクインはうっと詰まる。しかし一瞬後、沼色の目をギラリと鈍く光らせ、
「おまえに関係ないだろう。いいか、今ならまだ許してやるから早く出て行け」
バサリ、バサリとはためかせる翼で肌がヒリヒリ痛む風が巻き起こる。
春子はふらふらとニックのもとに這っていく。風から守るように覆いかぶさる。決して動かないニックの頬をそっと触ると、涙が心の一番深いところをつたってこみ上げてくる。
どうして、こんなことになったんだろう。
ニックにすがりついて肩を震わせる春子を、和美はじっと見ていた。巻き起こる風など感じてないかのような表情で、クインに振り向く。
「一度だけ忠告します。今地獄に戻るというなら、逃がしてさしあげます。どうしますか」
クインはこの言葉に灰色の肌を赤くして、
「なめるな。おまえこそ、尻尾を巻いて《向こう側》にもどるがいい――」
言うが早いか、飛びかかった。春子は振り向いて、
「和美さん、逃げ――」
皆まで言う前に、和美は動いた。
白鳥が飛び立つように優美な羽ばたきだった。天井すれすれまで飛び上がる。クインは先ほどのように、大きな風を出そうと腕を振った。和美はその様子をじっと見つめながら、両手をかざした。両手の間から白い光の玉が生まれる。
和美がそれに息を吹きかけると、光の玉は風に舞う花びらのように分散した。そしてクインめがけて飛んでいった。曲線を描きながら、ふたたび一つに集結しようとするかのように光同士が近づきながら、向かっていく。クインが吠えるように叫んだ。
なんの音もしなかった。ただ、気がついたとき、クインはいなかった。代わりに分散したとおもった光がまた一つに集まり、光の玉になって和美の掌にあった。春子は言葉もなくその光景を見ていた。
「今、あの悪魔はこの空間の中にいます。もう大丈夫ですよ」
和美は両手で抱く光の玉を前に差し出していった。
「あなた……何者なの?」
春子は呆然と和美を見た。和美は春子の言葉に微笑む。
「騙していてごめんなさい。私は天使のエルといいます。カズミではありません」
「でも、あのとき」
混乱して頭に手をやる。拓哉はたしかに和美を自分に紹介したのだ。
「もしかして、拓哉君も騙してるの?」
拓哉は天使に、自分は悪魔に、それぞれ恋したということなんだろうか。
和美はおかしそうに少し笑った。
「いえ、ちがいます。あの時私が見えていたのは、実はあなただけです」
「え?」
「たしかに私は拓哉君の隣にいました。けれど私と彼が話しているところ、見ましたか?」
混乱する頭で、それでもどうにかあのときのやり取りを思い出す。「私の次の人って、随分ダサいのね」そう言った春子を拓哉が罵って、ニックが怒って――。
そうだ、あのとき和美は誰とも、一言も話してない。
「私たちは自分から姿を見せようとしない限り、だれにも姿を見られることはないんです」
淡雪のようにやわらかな声で和美は――いや、エルは答えた。雪のように白い羽が、侵しがたいうつくしさをたたえてエルを包みこむようにしている。本当に天使なんだと、なぜか強く感じた。
ふと気づく。呼吸が楽になっている。あんなに苦しかった吐き気がもうない。ふーっと大きく呼吸をする。
夜気が、冷たい清潔な空気を送り届けてくれる。ぼんやりと街の明かりを見る。
短時間に、なんていろんなことがあったんだろう。あと数時間で一年が終わる。でも私はもう、いろんなことが終わってしまった。新しい年を生きることに、意味が見出せないくらいに。
