裏切り
甘い香りで目がさめた。
ソファから身を起こし、髪をかきあげる。リビングの時計は八時半になっていた。幾度もお互いを求め合って、気がつけば今日という日が消えようとしている。
あと数時間で来年になる。電源の入ってないテレビをつければ、きっとどこも来たる新年にそなえてのスペシャル番組を盛んに放映してるだろう。
でも、そんなもの見たくない。必要なものはそんなものじゃない。
知らず微笑みながらソファの下に散乱している洋服を見につける。
「春子さん、どうぞ」
インディゴブルーのジーパンをはいただけの姿で、ニックが二つのマグカップを持って台所から出てきた。背中には黒くて大きな羽が、淫靡な花びらのように広がっている。
「春子さんの真似して、作ってみました」
照れくさそうにニックは言う。ホットココアだった。生クリームがカップの縁に飛び散っている。
「あの、ちょっと見た目は悪いかもしれませんが、味はそんなに悪くないと思うので」
いそいでニックが付け足す。春子はふっと微笑んだ。ココアのように甘くてあたたかいものが、春子の体のなかにすでに流れている。ここちよかった。
ココアをひとくち飲む。甘い香りと味が口にひろがる。
「おいしい」
「ほんとですか」
うれしそうにニックが問い返す。はじめてココアを飲んだときと逆だ、とおもった。
あのとき欠食児童のようだった体は、ここ数日でわずかだけど筋肉がついた気がする。ニックの裸の胸や腕をじろじろと見る。ニックがふしぎそうな眼差しで首をかしげるので、笑って首を振る。笑ったまま、わずかに身を乗り出す。
「ねぇ」
「はい?」
「私はおいしかった?」
はじめてココアを出したとき、ニックに「おいしい」という感覚について説明した。
――もっとほしいと思ったり、もう一度ほしいと思ったり、あとは、気もちいい、と思ったり。口にしたときにそう感じたら、おいしいということよ
笑いながら尋ねると、ニックは顔を真っ赤にした。桃色のサングラスと同じ色になっている。
「あ、その……えっと」
声が裏返っている。春子はくすくす笑ってニックの胸に頭をもたげた。やがて耳元で小さな声が答える。
おいしかったです。
かすれた声に、とうとう春子は噴きだした。ニックが真っ赤になったまま、とまどったように春子を見ている。
全身から鈴の音が鳴るような、内側からきらきらと輝いているような、幸福な感覚だった。
――幸せになってください、どうか。今度こそだれかを愛してください。
和美の言葉が脳裏に浮かぶ。もう一口、ココアを飲む。熱をもった甘い飲み物を、舌の中でゆらゆらと転がす。ニックの頬を指先でなでた。その手にニックの手が重なり、もう片方の手を春子の脇のソファにつく。春子は目を閉じて、唇を合わせた。ふたたび目を開くと、ニックが今までとはちがうどこか固い表情でこちらを見ていた。
「春子さん。僕、言わなくてはいけないことがあるんです」
眼差しのように固い声。柔らかく溶けていた春子の心にスッとつめたい風が吹く。
「僕――」
ニックが口を開いたと同時だった。
パリィン――!
大きな破裂音がした。反射的にニックが春子を抱きしめる。耳元で大音量の目覚まし時計がなったみたいだった。動悸が胸を刺すようにひびく。
カーペットに、割れたガラスが散乱している。ベランダのガラス戸が割られていた。わずかに残ったガラス戸が、つららのようにドアの縁についている。
――なに、これ。
呆然と目の前の光景に見入る。そして目を見開いた。
割れたガラス戸の向こうに、男がいた。粉々に砕かれた扉が額縁のように、その男をふちどっている。
「よう」
男は春子とニックを見ると、片手を上げた。まるで懐かしい友だちに会ったように親しげに。
夜のにおいがあたたかな室内にたちこめて、急激に冷えていく。春子を抱きしめるニックの手が震えていた。春子は震えることすらできず、目を見開いていた。
男の上背はガラス戸より頭ひとつ分大きかった。ガラスの破片がかろうじてついているガラス戸を、身をかがめてまたいでくる。男の灰色の肌はガサガサとしていて、まるで岩に目や鼻をつけたようだった。目は肌より濃い灰色をしている。泳ぐことのできない濁った沼のような色だった。
そして――夜と男の間をつなげるように、その背中には闇と同じ色の翼が生えていた。
どくん。
鼓動が、なにかの終わりを告げる鐘のように重く鳴った。
男の広い背中についた翼は、黒い茨がそのまま束になって背中に張り付いたような形をしていた。触れた相手を容赦なく切り刻む刃のようだ。やわらかくあたたかなニックの羽とはちがう。
男は以前ニックが着ていたのと同じ、黒いワンピースを着ていた。けれどあの日ニックがまとっていたような傷みや汚れはいっさいない。ビロードのような光沢を全体にまとっている。
男はガラスの破片が散乱しているカーペットを、素足のまま表情も変えず歩いた。男がガラスをパリパリと踏みしめる音が室内にひびく。春子もニックも、銅像のように固まったまま動けずにいた。
男は春子たちの座るソファの前まで来ると、ニックを見下ろして言った。
「ひさしぶりだな」
「――クイン」
ニックは男をそう呼んだ。ニックの冷たい手が震えながら春子の肌からすっと遠のいた。
ニック?
反射的に振り向くと、ニックの顔は真っ青だった。男が現れたことよりも、ニックの表情が、離れていった手のぬくもりが春子を不安にさせた。胸がざらざらする。
「ずいぶん人間とナカヨシみたいじゃないか」
男はそう言ってにやりと笑った。笑うと口が横にぱっくりと裂け、まるで灰色の岩が裂けて血がしたたったかのように見える。濁った沼のような目が、春子を舐めるように見る。
「こんないい女とイチャついて、おまえが地獄にいたくないのもよくわかる」
声に卑下た笑いが混ざる。
「彼女に近づくな」
そう言ったニックの声は低く、震えていた。
「近づくな、だと?」
男は復唱すると、ハッと大きく笑った。羽を狂喜した犬の尾のようにバサバサと閉じたり開いたりする。冷たく頬を切るような風が舞う。テーブルに置いたカップがガタンと横倒しになって、茶色い水溜りがカーペットに広がり染みをつくる。カーペットに広がるココアを見ながら、胃のあたりがムカムカとしてきた。
気もち悪い。目の前で繰り広げられる光景にショックを受けているからだろうか。ゆっくりと震える息を吐いた。
「こいつは想像以上だ。ニック、おまえよくやったよ。やればできるじゃないか」
その言葉に、春子にもわかるくらいはっきりと、ニックが動揺した。体がビクリと硬直する。
「ち、ちがう」
否定する声はなぜかかすれていた。
ニック? 声をかけようとして、見えない拳が腹のあたりに食い込んだように、一段と気もちが悪くなった。おもわず両手で口元をおさえる。その様子にニックはハッとしたように振り返る。
「大丈夫ですか」
春子の頬に片手をあて、顔をのぞきこむ。その目には苦悩がくっきりと刻まれていた。にっく。口の中でつぶやいた言葉は、声になる前にざらついた息で消えてしまう。
「いいね、いい眺めだ。苦しんでるときの顔が一番いいよ、人間は。おまえもそう思うだろう?」
ガラステーブルに腰かけてゆったりと片膝を立てると、クインと呼ばれた男はニックに向かって尋ねた。
「クイン…彼女になにをした」
ニックは叫ぶなり立ち上がると、クインに詰め寄った。しかしクインの胸ぐらに手が伸びる前に、
ドン!