「……あなた、なにが目的なの?」
どうしてわざわざ私のところに現れたの? 重ねて尋ねると、エルはめがねの奥の瞳をやわらげた。瞳には清潔な光が散りばめられている。
「私が言ったこと、覚えてますか?」
――幸せになってください、どうか。今度こそだれかを愛してください。
エルの言葉に、カッと血が上る。せき止められていた感情が防波堤を失って、いっきにあふれる。
「幸せになんて、なれないわ! 愛してしまった、あなたの言うとおり。でも結果がこれよ。失って、前よりずっとつらい。こんなことになるなら、愛さなければよかった。出会わなければよかった」
その場にずるずると座りこむ。言葉が自覚となって春子の心をえぐる。
ニックは死んでしまった。もう会えない。もう触れない。もう話せない。
「イヤァー!」
耳を塞ぐ。耐えられない、こんなこと。どうやって生きていいかわからない。
ニックに近づく。冷たい体を、頬を、両手で触る。いやだ、いやだ、いやだ。涙でニックの白い顔がゆがむ。
お願い、いかないで。置いていかないで。
もう言葉にならなかった。獣のような慟哭が自分の喉を通って、室内にこだまする。
どれくらいそうしていただろう。気がつけばエルが隣に座っていた。白い羽が頬にあたる。ニックの羽と同じくらいやわらかい、と思い、また涙が出る。
「翔子さんもきっと、同じでした」
静かにエルは言った。予想しなかった名前を口に出され、ゆっくりと振り返る。
「あなたと同じ。愛する人を失って、どうしていいかわからなかった。狂うほどに、彼を愛していた」
なにか言いたくて、でも思考はブチブチと切られたまま一本につながらなくて、叫び過ぎて血がにじんだ喉をわずかに上下させただけだった。
「子どもだったあなたを一人にして、自分だけの世界に逃げてしまった。それはあなたにとっても、翔子さんにとっても哀しいことでした」
どこか遠い国の昔話でも聞いているようにぼんやりとエルの声を聞く。哀しみが体中を占領していて、ふだんでは絶対に聞きたくない話なのにすんなりと受け入れることができた。
「翔子さんもとても後悔しています。あなたに幸せになってほしいと、いつも言っています」
「だれに……?」
尋ねながら、うっすらと答えはわかっていた。別の種類の涙が、目尻を滑っていく。
エルは微笑んだ。首をかしげたとき、エルの首にかかった白いマフラーがゆらりと揺れた。
「あなたのお父さんに」
「…………」
フゥと震える吐息を漏らす。涙がいくつも滑っていく。さっきの嵐のような心とはちがい、今は朝焼けの海のように静かだった。哀しみは相変わらず心を占領しても、たけり狂ったりはしない。
「あなたのお母さんは、いつもお父さんに語りかけています。あなたがお父さんに語りかけているのと同じくらい。それはあの人に届いています。あの人は、いつもあなたたちを心配しています」
涙がぽたぽたと落ちていく。エルの澄んだ声が心の深いところに響く。
「春子ちゃん。私は、あなたのお父さんに伝言を頼まれて、やってきたのです」
白い羽がまぶしく光る。春子はエルを見た。エルはあたたかな微笑みを宿していた。
「もう一度言います。幸せになってください、どうか。今度こそだれかを愛してください」
流れる涙の上をさらに涙が落ちる。目が痛い。口の奥から動物の鳴き声のような声がひびく。
おとうさん。おとうさん。
いつも、いるのね? 聞こえているのね? 見ているのね?