ニックは横っ飛びに吹っ飛ばされた。ガラスが散乱しているカーペットに倒れる。
「ニック!」
叫び、ソファから飛び下りる。一瞬目眩がしたけれど、そんなことは気にならない。ジーパンを引っかけただけのニックの素肌に、ガラスが刺さった血のあとがうっすらと滲んでいる。
うめき声を上げて、ニックがゆっくり起き上がる。クインは相変わらずテーブルにゆったりと座ったままニックを見下ろし、嘲笑うかのように言った。
「なに勘違いしてるんだよ」
春子を顎で示すと、
「この人間がこうなったのは、俺がなにかしたからじゃない。俺とおまえ、二人がそろったことでここの『気』の流れが変わったんだ。言ってみれば俺とおまえの両方に原因がある。この人間だけじゃない。きっとこの辺りの人間はみんなこうなってるさ」
ニックは目を見開いて、首を横に振った。
「……まさか」
「嘘だとおもうなら見てくればいい」
クインはあくまで愉しげに笑いながら言う。
「この近くに人間の子どもがいたな。今どうなってるか、想像するだけで愉しいよ」
春子の脳裏にサンタさんが来たことをうれしそうに父親に報告していた、近所の小さな女の子の顔が浮かんだ。心臓がギュッとねじられたように息が詰まる。唇をギリッと噛みしめる。
クインが言ってることの意味はよくわからない。けれど人が苦しんでいるのを、なにかおもしろいショーでも見るかのような目で観察している目の前の男が憎かった。
「クイン!」
ニックがふたたびクイン目指して駆ける。翼が開く。次の瞬間ニックは空中をひらりと舞っていた。天井に下がっている電気の紐が翼にかすれて大きく揺れる。
クインは無表情で飛び立つニックを見ていた。と、次の瞬間、茨のような翼をひるがえして宙を飛んだ。
バシン――!
ニックの右手がボールを放るように振りかぶると、そこから風が生まれた。台所の食器棚のガラスがガタガタと揺れる。カーペットに置いていた新聞紙や雑誌のページがひきちぎられるかのような勢いでめくられている。
風でできたボールがニックの手から放たれる。
クインはニヤリと唇を歪めたかと思うと、緩慢な仕草で左手を前に出した。あっと思う間もなく、ニックの作ったボールを跳ね返すくらい大きな風がクインの手から放たれた。風が唸る声。津波のような空気がニックの生んだボールを呑みこむ。新聞や雑誌がバンと壁際に吹き飛ばされた。
ピシ! ピシ! 家鳴りが悲鳴のように聞こえる。ガラステーブルからマグカップが落ちる。おもわず自分を抱きしめて小さくうずくまる。乱れた髪が口の端に入ってくる。
風でできた津波がニックを襲った。ニックは地面に叩き潰されるように落ちた。テーブルの端にガタンと当たり、そのままカーペットにうつ伏せに崩れ落ちた。翼がだらりと横に広がる。
「ニック!」
クインはニックが起き上がるより早く、着地の勢いを殺さずにニックを翼ごとおもいきり踏みつけた。黒い羽が舞い散る。春子は目の前の光景を呆然と見ていた。体がガクガクと震える。
なに、これ。
なにが起きているの。
クインはニックを踏みつけたまま、冷たい眼差しで言った。
「悪魔のくせにヒーロー気取りか? なにを勘違いしてるんだ。悪魔が人間の世界に来るっていうのは、そういうことだ」
クインの口がゆがむ。
「その様子だと、ここに来たおまえの本当の目的を、この人間には言ってないようだな」
クインの足の下で、ニックの体がびくりと動く。不安が春子の体を蝕む。
ニック、なにを隠しているの。
春子の心を読んだかのように、クインがこちらにその目を向けた。目が合ったとたん、息苦しさが増す。汗がニットの中の肌から流れていった。蛇の舌が肌を這うような気もちの悪い感覚。
クインはニックの体から足をどけ、春子の目に視線を置いて近づいてくる。おもわず後ずさる。けれどすぐ後ろはソファだった。
「人間とは愚かな生き物だな」
ゆっくりと春子に近づき、クインは言った。低いしゃがれた声が、春子の体に絡みつくように動きを鈍くする。
耳鳴りがする。胸が苦しい。何十キロも走ってきた後のように息があがっている。それなのに冷蔵庫のなかにいるみたいに寒い。
ニックが両手を床について上体を起こす。
「やめてくれ」
言葉には懇願するような響きがあった。クインは嘲笑うようにチラリとニックを一瞥して、もう一度春子を見た。
「おまえのそばにいる悪魔はな」
「やめてくれ、お願いだ」
クインの口の端が上がる。真っ赤な舌が唇の隙間からのぞく。春子は知らず、胸に手をあててニットを握りしめていた。そこにあるなにかを守ろうとするかのように。
「人間の魂を食うために、この世界に来たんだよ」
言葉が春子の体の中で停止した気がした。脳までその意味が届かない。
モノトーンの室内に、黒い姿の男たちが二人、人形のように動かない。話し声も、きぬ擦れの音も、息遣いさえ聞こえない。この部屋だけ時間が止まったようだった。
「…………え?」
この場にそぐわないような、軽い響きを伴って声が出た。ニットを握ったままの手に力をこめる。
なに言ってるの、この男。
にんげんのたましいをたべる?
なに、それ。なに言ってるの。
「ニック」
この男、なんか変なこと言ってるわよ。おかしいわよね。一緒に笑い飛ばしてよ。そんな思いをこめて、ニックを振り返った。ニックは下を向いたまま動かない。上体だけ起こした体勢のまま、石になってしまったかのように、春子の言葉に反応もしない。
――ニック?
ハッと嘲笑う声が空間を裂くように響いた。クインが春子の前にしゃがみこみ、春子の髪をグイッと引っ張る。痛さと恐怖に目をぎゅっとつむる。顔が意思とは無関係に上を向かされる。
クインは春子の顔を覗きこみ、その沼色の目に満足気な笑みを宿した。
「まだわからないか。おまえは騙されていたんだよ」
ドクン。
心臓が痛いくらい強く鳴る。喉がカラカラに渇いて痛い。
なにいってるの。なにいってるの。
「信じないわ」
声はかすれ、震えていた。けれど春子は沼色の目を見据え、言った。
「出て行って。ここは私たちの家よ」
沼色の目が細められる。と、見えない手で鳩尾をえぐられたかのように息が苦しくなった。悟られたくない一心で目を合わせたまま、髪をつかんでいる手を振り払うと倒れたままのニックに近寄る。
走り寄ろうとして、クラリと視界がぶれた。その場にガックリと膝をつく。汗をびっしょりかいている。ふらふらと歩きながら近づく。
「ニック」
黒い羽が散乱している。どこかにケガをしているのだろうか。うつ伏せになっていて表情が見えない。クインの笑いを含んだ声が背中からかけられる。
「ニック。説明してやったらどうだ。俺たち悪魔が生きるために、人間をどうしているか。そもそも、なぜ悪魔が(・)いる(・・)地獄に(・)人間が(・)堕ちて(・・・)いく(・・)のか」
春子はおもわず振り返る。
どういうこと?
クインは声も口元も笑っているのに、相変わらず目は少しも笑っていない。ぞっと背筋が冷たくなる。
ニックのうめき声が漏れた。春子はあわててニックに向き直る。ほっとして声をかける。
「ニ――――」
むくり、と起き上がったニックのその瞳を見た。
ひゅう。
割れたガラス戸から風が吹いた。
風が、春子の心に灯っていた明かりを消した。
震える両手をそっと伸ばし、ニックの頬にたどり着く前に、ゆっくりと降ろす。
桃色のサングラスが割れてからだの下敷きになっていた。サングラスの破片か着地の衝撃か、ニックの青白い頬に赤い傷が一本走っていた。
感情のない瞳。なにも映さない黒い穴。
どうして、またそんな目で私を見るの?
「本当のことを言って」
春子は視線を外にやる。煌々とともる街の灯り。星と同じくらい光って。
「嘘をついてたの?」
星と同じくらい遠い。
一秒か、二秒。沈黙の後に、声がした。
「はい」
春子は瞳を閉じた。全身からふっと力がぬける。両手で顔を覆う。
「どうして」
自分ではないみたいな、悲鳴のような声。自分じゃないといえば、彼に会ってからずっと、今までの自分とはちがってしまっている。
出会わなければよかった。こんなおもいをするくらいなら。
「地獄は穢れた魂を消すための場所なんです」
淡々と、ニックは話す。相変わらず夜の街並を見つめている春子に、彼の表情は見えない。見たくない。あんな穴のような目を、いや、もう「ニック」という存在を見つめることなどできない。
絶え間なく襲ってくる苦しささえもありがたかった。苦しさに気をそらしながらでないと、まともでいられない。
「以前あなたに言いました。僕たちは食べることを生きる条件としてないと」
「……覚えてるわ」
春子は両腕を組んだ。冷たい二の腕だったけれど、もう寒いという感覚は消えている。絶えずこみ上げる吐き気以外は、すべての体の感覚が死んでいた。春子は目を閉じて、過去のやりとりを思い出していた。
――じゃあなにが必須条件なの?