私が何万回と語りかけた言葉は、無駄じゃなかったのね。
今も、私には家族がいるのね。
エルの胸元に頭を寄せた。エルはやさしく春子を抱きとめる。
春子はエルの胸から頭を離して、流れる涙に負けないようしっかり言った。
「おねがい。ニックをたすけて」
エルはなにも言わず、春子をじっと見た。春子は焦れて言葉を重ねる。
「エル、お願い。彼を愛してるの。私には彼が必要なの」
エルはゆっくりと言った。
「私たちは神様じゃありません。だから、生死に介在することはできないんです」
エルの両腕をつかんでいる自分の手から力がぬける。ブンブンと首を横に振った。
「お願い、なんでもするから。おねがい」
エルは澄んだ目で春子をじっと見ている。やがて口を開いた。
「彼は、最初からそのつもりだったんですよ」
クインが言った言葉と同じだった。エルは美しい音楽を思わせる声で言う。
「拓哉君を傷つけた後、彼がなにを言ったか覚えてますか?」
――こわい。自分がこわいです
なにも見たくないというように顔を手で覆って、ニックはたしかにそう言った。春子は浅く頷く。
「あのとき、私には視えました。魂を食べなくては生きられない宿命に脅える彼が。生きたいと願う同じくらいの強さで、生きる術を否定しようとしている彼の苦しみが」
ガツン、と固いもので殴られたような気がした。片腕をもう一方の腕で強く握る。
全然知らなかった。ニックの苦しみ。ニックの痛み。
彼がどんな気もちで、ずっと一緒にいたのか。悔しさと情けなさが同時に春子を苛む。
あなたはなにもわかってないんだ。
以前、ニックに言われた。そのとおりだ。なにも、なにひとつ見えていなかった。あんなに近くにいたのに。
熱く痛む胸が悲鳴を上げる。痛みから逃げるように、春子は叫んだ。
「だけど、酷いわよ。ニックが私を好きだって、あなたが最初に言ったんじゃない。あなたの言ったとおり、私は恋をした。それなのに失うときは受け入れろなんて、冗談じゃない」
エルは春子をじっと見つめ、やがて視線をニックに移した。淡々としたまなざしで、ニックの胸元の傷や口蓋からこぼれる血を観察する。
「ひとつだけ方法があります」
今まで言われたどんな言葉よりも、春子の胸に希望を与える言葉だった。はやる気持ちを抑えて尋ねる。
「どんな方法なの」
「今言ったとおり、死者をよみがえらせることはできません。でもその代わり」
エルが振り向く。翼がひるがえり、無数の雪のような毛が舞う。エルは告げた。
「彼を人間として生まれ変わらせることはできます」
朽ちた枯れ枝に再び花が咲いたような高揚感が春子を包んだ。心臓がここ数時間ではじめて、あたたかな脈をうつ。エルは無表情のまま続けた。
「ただし、魂を再生させる間に事故が起きるかもしれない」
「事故……」
春子が反復すると、エルは頷いた。
「悪魔のときに持っていた魂をすべて復元できるか、正直わからないのです。魂に刻まれた彼の記憶、彼の心。それらが欠けてよみがえるかもしれない。つまり、春子ちゃんの好きな彼と同じ人物のままか、わからない。……どうします?」
春子はニックを振り返り、閉じたままの瞳をじっと見た。春子の涙の跡がついたままの頬。
黒い細い髪に手を伸ばして、ゆっくりと梳く。もう片方の手で、傷跡がいくつも走る裸の肌に触れる。リビングに夜風が舞いこむ。寒いという感覚はとうに消えたけど、このままでは正月早々風邪をひくことになりそうだ。
春子は立ち上がり、ベランダに行く。ニックに買ってやった革靴は、やっぱりここにあった。きちんと並んで置いてあるところに彼の性格の片鱗を感じて、また涙があふれそうになる。拾い上げ、横たわるニックに履かせてやる。
王子様は靴ひとつでシンデレラを探し当てた。恐くなかったのだろうか。
名前も素性もわからない。よく話したわけじゃない。ひと晩だけの逢瀬。翌朝、シンデレラが心変わりしている可能性は考えなかった? 思い描いていた女そのものだという保証もないのに。
「必ず、私のところまで戻ってきてね」
冷たくなった唇にキスをした。エルを振り返る。エルは春子を見て言った。
「条件が二つあります」
「なに?」
エルはゆったりと笑う。
「一つ目は、翔子さんと再会すること。これはお父さんの願いで、翔子さんの願いで――あなたの願いなはずです」
春子はわずかの間唇をかみしめ、そして頷いた。
「そうね」
おそらく、ずっと願っていた。それだけを願って、今まで生きていた。
「もう一つは?」
天使はにっこり笑って言った。
「私にもココアを作ってください」
エルはニックの黒く焦げた胸に両手をあて、口の中で歌を歌っていた。春子にはわからない言葉だった。エルの両手から漏れる光が、歌にあわせて青白くなったり黄色くなったり薄い朱色になったりする。
春子はカーペットに散乱しているガラスを片付けながら、一秒に一度くらいで絶えず振り返っていた。
やがて室内がぬくもりで満たされていく。あたたかく心地良いのに、なぜか涙がとめどなく流れた。春子は手早くガラスをまとめてゴミ袋に入れると、ニックのもとに跪いた。
黒い焦げ跡が、逆再生した画面のようにゆっくりと元にもどっていく。真っ白だったニックの頬に、少しだけ赤みがさしていった。エルのこめかみから汗が一滴、ニックの胸に落ちた。その滴は落ちた瞬間花のように広がり、溶けて消えた。滴が落ちた部分だけ、完全に皮膚が修復される。
春子はニックの手を両手で握りながら、エルの口からこぼれる言の葉に耳を澄ました。たくさんの楽器を合わせても、こんなに深くうつくしい旋律を奏でることはできない。
覚えているはずがないのに、母親のおなかの中にいたとき、語りかけられた声を思った。意味もわからず、だけど安心できる言葉たち。自分に伝えられるメッセージ。
こっちへおいで。還っておいで。
――あとは、目覚めるのを待ちましょう。エルは汗をびっしょりかいて、息切れしながら言った。春子はマグカップ一杯のココアを差し出した。エルはうれしそうに顔をほころばせて受け取る。
ほんとうは、この天使にもっと聞きたいことがある。お父さんは元気にしていた? あっちで幸せに暮らしているの?