そう尋ねた春子に、ニックは答えようとしなかった。悔しさが苦く春子の胸に広がる。唇をかみしめた。
「僕たちは生きるために、食べ物を食べなくても平気です」
ニックの声は、あくまで静かだった。さっきのように震えてもない。春子のためにクインに向かっていった激しさもない。あれも嘘だったのだろうか。
もう、なにもわからない。
両腕を組んだ手に力をこめた。わずかな沈黙が落ちた。クインはふたたびテーブルにあぐらをかいて座り、二人のやり取りを余興でも見るような目で見物している。
「代わりに僕たちは、人間の魂を食べます」
おもわずニックを振り返る。淡々とした口調と同じ、温度のない瞳が春子を見ていた。ずきん、と痛みが胸に刺さる。涙も痛みも、これ以上見せたくない。両腕を組んだまま、体ごとニックを見る。対峙する形になった。
「私の魂を……食べるの」
ニックの代わりに、クインが答えた。
「そのとおりだ。人間、ようやくわかったか」
声には相変わらず愉しむような響きがこめられている。春子はクインを無視して、
「魂を食べられた人間は、どうなるの」
声が震えないように、組んだ両腕に力をこめた。
「魂は、肉体とは別にある、その人自身を象る核です。苦しんだり喜んだり記憶したり、そうやって人間は日々をつないで生きているでしょう」
ニックは淡々と説明する。
「魂を食べられても生きてはいけます。ただし、もうなにかを考えたり思ったりすることができなくなる。からだではく、魂が死ぬからです」
驚愕に目を見開く。体だけ、生きている状態。なにも思わず、感じず、死んでいるのとなにがちがうというのだろう。
自分が、そうなる? 叫びだしたいのをこらえて、自分に命じる。
笑え、私。
震える唇の端をグイと上げる。
「最初からそのつもりだったのね」
ニックは春子をじっと見た。平坦な視線。ここにいるのは本当にニックなんだろうか。なにかがリセットされたように、感情を宿していない目。
ニックはふたたび口を開いた。
「地獄に落ちた人間は、悪魔に捕まり魂を食われます。そしてショウメツする。人間の魂は、跡形もなく消える為に地獄に落ちるのです。そして僕たちは、魂を食べるたびに進化する」
黒い瞳。世界で一番うつくしいとおもったのに。
心臓が痛い。ちがう。こころが痛い。ニックが一言話すたびに、切り刻まれていく心が痛い。この心が魂なんだろうか。もうわからない。抱いたままの二の腕が震える。
「人間、俺の言ったとおりだったろう」
クインがにやにやと笑いながら言う。
「ニックはあの日、俺に言った」
――ケルベロスの世話係の代わりに、僕を人間界に行かせてくれ
「人間界? 行ってどうするつもりだ。逃げるのか」
クインはいつも無表情のニックの顔を算段するように見た。
「ちがう。生きている人間の魂を、捕らえて食べる」
クインはニックの言葉に嗤った。こいつ、とうとう正気を失ったか。
生きている人間の魂は死んだ人間の魂を食べるよりも、自分たちの体を格段に強くさせる。魔力は強まり、翼の飛距離は上がり、拳の力も強くなる。しかしリスクもあった。
「もし向こう(・・・)側の者に見つかったら、生きては戻れまい」
「ケルベロスの世話係になっても……同じことだ」
そう言ったニックの目が、蝋のように青白い顔の中で一瞬異様な光り方をした気がした。
まぁ、いい。どうせ失敗すれば死ぬだけ。向こう(・・・)側に見つかっても同じこと。こいつの死に興味などない。クインは言った。
「期限を与える。地上の一年が終わるその日までに人間の魂を食ってこい。けれどそれを過ぎたら」
口元がゆるむ。なにかが苦しんでいるのを見たり想像することの愉しさといったらない。
「おまえはケルベロスに食われて死ぬだけだ」
体中の細胞ひとつひとつが冷たくなって震えている。頭の中が真っ白だ。
「うぅっ」
胸をおさえる。あわててトイレにかけこみ、嘔吐した。苦い胃液が口の中に広がる。苦しさで涙がこみあげる。その場にへなへなと座りこんだ。心臓が別の生き物のようにドクドクと小刻みに動く。
すべて嘘だった。騙されていた。
口元にうっすらと自嘲的な笑みが象られる。
だから、こうなるから、愛なんて信じてはいけないのに。
父が死んでおかしくなった母だって、結局またほかの人を愛して出て行った。愛なんてそんなもの。不変じゃない。
――それなのに。
便器に乗せた片腕に額を押し付けて、春子は小刻みに震えた。後ろから見たら笑っているように見えるかもしれない。
愛してしまった。
ニックの孤独を孕んで一層深まる真っ黒な瞳。自分と同じ孤独の匂い。
それでは満足できなくなった。
過去に囚われるのではなく、未来を一緒に見たい。そう思ってしまった。
馬鹿だ。愚かだった。
熱い涙が滲む。
魂を食べるというのが具体的にどんな行為かわからない。わからないけれど、多分とても恐ろしいこと。そんな目に遭わせるつもりで、最初から自分に近づいていたなんて。
なにも知らずココアを作り、洋服を与え、体も心も捧げてしまった。低い笑い声が自分の口から漏れる。老婆のようにかすれた声だった。
――やっぱりおまえはそういう女なんだよな。最初から僕じゃなくてもよかったんだろう。
拓哉の言葉を思い出す。あの時は、なんて愚かなことをいう男だろうとおもった。感情を迸らせてわめいて、見苦しい。自分に言われているのにどこか他人事のように聞いていた。
でも今は、あのときの拓哉に自分がなっている。体を起こして、春子は再び低く笑った。因果応報っていうんだっけ? 可笑しくって嗤ってしまう。笑う口元に、涙が滑っていった。
笑いながら、自分の首に両手をかける。
魂だかなんだか知らないけれど、思い通りになんてさせない。いっそ、自分の手で奪ってしまおうか。半ば本気で思い、両手に力をこめる。目を閉じた。すでに口元にあった笑いは消えている。
掌に脈がどくどくと流れる感覚が伝わってくる。息が詰まる。大晦日に、真っ暗なトイレで一人、首を絞めている人間なんて自分くらいだろう。ぼんやりと思った。
お父さん。お父さんも死ぬとき、くるしかった?
――グイッ!
強い力で両手を引かれる。目を開くと、ニックが春子をじっと見ていた。
「なにしてる――」
その言葉をニックが言い終える前に、バシンと頬を平手で打った。ニックはその勢いで、開け放したドアからそのまま廊下にしりもちを着く。
春子も反動で、便器にがっくりと体をもたれた。酸素を求めて心臓が狂ったように鼓動を速める。便器から、自分の吐しゃ物の饐えた臭いがする。
春子はなにも言わず、刺すような眼差しをニックに向けた。言ってやりたいことは山ほどある。けれどなにを言っても意味がない。そうも思った。
ニックも春子を黙ったまま見つめている。左の頬がうっすら赤くなっている。
あんなんじゃ足りない。二度と私を忘れないくらいの大きくて深い傷を、体中に刻みつけてやりたい。
「苦しいですか」
静かな声だった。質問の陳腐さに皮肉めいた笑みが宿る。
くるしい? この状況を見て、自分がしたことを省みて、苦しいかと尋ねるの? ほんと、どんな神経してるのよ。それとも悪魔だから感情がわからないのかしら。
そう思い、今更のように気づかされる。
そうだ、この男は人間じゃないのだ。
犬や猫や鳥に本気で恋しても、返される感情は恋ではない。犬が人間に本気で恋することはないのと同じ。外見が少し似ているだけで、私とニックはちがう生き物なのだ。
これじゃ、チンパンジーに恋したほうがまだマシね。少なくともチンパンジーは「苦しいですか」なんて愚かなことは聞いてこない。
「すぐ楽になりますから、もうすこし辛抱してください」
ニックは重ねて言った。春子は便器に体を預けたまま、無表情でニックを見ていた。楽になるというのは、魂を取られることを意味するのだろう。ドラマで銃を相手のこめかみに押し当てたマフィアが「楽にしてやるよ」というのと同じだ。まさか自分の人生で同じことを言われる日がくるなんて。それも、好きになった男に。