でも今はなにも尋ねない。お父さんは今このときも、春子を見守っている。家族としてそこにいる。そうわかっただけで充分だ。
いつか、遠い未来の果てに、もう一度出会えるだろう。そしたらきっと言おう。あの冬の日、私に天使を遣わしてくれてありがとう。おかげで私は、最愛の人を救うことができたよと。
ニックが目を覚ましたのは、十二時ちょうど。日本中が「おめでとう!」と笑いと幸福に包まれている最中だった。
「ニック。わかる?」
横たわるニックに尋ねる。期待と不安で、何度も心の中で練習したよりずっと小さな細い声が出てしまった。
黒い目が、じっと春子を見ている。わずかに首をかしげると、黒髪が流れる。春子はそれ以上なにも言えず、息をするのさえも恐れてじっと固まっていた。
ニックがゆっくりと起き上がる。そのとき、音もなく背中の翼が剥がれた。
ニックは振り返り、たった今自分の背中から落ちた黒い大きな羽を、不思議なものを見るような目で観察している。その表情に、まさかと不安が募る。
近くにいるのに、ふたたび息をして、春子を見ているのに。忘れていたらどうすればいい?
そのときなぜか、今まで一度も思わなかった顔が脳裏に浮かんだ。
お母さん。
涙がすっと滑った。それなのに、口元は微笑んでいた。
そしたら、この人にもう一度恋をしよう。気が狂うほど人を愛して、そしてもう一度恋をしたあの人のように。私はあの人の娘だ。きっとタフにできている。
翼を無言で触っていたニックが顔を上げた。真っ黒の瞳が春子を見ている。
「どうして泣いてるの?」
子どものように無邪気な問いだった。春子は涙を流したまま笑った。
「あなたが好きだからよ」
ニックはじっと春子を見て、そしてゆっくりと笑った。以前一度だけ見た、静かに咲く花のような笑みだった。
そうだ。この笑顔に恋をしたのだ。なにも損なわれてない。私の愛する人はここにいる。
ニックは言った。
「ただいま、春子さん」
今度こそとめどない涙が流れた。ワッと叫び、春子はニックに抱きついた。ニックは春子をしっかりと抱きしめる。
ニックの胸から音楽が聞こえる。生命の鼓動だ。命が輝いて音を奏でる。 ニックは春子の髪を何度もなでた。もう一方の手で春子の顎をとらえると、深く口づける。春子はニックの首に両手を回して受け入れた。流れる涙が耳に滑り落ちた。
長いキスのあと、ふと首をめぐらして室内を見ると、エルはすでにいなかった。空になったマグカップがテーブルに置かれている。
「エル……」
「エルって、だれ?」
ニックを振り返って黒い瞳をじっと見つめる。そしてふっと笑った。
「あなた、前にオトウサンとオカアサンがいないって言ったわよね」
「うん」
片手でニックの頬をなでる。
「エルは、あなたのお母さんの名前よ。忘れないでね」