無表情のままの春子の瞳から、つめたい涙が一筋流れていった。
ニックはその涙を見て、わずかに眉間にしわを寄せると顔を伏せた。そこに、クインが翼をはためかせてやって来た。廊下から座り込んでいる春子を見下ろして、
「おいおい人間、今更そんなところに隠れても遅いぜ。こっちへ来いよ」
春子に向かって手を伸ばす。春子の倍は大きな掌。ぞっとして、触れられる前に立ち上がる。
この男が近づくと、吐き気が再びこみ上げるのを感じる。それを顔に出さないようにしながら、クインとニックの脇を通り過ぎてリビングに戻った。
改めて見ると、リビングは散々たるありさまだった。この室内だけ竜巻が来た後のようになっている。ドアガラスはクインによって割られ、ガラスの破片がマグカップやサングラスの破片と一緒にカーペットに飛び散っている。ななめに大きくずれているガラステーブルは大きなひびが入っていて、もう使い物にならない。新聞や雑誌が吹き飛ばされて、壁ギリギリまで押しやられてくしゃくしゃに丸まっている。
すべてが数時間前と変わっていた。被害をまぬがれた壁にかかった時計は九時半を指していた。ふと足元を見ると、自分の素足に小さな赤い傷がいくつかできていた。たぶんガラスで切ったんだろう。そう気づいても表情はぴくりとも変わらなかった。
「ニック。約束の時間までもうすぐだ。わかってるだろうな」
クインが自分の定位置にしているテーブルの上にどっかりと座ると、愉しげに笑った。赤い口からはみ出た舌がぬらりと光る。
「あぁ」
聞いたこともないくらい低い声でニックが答える。春子は片腕を片手でしっかりと握った。体が固まる。恐怖で叫び出したくなる。おもわずドアに目を向ける。ドアに向かって一歩足を引いた。その動きを敏感に感じたのか、ニックが口を開いた。
「無駄ですよ。どこまで逃げても、僕たちにかかればすぐに捕えることができます。空を飛んだ僕がどれだけ速いかわかってるでしょう」
ぞっとするほど冷たい声だった。声だけで人を刺すことができるような、一切の感情を排した声。
春子の背中に冷たい汗が一筋流れていった。自分に向けてニックがそんな声を出すことがあるなんて。今尚、傷ついてる自分が滑稽だった。
「はじめろ、ニック」
クインの声が室内に響く。その声を合図に、ニックがふらりと前に出てきた。感情のない目で、春子に近づいてくる。春子は後ずさった。二歩、三歩。
後ろが壁になって、行き止る。春子はそれ以上動けなかった。ニックの黒い瞳に閉じ込められてしまったように、ぴくりとも動けない。
近づいてくる、裸の悪魔。黒い羽が室内を花びらのように舞う。春子の乾いて痛む目にふたたび涙の膜が浮かぶ。
ニック。私の悪魔。
つかの間、二人は見つめあった。夜の海のような闇色の目に、自分が映った。おそらく、自分の瞳にもニックは映っている。まばたきをすると、瞳から涙がこぼれた。
「いいよ」
春子はかすれる声で言った。ニックの目が見開かれる。
もう、いいや。
ふっとため息が漏れる。魂を奪われることは、心を奪われるということと同じなのだとしたら。
もう私はとうに奪われていたのだ。悔しいけれど、この男の思い通りになっていた。
春子はニックの頬を両手で包んだ。無表情だったニックの表情がわずかにゆがんだ気がした。春子はそっと顔を近づけて、ニックの唇に唇をつけた。いつかの両親のやり取りを思い出す。クリスマス・ツリーの飾り付けをさせてくれなかった母親。その母親をたしなめながら、父が言ったなにか。そのあと、母親がとても幸福そうに笑った。
思い出した。お父さんは言ったのだ。
あいしてるよ。
同じことを、春子もささやいた。
一瞬、ニックは子どものように無垢な目で春子の言葉を聞いた。はじめて聞く言葉を、心の中に反芻させているような。
「春子さん。すみません」
さようなら。
最後に彼はそう言った。




